見た目だけではない、実力とセンスを有するI Don’t Like Mondays.
INTERVIEW

見た目だけではない、実力とセンスを有するI Don’t Like Mondays.


記者:木村武雄

撮影:

掲載:16年04月01日

読了時間:約15分

ブルーマングループでの経験、秋気

2ndシングル「Sorry」

2ndシングル「Sorry」

――では秋気さんの経歴を。

秋気 ドラムを始めたのは8歳の時でした。兄がドラムセットを買ってきたんです。地元は鳥取で、遊ぶ所もないと言った感じでして。当時、兄貴が“超ヤンキー”で、もう怖くて話しかけられなかったんです(笑)。唯一兄貴とコミュニケーションがとれる手段が「ドラム」だったんです。それで一気に仲が良くなったのが嬉しくて、ずっとドラムを続けていたんです。続けていくうちに自然に「音楽好きだな」と思うようになって。中学校の頃に将来は音楽で仕事をしたいなって思うようになりました。

 それまでは独学でずっとドラムをやっていたのですが、一回くらいは習ってみたいなと思って専門学校に入ったんです。その時にバイトはしていたんですけど、やっぱりお金が足りなくて。親に頼るのも嫌だったので、新聞奨学生を選択したんです。でも実際にやってみると、お客さんからの苦情があれば授業中でも対応しなければというのがあったりして、「果たしてこれは、自分が上手くなれる環境なのか?」というふうに思うようになって、「自分でお金を貯めて学校に入ろう」と思い直しました。

 それで働いていた時に、ブルーマングループのオーディションを見つけて、そこから4年半くらいブルーマングループのバックバンドをやりました。それがちょうど終わるくらいの時に「今のバンドをちゃんとやろうか」という話になって。一方では「ブルーマンをオーストラリアでやるからそこでもやってよ」とも誘われて。人生の中で一番悩んだ決断でした。ブルーマンはもう一生懸命、必死にやってきて、「学べるものは学べたかな」という感じだったので「バンドをやってみよう」と思い、今に至ります。

――ブルーマンの経験で一番印象に残った事は?

秋気 もうあり過ぎて絞れないんですけど、唯一挙げるとしたら「仕事を楽しむ」という意識が凄くて、そこに向けて体制が作られていました。全力で楽しむと言うか。だから僕は仕事をしているというよりも毎日遊んでるという印象が強くて。同僚もみんな家族という認識でいましたし、もちろん上下関係もないんです。まさに仲間ですね。フロリダのオーランドで研修を受けて色々学んだんですけど、「会社としてではなく家族として運営していく」という点が日本でのチームではちょっと上手く機能していなくて、まず最初にそれを変えるような動きがありましたね。それが面白いなと思いました。

――それが今のバンドにも活きている?

秋気 そう思いますね。

――ブルーマングループはまさに至極のリズムの世界。そこでドラムを担当していたということに驚きです。改めて秋気さんの総合力の高さを感じました。

悠 いろいろとタイミングがいいよね。退屈してなくて燻ってないし、隙間がないもん。

秋気 うん。でも新聞(奨学生)の時はマジで大変だった。

数々のアーティストのバックバンドを経験、兆志

――では兆志さんお願いします。

兆志 もともと体が弱いタイプだったんです。勉強もできないし、引っ込み思案で何の特技もなかったのでゲームばかりしてました。小学校3年生の時にピアノを習う事になりまして、学校で弾く機会もありました。でも女の子に上手い子がいたので、その子に負けて「ピアノじゃダメだな」と思ったんです。その頃に親父の知り合いから「Deep Purple」というバンドを教えてもらって、それがきっかけで、ギターにのめりこんだんです。中学1年生で野球をやっていた頃なんですけど、もう「ギターで生きていく」と決めました。

 僕は三重県出身なんですけど、上京するというのがなかなか難しくて。両親も「無理でしょ」みたいな感じだったので、ギターの雑誌のコンテストを受けたんです。「YOUNG GUITAR」とか。それで自分の曲を作って送ったら、トントン拍子に全国大会まで行って、東京で演奏する機会があって「コレいけるのかな?」と思ったんです。両親も「そこまで真剣にやっているなら応援するよ」となりまして。そういった流れで東京に出て来たんです。

 専門学校に通っていた18歳の頃、大手芸能事務所に所属する某人気アイドルのツアーギタリストのオーディションがあって、それを受けに行ったら最後の2人まで残ったんです。結局は落選したんですけど、その事務所の別の人気アイドルのツアーに参加してくれないかと誘われて、そこから仕事を頂く機会が増えました。

 学校ではジャズや様々な音楽を勉強して、レコーディングなどの仕事もしたりして、サポートミュージシャン業をしつつも、ギター講師とかもやり始めたりしていました。それで24歳くらいの時に思ったんです。東京ドームとか大きい所でもやったりしたんですけど、やはりサポートミュージシャンなので、自分が脚光を浴びないというのが張り合いがなくて。そもそも、ギターをやり始めたきっかけというのが「Deep Purple」とか「Aerosmith」とかのロックバンドだったので、「バンドやりたいな」と思ったんです。そんな時に、たまたま知人から「絶対売れるロックバンドがギタリストを募集しているから受けてみたら?」と言われたんです。

悠 (失笑)

兆志 それで、会ってみたらこの3人だったという。彼らと初めてスタジオに入った時は「こんなんでロックバンド? カッコいいのかな?」とか思っていたんですけど、メンバー的にフィーリングが合うと言うか、やっていけるかなと思ったんです。タイミング的にも自分の中で「しっくりくる」ものがあったんです。そこからはバンドでやろうと思って、その他の事を全部辞めて今に至るという感じですかね。

――「フィーリングが合う」との事でしたが、初対面の印象は?

兆志 怪しいっちゃ怪しいというか(笑)。メンバーも、ギタリストの募集に関しては僕だけではなく何人かに当たると言っていたので、僕が「フィーリングが合う」とはいえ、向こうの気持ちもあると思っていましたけど、今こうして一緒にバンドをやっているのは感謝してますよ、僕は。

実はブルーマンのオーディションを受けていた

秋気 ブルーマングループのオーディションで兆志とは1回会っていて、僕はオーディションを見ている側だったんですけど、兆志の姿は本当に印象に残っていたんです。「超」がつくほどのギタリストという印象というか。それから2年、このバンドのギタリストを探す時にブルーマンでやっていたミュージシャンとPAの人から兆志の名前が出て、「覚えてるわ! あの超ロックスターみたいな」と話題になって。

――ギターのテクニックが凄かったんですか?

秋気 ハートが凄かったです。

一同 はははははは!(笑)

秋気 あのオーディションの雰囲気でよくそんなに“ギタリスト感”が出せるなと思って!

――“ロック”ギタリストを求めていなかった?

秋気 そうなんです。与えられたリフを忠実にこなすことを求められていましたが、兆志はそれに加えてバリバリのロックギタリストという感じでパフォーマンスも派手に全力でやっていたんですよ。

――結果は?

兆志 落ちましたね。相手が求めていたものと、こっちが考えていたことが全く異なっていて(笑)

――でも、相手に印象が残っているということはそれだけの演奏力とインパクトがあったということにもなりますからね。

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