宇多田ヒカル楽曲が今もなお愛されている理由とは、「間」の存在
宇多田ヒカルの人間的魅力が楽曲に深みをつける
2001年発表の「traveling」。アシッドハウスをベースにキラキラと展開されるエレクトロサウンド。いわゆる「四つ打ち」系。最もスタンダードなダンスミュージックのスタイルでもある「ハウス」にのせて、宇多田ヒカルのハスキーな低音域の歌声から妖艶な揺らぎのコーラスまで、電子音とテクノエディットサウンド、エレクトロビートにその全ては合致した。
彼女の音楽性、摘み出される言葉、ファッションカラー、どれをとっても飽きのこない魅力がある。それらは「宇多田ヒカル」という人物そのものから間違い無く出されているという説得力がある。「歌詞の当て込み方が感性抜群」等とよく評されているのをよく目にする。
これは、彼女のあらゆる方面に精通する教養や、感情のアルゴリズムが複雑難解かつ明朗である証だと捉える事ができる。とってもキャッチーなフレーズを選んでいても、どこかシニカルに聴こえる歌詞があったり、辛辣な単語を無邪気に歌い飛ばすなど、宇多田ヒカルの感性は底無しに思える。
「First Love」の歌詞ひとつをとっても、曲調にマッチした甘く切ない内容であるが、誰も立ち入る事の出来ない様な感情が、言い表せない部分の琴線をくすぐってくる様で非常に繊細な行間を感じ取れる。
この曲に限らず、どこか陰のある感傷を適度な湿度で表現するという芸術家にとってのハードルの様なものを、ぴょんと跳ねて歌っている様な姿が実に痛快だ。天性か後天的か解らないが、愛嬌と色気を絶妙なバランスで保つ者にしかこれはキメられない。
惹きつける「間の妙」
そして、彼女の特筆すべき魅力の一つとして「絶妙な間」を挙げたい。歌は勿論の事、言葉の組み立てや彼女の表情、動き、「間の取り方」に人を惹き付ける魔力を感じる。楽曲中、歌がほんの少し止まったと思った次の刹那、突っ込み気味のリズムで意識を持っていかれる様な展開、急に話題が変わった様な感覚の構成など、随所にみられる。いわゆる「過度に強調しないメリハリ」が尋常ではないレベルで、全てのパート、要素に含まれている。そして、最も如実に「間の妙」を感じるのは、その歌だ。
呼吸をするかの様に、行間を操りながら人間の根本的な感情を揺さぶる歌声。「間の妙」の感性が丸裸になる種類の音楽として、エレクトロミュージックはこの上ない土壌である。更に多岐に渡る音楽性や他要素をもってして展開される彼女の音楽。見積もりが不能な程に宇多田ヒカルの感性の増幅は続く。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」で使用された「Beautiful World」や2008年リリースの「HEART STATION」など、これらの楽曲でもエレクトロサウンドは心地よく展開されている。
例えば「HEART STATION」を挙げてみたい。
サビ部にある「私の声が聞こえていますか?深夜一時のHEART STATION」という歌詞。■を「間」として以下に表してみる。
「私の声が■聞こえていますか?■深夜一時の■HEART STATION」
「間」を等間隔に置く妙技。深夜の静寂さ、その中で響く主人公の心模様が浮かび上がってくる。
そして2番Bメロの「私のハートのまんなか」という歌詞の部分。明確に言い表すことができない「間」がここにも存在する。ミュージックビデオをみると一目瞭然。この詞の直後のサビ部での宇多田ヒカルの表情の煌めきで直撃する「決して派手ではない凄まじい緩急」に心を奪われる。
宇多田ヒカルの「間」には、休符としてしっかりと持たせる「間」もあれば、僅かに感じさせる「間」もある。いわゆる感情的ゴーストノート。この「間」の絶妙な使い方が、言葉に印象を与えさせる。
映像がなくとも、その情景は浮かび上がり、メッセージとしての残像を聞き手側に残す。ミュージックビデオならば尚更である。しばらく曲を聴いていなくても、すっと口ずさめるのはこのせいではないだろうか。
日本独特の「間」は、美意識の象徴でもある。意識せずとも日本人の体に染みついているはずである。時の流れ、静寂さのなかに身を置き、自身、そして相手との「間」を感じる。宇多田ヒカルの「間」は、歌い手と聴き手の「間」、そして聴き手が歌に重ねる過去の経験を繋げる役割を担っているのではないか。
いずれにせよ、静寂と時の流れを感じる宇多田ヒカルの楽曲が、世代を超えて愛されているのは、以上のことではないかと考えるのである。その「間」を狙い聴いてみると、「宇多田ヒカル」という魅力を再認識できる。