音楽は生き様です――、そう語るのはシンガーソングライターの蘭華。レコード会社を3社変えた渡り鳥のような音楽人生だが、「宣伝費はかけられない」という厳しい環境のなかで、自身が夢見たメジャーでのアルバムリリースを追い続けてきた。音楽不況と言われる昨今、かつては全盛を誇っていた歌謡界も今は押されがちだ。J-POPと歌謡曲を融合させた彼女の音楽はどちらかと言えばそれに属する。かつては『日本レコード大賞』で企画賞を受賞したこともある彼女。その半生をみれば今の音楽業界の厳しい現実が見えてくる。【取材・撮影=村上順一】
赤裸々に語る
J-POPと歌謡曲を融合させ、和とオリエンタルなサウンドを取り入れた世界観で聴かせてくれるシンガーソングライターの蘭華は、2015年に「ねがいうた/はじまり色」でメジャーデビューし、翌年にはオリジナルフルアルバム『東京恋文』で『日本レコード大賞』の企画賞を受賞した。近年では歌唱以外に作家活動にも力を入れている。
レコード会社を一度離れ、フリーとして活動後、再びレコード会社と契約。今年9月19日には、押尾コータローや松武秀樹などが参加した約2年ぶりとなる2ndフルアルバム『悲しみにつかれたら』をリリースした。
そんな彼女は昨年末には引退も考えたという。賞をとってもその後が続かず、レコード会社との契約も切れ、次の行き先もなかなか決まらないという現実が彼女の心を打ち砕いた。だが、マネージャーやプロデューサーからの後押しもあり、一念発起し今年の頭には再びメーカー探しとアルバム制作を開始。その中でフジテレビ系『ザ・ノンフィクション』の密着取材もおこなわれ、10月14日と21日の2週に渡って放送される。
リリース毎に挫折感を味わい、順風満帆とは決していえない道のり。なぜそこまでしてメジャーにこだわるのか。
【経歴】2008年、シングル「夢の途中」をリリース。以降、インディーズでの活動を続ける。2015年7月に「ねがいうた/はじまり色」でメジャーデビュー。2016年9月にレコード会社を移籍。初のオリジナルアルバム「東京恋文」が「第58回 輝く!日本レコード大賞」企画賞を受賞した。2017年9月からはフリーとなり、2018年5月に別のレコード会社と新たに契約を結び、今年9月19日にセカンドアルバム『悲しみにつかれたら』をリリース。
頑なにメジャーデビューにこだわってきました
――9月28日に『蘭華 BIRTHDAY LIVE 2018』をおこないました。あの時の心境はどういったものだったのでしょうか?
もう、無我夢中で歌っていました。本編ラスト2曲ぐらいでやっと「私、今ライブをやってる」という実感が湧いてきて。それは、今作『悲しみにつかれたら』のリリースに漕ぎ着けるまでが大変だったということもありますし、プロモーションで忙しくて、ライブに向けての個人練習が出来ず、不安が残るなかでステージに立っていたので…。
――そのライブでは、昨年は引退も考えていたと話していましたが、なぜそのような心境に?
インディーズ時代がすごく長くて、2015年にようやくメジャーデビューすることができました。ただ、デビューできたのは良かったのですが、いろいろとうまくいかないことも多くて…。デビュー前までは、大手レコード会社に所属できれば、宣伝をして売り出してもらえるという期待を思っていました。頑なにメジャーデビューにこだわってきた理由はそこにありました。でも、蓋を開けてみたら「宣伝はできません」とはっきりと言われてしまって。でもそれは、当時の事務所の社長からも言われていたことなので、何となく分かっていたことではあるんです。そういったこともあって、メジャーデビュー前にもいくつかのレコード会社からお誘いをうけていたのですが、上層部の判断で契約までには至りませんでした。
――そのなかでメジャーへの憧れが日に日に大きくなって、不安も抱えながらも飛び込んだんですね。
そうです。改めて「メジャーデビューしたいか」と自身に問うた時に「やっぱり、したい」と。地元の大分でも、母が会う人会う人に「蘭華ちゃん、今も歌を歌っているの?」と聞かれるみたいで。やっぱりテレビとか全国放送の番組に出ていないと、一般の方には私が歌手活動していることがわからない。大手レコード会社のブランド力に期待してました。
それで、2015年にメジャーデビューした時は、レコード会社の知名度やブランド力もあって、メジャーデビューできたことを地元の人も凄く喜んでくれて、大きな文化会館でコンサートを開いて下さったりして。その作品は、セールスランキングで演歌・歌謡曲部門とJ-POP部門にランクインして、そこから少しずつBS番組などにも出させてもらえるようになって、結果的に宣伝に繋がるような活動も出来るようになっていきました。
そのレコード会社当時の担当者は、時間が掛かってもいいからデビュー曲「ねがいうた/はじまり色」が目標売上枚数に達したら次も出せるようにと、掛け合って頑張ってくださっていました。でも結果的には移籍することを選択して。今では、そのまま残って頑張っていたほうが良かったかな、選択を間違えたかな、と思うこともあります。
――それならば、なぜ移籍を選んだのですか?
2015年末頃からオリジナルアルバムを出したいという気持ちが芽生えました。デビューシングルもまだ目標売上枚数にも達していなかったのに、シングルを飛び越えてアルバムという話は難しいかなと。アルバムは制作費も余計に掛かりますから。担当者にアルバムを出したいという思いはぶつけましたが、やっぱり難しかったみたいで…。その担当者には心から感謝していましたが、歌手としてのステップアップを考えたときに、2016年中のアルバムリリースは重要だと考えて。それで、アルバムをリリースしてくれるレコード会社へ移籍するという形になりました。
――一度思ったら曲げないんですね。
確かに、そういうところもあります。次のレコード会社が私のデモを聴いてくれて、アルバムリリースを即決してくださいました。そこからトントン拍子にアルバム『東京恋文』をリリースすることができて、移籍したレコード会社は宣伝してくださいましたし、事務所も同様に頑張ってくれたおかげで、『日本レコード大賞』で企画賞を頂くことができました。でも喜びも束の間、そこでも壁にぶつかりました。通常、レコード会社のプロモーション期間は大体、リリースから1カ月ぐらいなんです。それではアルバムを売りつくすことはできないと思いました。そして、レコード会社には、プライオリティアーティストというものが存在していて、残念ながら私はそこに入っていなかったんです。それもあって11月の頭にはプロモーションが終了し、その後が続かなかったんです。
――あとは自然に売れるのを待つしかないと。
せっかく賞を頂いてもそこで止まってしまうんですよ。そこから売り上げを伸ばしていくために、もっとプロモーションをしたかったというのがあります。事務所も「もっと宣伝して欲しい」ということをレコード会社に伝えてはいたのですが、レコード会社と私たちとの温度差があってギクシャクしてしまったんです。
最初に所属したレコード会社(2015年)はCD1枚毎の契約でしたので、次のレコード会社は1年という期間契約をさせていただきました。それもあって2ndアルバムを出したいという計画も去年の春から考えていて。でも、私を気に入ってくださっていた制作の方が担当から外れてしまって。その人事をみた時に「ここではもうアルバムリリースはない」と察しました。それに加え、レコード会社の方向性が、歌謡曲や大人ミュージック系ではないところに向かっていたというのもあって、契約を更新せずに離れることにしました。
――そこはもう諦めたと。
私としても作品を出すごとにレコード会社を変えることになるとは思ってもいませんでした。本当は一つのところで根を張ってやっていきたいと思っていましたから。本当は去年中にアルバムを出したかったんですけど、メジャーの厳しさを知ってしまい、モチベーションも下がってしまって制作に入れませんでした。実は『日本レコード大賞』の企画賞を頂いた時に、あるレコード会社から「ウチに来ないか」と声をかけてもらいました。演歌・歌謡曲系を大切にして下さっている会社だったので、そう言って頂けて本当に嬉しかったんです。
でも、その時はまだ前のレコード会社との契約が残っていたので、契約が満了する時期に機会があればお話しを聞いてみようとは思っていました。「うちは宣伝もしますよ!」とその時に言ってくださったので。それで、そのタイミングがきて、マネージャーにそのレコード会社へ連絡を取ってもらって、移籍の話を進めようと思いました。そうしたら「私と近い音楽スタイルの新人が入ってきて、その子に宣伝を集中させているので私のリリースは難しい」と言われまして…。まさか断られるとは思っていなかったので、そこでものすごく傷ついて、去年後半は音楽活動を辞めようかと本気で悩んでいました。
――タイミングが難しいですね。
そうなんです。引退と言わないまでも、活動は一旦お休みしようかなとプロデューサーとマネージャーに相談しました。昨年の7月にはあんなに出したいと思っていた2ndアルバムも、「もう出したくない」というところまできてしまっていました。「でも、せっかく1stアルバムで素晴らしい賞を頂いたんだから、もう一枚頑張って作ってみようよ」と励まされ、新作を待ってくださっているファンの方や、これからの活動を楽しみに応援してくださっている方々に成長した姿を見てもらいたいと思い、再びレコード会社探しを始めました。