その音楽家の情報源「インタビュー記事」の楽しみ方

ミュージシャンの「インタビュー記事」を読むことはあるだろうか。雑誌の記事やネットコンテンツなどで頻繁に目にすることがあると思われる。
そのほとんどは、なかなかの長文。中には1万字、2万字超えというのも珍しくない。その長文っぷりがどれほどのものかというと、本記事は1500字程度の文字量だ。読み切るのに5分程度だろうか。
好きなミュージシャンの記事は、率先してチェックすることがあると思われる。だが、全く知らないミュージシャンのインタビュー記事の場合はどうだろう。恐らく、よっぽどパンチのある見出しでもない限り、スルーではないだろうか。「某音楽人、衝撃の過去をギリギリの告白!」という見出しなどだったら、ちょっとソソられるが。
インタビュー記事は、対象のミュージシャンのあらゆる情報の宝庫。そして、書籍などよりも情報的にダイレクトな性質があり、“フィルター”がそこまでかかっていないため、生の情報に近いのである。発表音源やMVやライブなどは「作品・表現」であることに対し、インタビュー記事は「その者を言語化した情報源」と言っても過言ではない。
ミュージシャンにインタビューをするとき、その場で対話しているので、相手が表現したいことが直接伝わってくる。それは、話している言葉である「言語」と、身振りや表情、間などの「非言語コミュニケーション」を、臨場感をもって共有しているためだ。
しかし、インタビュー記事では、先の臨場感はなくなってしまう。コミュニケーションで感じ合う8割を担うという「非言語コミュニケーション」がまるまるカットされ、文字だけになるためだ。
その代わりに、テキストとして「言語化された濃密な情報」として整理される。「そのミュージシャンの現在の情報を知りたい」のであれば、ライブやCDよりもインタビュー記事がベターかもしれない。情報ではなく、「感じたい」のであれば、音やパフォーマンスを捉えることができる「音源」や「ライブ」だろう。
実際に、対話内容を一字一句漏らさずに文字にしたのがインタビュー記事ではなく(あえてそういうスタイルにする記事もあるが)、対話して感じたミュージシャンの性格やパーソナリティを考慮した上で、理路整然と、情報と伝えたい想いを文字にしたのが、インタビュー記事である。
そこには、書き言葉としての文と、話し言葉としての口語体の文が入り交じり、会話の流動的なグルーヴすら感じるものもあり、センテンスから人柄や思想が理解できるものもある。
「音」や「映像」そして「生演奏」で得られるものは、音と、ダイレクトなフィーリングとミュージシャンの想いだ。そして、そこからは快感や共感・共鳴、恍惚感や多幸感から悲壮感・カタルシスと、情念が得られる。対して、インタビュー記事からは、「情報を理解する」というロジカルな感じ方が得られる。
脳の部位で言ったら、きっと右脳で捉えるか左脳で捉えるか、といったところだろうか。そしてきっと音楽は、脳が処理をする聴覚や視覚、触覚以外のどこかしらでも、良きバイブスを感じられるものだと信じたい。「魂で感じるんだ」「体の中心で捉えるんだ」と、抽象的なことを述べるミュージシャンは多く存在する。
その感じ方ができるアウトプットをおこなうのが、ミュージシャン本人であり、別の角度から直接的解釈が得られるのがインタビュー記事。という視点でインタビュー記事をゆっくり読みふけると、新たな発見や解釈が得られるものだから、源流に「音楽」があるコンテンツは、非常に奥深い。【平吉賢治】
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