<記者コラム:オトゴト>
 時々、自分が記者であるという立場を忘れて、取材対象に対して感情的になり過ぎるのではと疑い、悩む時がある。感情が生まれるのは人である以上仕方のないことであるにしても、そういうものが変に取材時や記事執筆時に出てしまうと、どうしたものかなと悩むことが度々。もちろんメディアとしての公平性を考えると、ある意味対象に感情を持たない方がいいのかもしれない。客観的な視点で常に見る目というのも必要だろう。

 これまで何度かアーティストやバンドの最後のステージに立ち会ったことがあって、胸の内では気持ち的にやりきれなくなることも多々あったが、例えばアーティストたちにあまり思いを寄せてない様子を見せる、同席した他メディアの取材者や、これまで関わってきたメディアの編集者などがあまりにもドライで、その瞬間に対し笑いすら上げていたのを見て虫唾が走ったこともある。しかし確かに今世に出ているメディアのほとんどの記事は、そういった人の手によるあまり筆者の感情を乗せ過ぎない、ドライな視点で書かれているものが多いようにも思う。

 だが、果たして感情が全く入らないものばかりなど、本当に皆読みたくなるものなのだろうか?当然現場の様子を書くだけということですら、今現在の科学技術をもってしても、おそらくそれは人間にしかできないことだろう。しかし現場の様子を、まるで機械が描いたように描写するだけのものを、人間がやらなければいけない仕事とは思えない。そういった記事だけが蔓延することには、全く意味を感じない。その点では、実はライターなどといった仕事にだって、なにかアーティスティックな面が必要な場面もあるのではないだろうか。

 そんなことを考えることもあってか、この問題はこういった仕事を続けていく上で、ずっと付きまとっていくことになるだろうと考える。その一方でこの問題は、どちらかに思いを寄せて決着をつけるようなことはせず、いつまでも悩み続けることはかえって必要なのだろうと思っている。先日取材した某ドキュメント映画監督が取材時の心得を耳にして、ふとそんな思いにふけっていた。【桂 伸也】

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