作曲家でシンガーソングライターのマシコタツロウが7日、ミニアルバム『メロディ至上主義』をリリース。マシコは2002年に一青窈の「もらい泣き」で作曲家デビューし、2004年には『歌う声を聞けば』でシンガーデビュー。今作は2005年にリリースしたシングル「三度目の夏子」以来、約13年ぶりのソロ名義での作品。今作はマシコの代表曲である一青窈の「ハナミズキ」やEXILE ATSUSHIに提供した「桜の季節」などをセルフカバー。さらに新曲「旅人」やNTT西日本CMソングに起用された「限りないもの」など全5曲を収録した。インタビューでは楽曲制作へのこだわりや「ハナミズキ」の誕生秘話、「旅人」や「限りないもの」の制作背景、「音楽はつらいけど楽しいもの」と話すプロフェッショナル音楽感など多岐にわたり話を聞いた。【取材・撮影=村上順一】
「ハナミズキ」の制作を振り返る
――2004年にリリースされたデビューミニアルバム『歌う声を聞けば』でもカバーされていた「ハナミズキ」が、今回も収録されていますね。
「ハナミズキ」はありがたいことに、沢山の方にカバーして頂いているんですけど、初めてカバーしたのは僕なんです。今ではカラオケでも沢山の方に歌って頂けて、この場を借りて感謝したいです。
――「ハナミズキ」は実際に歌われてみていかがでしたか。
出だしの音程も低いし、「歌いづらいな」と改めて思いました(笑)。
――当時も歌いながら作られていたのでしょうか。
そうですね。貧乏時代に6畳の汚い部屋で、大きな声は出せないので、隣人に気を使いながらコソコソしながら作ってましたね。その部屋の窓を開けると電柱が見えるんです。そのマンション自体はなくなってしまったんですけど、その電柱だけは現在も残っていて。今もそのマンションの近くに住んでいるので、窓から眺めていたその電柱を見る度に感慨深いものがありますね。
――「ハナミズキ」の制作当時はどのような感じだったのでしょうか。
僕は一青窈の「もらい泣き」で作家デビューしたんですけど、それよりも前に「ハナミズキ」は出来ていました。この曲を作った時は、当時の事務所の社長と食事に行って、ラジオから同時多発テロの情報が入ってきて…。それで社長が「みんなの心が優しい気持ちになれる曲を書いてみたら」と、言ってくれたのがこの曲を作るきっかけでした。
それで、すぐにその夜から制作に取り掛かって、社長が「同時多発テロを見て思うところを書いてみたら」と、一青窈にも作詞をお願いしていて。そして、一青窈が持ってきたスケッチブック1ページいっぱいに「マシンガン」とか様々な言葉が沢山書いてあって。字の大きさもバラバラで、それは文章でも散文詩でもない感じでした。僕にはバラバラにしか見えなかったんですけど、一青窈の中ではそれらの言葉は繋がっていて。それを僕のメロディに落とし込んでいきました。それもあって、「ハナミズキ」は少し不思議な歌詞になっていると思います。
――そういった背景があったのですね。でも、なかなかリリースまではいけず。
一青窈のデビュー曲としてはイメージが違ったみたいで。でも、CD化される前から一青窈はライブで歌ってくれていて、彼女のファンの皆さんが音源化を望んでくれたのがきっかけで、CDとして世に出ることになりました。そのファンの方たちの声がなければ、発売はもっと遅かったか、アルバムの中の一曲になっていたかもしれないです。
――デモの段階から完成形に近かったのでしょうか。
メロディは一緒なんですけど、現在とはまた違う感じでしたね。当時、サックスソロとか出てくるようなAORをよく聴いていたこともあって、お洒落なアレンジでした。それを引き締めてくれたのが武部(聡志)さんで。あと、山木(秀夫)さんが「ハナミズキ」のドラムを叩いて頂いたんですけど、そのグルーヴがこの曲の核になっていると思えるくらいすごかったんです。武部さんの仕事を目の当たりにして、「こうやって纏めるのか」と感動したのを覚えています。見るもの全てが新鮮でした。優しいんだけど刺々しさもあるサウンドが僕はすごく気に入っています。
――20代前半から良い経験をされたんですね。レコーディングでのエピソードはありますか。
当時、僕は夜中にバイトをしていたこともあって、疲れていたのかディレクションをしている武部さんの後ろで、足を伸ばして寝てしまったことがあるんですよ。今思えばなんてことをしてしまったんだと(笑)。
――すごく疲れていたんでしょうね(笑)。色んな方と作業をされていると思いますが、武部さんのプロデュースワークの特徴はどこにあると思いますか。
スーパーせっかちなところです(笑)。指揮官がのんびりやってしまうと現場が引き締まらないんです。それもあって演奏も早く整っていっている感じがします。あと、必ずみんなの意見も聞いてくれて、纏めあげていくスタイルでした。その影響もあって僕もせっかちになりました(笑)。
――しっかりと受け継がれて(笑)。さて、楽曲作りについてお聞きします。マシコさんはどこから楽曲を作り始めていくのでしょうか。やっぱりメロディからですか。
キーボードで曲を作る事が多いんですけど、コード進行というよりはその時の気持ちをコードで鳴らして、そこからメロディを作っていきます。オファーによって変わるんですけど、明るい曲を求められていたら、明るいコードを1発鳴らしてそこから広がっていく感じです。
――お好きなコードやキーとかありますか。
明るいメジャー系のコードが好きですけど、マイナーキーの方が作るのは得意かもしれないですね。僕の曲のなかでキーがCだったらF、4度から始まるものが採用率が高かったり。
――メロディを作っている時は歌詞のことも考えていますか。
何となくは考えていますね。どんな作詞家さんが付くかにもよるんですけど、例えば一青窈だったら、「こういう歌詞を付けて欲しいな」という希望も込めて仮歌を歌うこともあります。でも、彼女は僕が意図した歌詞は全く書かないですね。いい意味で裏切られて来ましたね(笑)。でも、昨年リリースしたベスト盤『歌祭文~ALL TIME BEST~』に収録されている「闇の目」という曲があるんですけど、この曲はイメージ通りの歌詞を書いてくれて、ここにくるまで15年掛かりました(笑)。
――それが面白いところでもありますよね。このキャリアのなかで音楽の捉え方というのは、変化してきましたか。
変わってきましたね。僕は歌うことが苦手なんです。歌うことへの憧れはもちろんありましたけど、特に歌いたいとも思ったことはなくて。2004年の時は「出すなら今しかないよ」と背中を押されて、勢いもあって歌うことになりました。でも、当時は“メロディ至上主義”過ぎて歌詞も何を歌っているのか分かりにくかったですね。当時は取材も沢山受けましたけど、その度に歌詞について聞かれると困ってしまって。それもあって、今は歌詞もかなり意識して作るようになったなと思います。メロディが良いんだったら、それをもっと良くするために、良い歌詞が必要だと思えたことが、大きな変化かも知れないですね。
あと、今になって強く実感したのが、どんな人達が僕のCDを買ってくれているのかというのが、ライブをするようになって、分かるようになりました。良い曲を作って、良いライブをするということの重要性は、理屈では分かっていたんですけど、歌うようになってから身をもって知りました。準備も大変ですし、もっと全体で音楽を見れるようになったというのは大きかったです。