レコード会社に直談判
――一度は心が折れてしまったんですね。
はい。すぐに探し始めたかったんですけど、なかなか気持ちが回復しなくて、本格的に探し始めたのは今年の頭からで。その中でフジテレビ系『ザ・ノンフィクション』という番組の密着取材が入りました。
――レコード会社探しのところからテレビが密着されて。
そうなんです。その後、私に興味を抱いてくださったレコード会社に所属することが決まりました。でも一度は断られまして…。それでまた心が折れそうになったんですけど、諦めませんでした。9月にはアルバムをリリースしたいと思っていたので、がむしゃらでした。当時対応してくださった方が今の担当者なんですけど「どうしてダメなんですか?」とその理由を聞きに行って。そうしたら、私を担当できるディレクターが見つからないとのことでした。あとは、私の音楽がその方には響かなかったのだと思います。結局、会社のトップの方たちに気に入ってもらえないとダメだと思って、直談判しに行きました。
――結果、熱意が伝わってオッケーが出たわけですね。
伝わって9月のリリースのOKが出たんですけど、制作費も宣伝費も出せない、ディレクターも付けられるかわからないという、かなり厳しい契約内容でした。ポスター費用も出なかったので、そこは自腹を切りました。制作費は、音楽出版社と事務所サイド、あともう一社出して頂けるところが見つかり3分割になったので、ちょっと楽にはなったんですけど…。
――負担が減って良かったですね。
9月リリースの確約はもらったものの、宣伝は出来ない、制作費も出ないというところで、周りからは「やっぱりやらない方が良いんじゃないか」とも言われました。その時点でもう4月。9月にリリースとなると5月の頭には結論を出さないと無理で。他のレコード会社の可能性も浮上しましたが、スケジュールを考えるとここしかないなと。マネージャーも「今までもずっとそうだったじゃない」と言ってくれて。小さな事務所でスタッフもいないので、マネージャーが宣伝など1人で一生懸命やってくれたから今があるんです。デビューしてから3年間、応援してくださるメディアの皆さんの存在もあり、制作費など不安は沢山ありましたけど、今回も原点に戻って頑張ろうとなりました。でも精神面、モチベーションの不安が残っていて…。
――締切もありますからね。
その時にはレコーディングも始まっていました。でも本当は、レコーディング前にはレコード会社を決めておきたかったんです。前作「東京恋文」も、デビューシングルも、ディレクター不在ままミックスダウンまでいってしまったので、ディレクターさんがいてレコーディングをしたかったというのが本音です。まさか3社連続、ディレクター不在で音源を制作することになるとは思ってもみませんでした。なので、そこに憧れがあります。結果プロデューサーにディレクションをお願いし、私がセルフプロデュースに挑むことになりました。
――そんな過酷な中、楽曲制作が出来ましたね。どの曲も心に染みる歌詞とサウンドでそんな状況下で作られた作品だとは思えませんでした。
ありがとうございます。表題曲の「悲しみにつかれたら」は10年前にできていた曲でしたが、「メランコリック」や「愛の遺産」「子守唄~娘へ」「大地の祭り」はレコーディング中に作りました。一番きつかったのは、レコード会社が決まらないままレコーディングに突入し、そのやり取りの中で、もがいて、苦しんで、泣いて、怒ってというすごく精神バランスが悪い状態でレコーディングに臨んだので、全く良い歌が歌えなかったことです。
当初の計画では、2カ月でレコーディング、ミックスまで終わらせる予定だったのですが、それが良い歌が歌えなくて半年も掛かってしまって…。その間は喉の調子も悪く、声が出なくなったり、蕁麻疹(じんましん)が出てきたり、ホルモンバランスも崩れて。やっぱり情緒不安定だと良い歌は歌えませんから。それもあってスタジオを押さえてもらっても、調子が悪くてスケジュールを飛ばしたりずらしたりで、エンジニアさんやスタッフの皆さんに迷惑をお掛けしてしまいました。そして、レコード会社が決まった時には、レコーディングはほぼ終わってしまっていました。
――なぜアルバムタイトルを「悲しみにつかれたら」にされたのでしょうか。
2曲目に収録したこの曲は失恋の曲なのですが、収録曲を並べた時に、アルバムを作っている時の私の心境にピッタリの言葉だと思いました。1枚目の『東京恋文』は、初めてのオリジナルアルバムということもあり楽しくて仕方なかったんですけど、今回は苦しくて、辛くて、悲しくて、疲れちゃった…今回の制作の象徴ともいえるアルバムタイトルだなと。番組出演や取材等で「アルバム制作はいかがでしたか」と聞かれる度に、「苦しかったです」と素直に言ってしまうほどでしたから。