小室哲哉の引退に関する報道が続いた先週は、いろんなことを考えさせられた。小室自身のこともさることながら、報道する立場にある自分は、自分たちの報道するものにどう責任を持って対処していくべきなのか。また、小室がこれまで世に残してきたものとは一体何だったのだろうかと。

 そんな中で、小室の不倫報道に関して、多くのメディア批判が降り注いでいる。その発端は、特に小室の不倫疑惑という点に関しては、果たして報道すべきだったのか否か? 結論から言ってしまうと、そこには明確な答えは出せないと考える。

 90年代に隆盛したTKブームは去ったがその影響力は今もあり、そのメロディを聴いたり、あるいはカラオケで歌いまくったりと、その音楽は体の一部になるほど染み付いた人も、少なくないのではないだろうか。

 個人の事情は別として、彼の作った音楽の特徴に触れ、感動したことがあるからこそ、彼が引退を発表した際に、往年のファンを中心に多くの人が、SNSなどで“やめないで”と訴える結果にいたったのだろう。

 本来はそういった作品の評価と、個人の事情などは完全に分けてもいいのでは、と考えたいところだ。何か聞こえた音に強い印象を覚え、自分の頭から離れなくなる瞬間というのは、同時にその音楽を作った人の個人の事情などを考えるわけはない。

 音の魅力に惹かれたからこそ、自分の中にその印象が残る。そういう意味では、どんな人間だろうと出来たものに関して良いという評価が下せるのであれば、そこは切り離して考えられるべきではないか、と個人的には思うところもある。

 ただ、単純に見過ごすだけでも、当然マズいものでもある。完全に切り離せるかと思えば、例えば何らかの不祥事で、その音楽が一気にその説得力を失うこともある。また、音楽以外の観点にしても然りだ。するとそこには、やはり何らかの報道義務は出てくることだろう。

 では、何かを伝えようと思ったときに、どこまでそういった内容を公表していくのか? もし公表していくことが必要と考えたのであれば、そこは自分の意志を持ち、時には“世論に叩かれようが、こういった話を出すべき”と、信念をもって立ち向かっていかなければならない。

 流されるだけでなく、自分の意思を明確に持つこと。アーティストは自分の作品にそういうものを考えるが、それはマスコミという立場でも同じだ。そうは言っても、だからといってどんな基準が設けられるべきかは、永遠に答えのない問いを探しているようでもある。

 強いて答えを出すとしたら“自分なりにちゃんと悩んで、そしてその事実を報道するかを考えたのか?”そんな点に行き着いていくのではないだろうか。その意味では、今回の報道批判に対して、必ずしもNGかとたずねられると、実は報道されなければならないと思われた点を改めて掘り下げておく必要はあったのではと考える。今回の事態は、当事者のこと以外の点として、メディアに携わる者の、核心を突くような重要な点に触れられた気もする。【桂 伸也】

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