「ビューティフル・ヨコハマ」などのヒット曲で知られる、歌手の平山みきが今年5月に、1995年以来約20年ぶりとなるツアーを開催、歌手業を本格的に再始動させた。ハスキーな歌声とクールな容姿で若い男性を中心に人気を集めた。デビュー当時はヒット曲の多くが筒美京平氏作品であったため「筒美京平の秘蔵っ子」とも言われた。なかでも自身の代表曲「真夏の出来事」はレコード売上50万枚を記録。昭和歌謡を彩る名曲として今も多くの歌手にカバーされている。今年11月のデビュー45周年を控え、7月20日には前記「真夏―」をセルフカバーした新曲「真夏の出来事~ナウ・アンド・ゼン」を発売。当時流行したサーフロックサウンドを表現するため、中シゲヲ率いるザ・サーフコースターズが演奏、当時と今をシンクロさせる爽やかなナンバーに生まれ変わった。一方、私生活では東京から京都に住まいを移し、充実した日々を送っているという。小媒体では今回、彼女にインタビュー。京都暮らしやデビュー当時の心境を前編に、45年歩み続けてきたなかで感じる音楽シーンの変化と「真夏―」への想いを後編とし、2回に分けて紹介したい。
京都で向き合う自分の時間
――上京されたタイミングでこうしてお話を伺っていますが、現在のお住まいは京都に?
京都に住んでもう30年くらいになります。ですので、東京と行ったり来たりして活動をしています。3年ぐらい前までは東京にも家はありましたが、全部、京都に移しました。だから気持ちは京都の人間です。行ったり来たりしている時はあっちかこっちか自分の中でもはっきりしてない事がありましたが、今は京都から通っているという感じです。
――両住まいですと落ち着かない気もしますが、当時はどのような心持ちでしたか?
家庭用品も衣装もあちこちにあったんです。安い物だったら同じものを2つ揃えてもいいのでしょうが、しっかりした衣装などはどちらかにしかないんですね。「ああ、あれが必要だ」となってもそう簡単に取りに行けませんからね。感覚的に安定していないというのがありました。今は東京で何か仕事があるとすると、京都から衣装などを揃えて出てくるんです。だから今の方が「“家”に帰った」という感じがあるかもしれません。
――京都と東京では土地柄も人柄も違うと思いますが、京都はどういうところでしょうか? 外地の人を芯からは受け入れないという説も聞いたことがありますが。
それはないと思います。住まいを東京か京都かどちらかにしようと考えた末に京都を選んだのは、京都の人が受け入れてくれたから。少なくとも私はそう思います。受け入れられているから居やすいし、友達もいっぱいいる。私は、休日の時にお寺や神社に行くのが楽しみなんです。方位を見るのも大好きで、方位が良い日にそこに行くんですね。神社の境内で2時間くらいボーッとして、それが気持ち良くて凄く良いんですよ。
――境内は静寂性もあって空気が研ぎ澄まされた感じがしますね。
京都は沢山の神社がありますよね。その方位に神社が必ずと言っていいほどある。私が住んでいる所から上賀茂神社(編注=正式名・賀茂別雷神社、世界遺産登録)へは歩いて行ける距離なんです。そこに行って2時間くらいボーッと。神社の方とも喋っていると、何か気持ちが楽になりますね。悩んだ時もそうですが、良い「気」の時に行くんですね。その代わり、都心ではないので良い方位に喫茶店がなかなかなくて。神社よりも喫茶店を探す方が大変なんですよ。
この前は、西の方位が良いと聞いたので、家からずっと西の方に歩いて行きましたが、それが何もないんですよ。30分くらい歩いて見えてきたのが山(笑)。これ以上、歩き進んだらヤバいと思ったんですよね。道はあって向こうからはバイクも走ってくるけど、道が凄く細くて…。これ以上行ったらどうなるか分からないので、引き返してきたんですよ(笑)。違う方向に行きながら色んなものを見て「無いよね、喫茶店が…」と。結局、買い物だけして帰ってきちゃいました。
東京だったら渋谷に行ってもいいし、どこへでも行けるんですけどね。京都の中心地ではそういう事もないけど、私の住まいがちょっと外れた所にあるので、喫茶店を探すのに一苦労。でも、緑が沢山あって落ち着いていて凄く環境が良いんですよ。
自然に触れて感じた「マイナスはない」
私は東京生まれ東京育ちなので、小学校の頃は昆虫採取をやったことがない。だから京都に引っ越してきて何を楽しんだかという昆虫採取だったんです。採取と言っても“剥製用”の採集ではないですよ。薬の注射を射すのも嫌でしたので、採った昆虫を写真に撮って収めておいて。虫がいっぱいいて凄いんですよ。蛇もいますし。違う所に住んでいた時はベランダに蛇がとぐろを巻いて鉢の中にいたんです。こっちを見てるものだからどうしようと思って、餌をあげたんです。
ほら、蛇って卵をよく食べてるじゃないですか? 冷蔵庫から卵をとってきて蛇の所に行ったら、もうそこにいなかったんですよ。「でもまた戻ってくるかな」と思ってそこに卵を置いといたんです。そうしたら知ってる人が来て「蛇が卵を産んでる!」って騒ぎになって(笑)。
――はははは!それはビックリしますね。
「それ私が置いた卵よ!」とは言ったけど、それまで皆が蛇が卵を産んでいると思っていて(笑)昆虫採取とかは凄く好きなものですから、今では、高い所で蝉が鳴いていると木のどこにいるかすぐ分かるんです。後ろから手で捕まえられるんですよ。採ってきた色んな虫は水槽に網を張ってその中にを入れておいたりするんです。逃がす前に全部を揃えて写真を撮ろうと思って置いておいたんです。そうしたら、その中にカマキリもいて、他の虫が食べられていたんです。その時はそれはもうショックで…。カマキリが他の虫を食べるとは知っていたんですけど「まさか…」と思いましたね。現実を見てしまったのは初めてだったので。それからは「カマキリは一緒にしておいたらいけないな」という事を勉強しました。
――カマキリの一件の様に、ご自身の失敗談から活かされた教訓はありますか?
それはいっぱいありますよ(笑)。色んな失敗や悩む事は沢山あります。ただ、それらは何もマイナスではないという事を最近分かりました。若い時はあまり経験がないから「失敗しちゃった」と悩むけど、この歳になってくるとそういう事を経験してきますよね? そうすると「あの時の失敗があったから今がある」と思えば何にもマイナスではないし、悩む事もマイナスではないと思うんです。だから最近ちょっと悩んだり「失敗かな」と思っても「次に行くステップかな」と思うので立ち直りは早いかもしれません。
――先ほど方位の話をされていましたが、土地には鬼門があって、徳川家康は東京の鬼門となるところに神社仏閣を建てたという話があります。例えば浅草寺とか。
それは京都でもそうですよ。私の家は、鬼門の所に上賀茂神社があるんですけどね。鬼門はとても大事に考えています。京都の家は皆、南天が玄関に植えてある事が多いんです。私も南天を植えていて、東京の時も南天を植えたり鉢を置いたりしていました。なぜかというと、嫌な夢を見たりすると南天の所に行ってその夢の話をするんです。そうすれば、南天が嫌なものを取ってくれるから良いというんです。「難を転じる」というわけで「なんてん(南天)」なんですね。
――よく現代社会では精神性が希薄になってきていると言われていますが、京都ではそうした精神性を重んじる習慣がいまも引き継がれているのでしょうか。
私はもともと東京の人間で、父と母も東京にずっと長い間いるんですが、私の実家では行事などはあまりやらなかったですね。東京も風習はありますが、京都の場合はお盆になるとお寺に行って、まず先祖の御塔婆を書くんです。それを2組持って先祖が来るお寺に行って、鐘を叩いてお先祖を呼ぶんです。水を流す所があって、そこで槙(まき)の葉で叩いて一つは持って帰って、もう一つはお供えしてくるんです。それで帰ってきてお迎え火を焚いてから4、5日間の朝昼晩ごはんを作ってお供えするんです。
お供えのものを全部包んで、近所にお寺があってそこに置いてある段ボールに返してくるんです。昔は鴨川にそれを流していたんです。その後に五山で送り火があってご先祖様を送るんです。東京はそうした習慣が無くなっているようにも感じます。帰省してその土地でその習慣をやる。東京だと花火大会などはありますけどね。京都の場合で言えば、そういうのを知らず知らずのうちに皆やっているんです。私は、東京の人だからそういうのを知らないで京都に行って、色んな事を教えてもらったんです。今は正月から神社に行ってお参りしたり、朝集まって「おめでとうございます」と言うのもあるし、七草粥もあるし、小豆粥があったりとか。豆まきもありますね。豆まきはしていますか?
――小さい頃はやっていましたが、今ではやっていないですね。そういえば、福茶とかもありましたね。
もともとやっている家は続けているかもしれませんが、やっていない家はこの先もやるのはなかなかないのかなと。今、ある時期に海苔巻きを食べるじゃないですか? あの習慣はコンビニから全国に広まっていきましたね。諸説ありますが、本来はそういうものではなく、その土地その土地の風習として形成されているんです。海苔巻きを海苔屋さんが始めたというのがあって、私も初めて関西に行って無言でその年の良い方位に向かって食べるというのをやりましたけど。(編注=恵方巻の発祥時期は江戸や大正と諸説あり。大阪で生まれた)。その習慣がだんだん全国に。私が東京に居る時はありませんでしたからね。
――バレンタインデーは百貨店が広めたのと似ていますね。
家で代々続いていた豆まきの作法がありまして、大きなしゃもじを一人が持って、一人が戸を開けて「鬼は外」と言うんです。そうしたら一人が戸を閉めなければいけないんです。開けておいたら鬼がまた入ってきてしまうので。言った直ぐに戸を閉めて、私がしゃもじを持たされていたら「ごもっとも、ごもっとも」と言うんです。それを玄関を回って窓を回って色んな所でやるんです。それで今度は「福は内」をやる。その時も「ごもっとも、ごもっとも」と言って回るんです。
そういう事をやるのは何か恥ずかしさもあって。それを実家はみんなやってると言うんです。自分の家が続いているものだから外の事はあまり知らないんです。みんなしゃもじを持ってやっていると言うから、それを私のラジオで言ったんですけど、そうしたら「やってない」という家と「うちはすりこぎを持ってやっている」とか様々な“習慣”が寄せられて。その家その家で代々続いていて「ごもっとも、ごもっとも」も1回だけのところもあれば、3回など色々あるんですよ。
――その家庭ごとにそういった習慣があるということですね。
代々続いていくうちに変わっていっているんでしょうね。そういう事に対しては手を抜かないようにしようと思っています。
「真夏の出来事」当時は日本に活気があった
――習慣化されているから疑問には感じないけど、子供ながらに「きっとこれはこういう意味があるんだろうな」と考えていると思います。あるテレビ番組で永六輔さんが、今の楽曲の歌詞は「書きすぎる。良い時代の歌詞は書きすぎない」と仰ってました。
そこから「読み取る」訳ですよね。
――平山さんの楽曲「真夏の出来事」からもそういった点が感じられます。
もう古いからね(笑)。46年前だったりしますからね。私たちが出てきた時代の歌って、好きとか嫌いとかの歌詞が多かったんです。それがだんだん「元気になろう」とか「君を守っているよ」とか、そういう歌にはなってきているなと思いますね。だから単純に「会いたい」とか「あなたが好きだけど、捨てられちゃって悲しい」とか、そういう歌詞が多かったですね。それが私たちの時代の「歌」でした。
――「真夏の出来事」を今回改めて歌い直して、曲への印象や捉え方が変わった点はありますか。
「真夏の出来事」という曲は昭和の時代だったし、歌もメロディも歌詞も昭和の時代もいいなという事は思います。「昭和って良かったな、楽しかったな」と感じますね。今みたいに夢がないとかではなくて、私たちが若い時はすごく夢があったんです。今思うと、写真とか見て戦後に近いような雰囲気はあるけれど、あの時代はそんな事は思っていなくて、もうどんどん新しい事が入ってきて、明るくって、そういう時代だったんです。当時の若い子は海外に行く事が一つの夢だった。アメリカに行きたいとか本場ディズニーランドに行くとか。でも今は行けちゃってるんですよね。“頑張って行こう”ではなくて。そうするとそれが「夢」ではないんですよね。そこに行きたいという夢があれば、もっと働いてそれを叶えようというのがあるけれど、それがないのがかわいそうだと思う…。
――今はインターネットも発達して何でも簡単に調べることができ、写真や映像などはある程度入手できてしまいます。現地に行かなくても行った気になってしまう。それは善し悪しがあって。だからこそ、ある程度規制がないとダメだという声も聞かれます。人は、制限があるなかで才能が開花できるとも。
昔はいろんなものが「情報」としても無かったから、その情報が入ってきた時に、発想力のある人はそこからまた、情報を違うものや想像を膨らませて大きくしていって。与えられたものをその場で消化しないで、それを更に広げていければ良いのかなとも思いますね。使い方だと思います。私もネットで調べますしね。例えば京都の事を書く時は、人から聞いてきた事でも違う所があるといけないから一応調べますよね。調べたい情報はだいたい出てきますよね。昔だったらそれを本を買って調べないといけなかったから、楽になりました。
筒美京平氏と橋本淳氏が見抜いた不良っぽさ
――平山さんのデビュー当時を知る男性に当時の平山さんの印象を伺いました。その方は「凄くクールで綺麗。少し斜に構えていた感じで。あの声や雰囲気は今思えばレコードにぴったりだったなあ」と目を輝かせていました。
大人になりたかった時代ですかね。その時代は。クールと仰ってましたけど、当時は全然意識はしていなくて、もともと雰囲気がこういう感じだったんですが、私はまじめな人間でして。お酒は飲まないし、煙草は吸わないし、夜遊びはしないし、別にそこに興味がある人間ではないんですよ。でも、中学校とかでは不良に見られるタイプだったんですね。
小学校から中学校になる時に一番最初に声をかけられたのが番長だったんです。その番長は留年しているからいくつか歳が上なんです。中学校でボーッとしていたらその番長が「名前なんて言うの?」と。みんなは私の事をそういう人だって思っていたんですね。でも、全然そういうタイプではなくって。デビューした時は私が蒲田の番長だとかそういう風に言われてたりしましたけど。
違う小学校から来た子がいて、その子はちょっと不良だったんです。その子も私に声をかけてきたんです。別に悪い子じゃなかったから仲良くなったんです。その子の話を聞くと、先輩に屋上に呼び出されて怒られたりしたって言うんですけど、私はそういうのは無かったんです。ひな祭りの時に、その子が番長の事が好きだって言うから私が番長を呼んだんです。そうしたら不良ではない普通の子達も混じっていたんですけど、番長来ましたよ(笑)。
あと卒業の時の事なんですけど、壇上で卒業証書をもらう時に名前を呼ばれて歩いていったら皆が笑うんです。「何で笑ったの?」って終わった後に聞いたら「すっごい不良みたいな歩き方だった」と言うんです。だから、そういうものは元々持っているんだと思います。自分では分からないし、意識もしていないんですけど。
デビューしても自分ではそういう所は意識していないけど、筒美京平さんと橋本淳さんは私のそういう所を見たんでしょうね。だからああいう歌を作ったんだと思うんです。「夜遊んでる」とか「カッコいい女」という歌は、私がそういうものを出せると思ったんだと思うんです。だから別に斜に構えている訳じゃなくて、怖いんです。真っすぐに見られないんですよ。だから下を見ちゃったりとか、真ん中に行きたくないんです。いつも端っこに居るとかいうところが、見ている人は「ちょっと変わってる」という風に見られたのかなと。私の分析ですね。
――ハスキーだからいっそうその雰囲気は出ていたかもしれませんね。
そうですね。
意味は知らなかった、歌詞は音という解釈
――筒美京平さんの方から「真夏の出来事」をこういう風に歌ってくれというような要望はありましたか?
一番最初はもっとテンポが遅かったんですけど、あの時代は凄く早いと言われたテンポだったんです。そのリズム感を大切にというのがありました。今からしてみると凄く遅いんですけどね。もともとリズム感は良い方だったので、そのリズム感だけを気にするように言われてレコーディングしました。橋本淳先生には失礼な話ですけど、歌詞の内容は把握して歌っていないんです。だからああなんだと思います。詞の内容を把握してたらもっと違う歌い方だったと思います。
私のなかでは、メロディと音、詞は全て「音」なんですね。だから「苦しいわ」という歌詞も、そんなの苦しいわと思わずに譜面の中で歌っているので、感情がどうこうというのではないんだと思います。だから、間違えた歌詞はずっとそのまま覚えたまま。歌詞ががっちりとした物語ではなかったので、意外とどこに行っても繋がってしまう。一番と二番がニュアンスは違うけれど、同じ意味だったりしたから、あっちいったりこっちいったりしても分からなかったりして(笑)。
「恋のダウンタウン」なんて全然意識しないで歌っていたら、「何かが違う」と言われて、それでちゃんと歌詞を意識してちゃんと歌うようにしたんだけど、今度はいきなり一番の歌詞を二番で歌ったりとかしちゃって。それでも話が通じるからそのまま歌ったり。みんなも気付いていなかったんだと思います。でも最近はちゃんと歌っていますよ(笑)。
――歌詞の意味も最近改めて向き合ったという事でしょうか。
そうですね。と言いますか、怒られますからね、橋本先生に…。
「真夏の出来事」との闘い
――当時の音源を聴いて思うのは、その“意識していない感”、これがクールに聴こえるという要因だと思いますが、それが格好が良くて。
感情移入はしてないんですよね。それがクールという風になるのかもしれないです。
――デビュー間もなくして「真夏の出来事」がヒットして、一躍人気となられましたが、それ以降の苦悩はありましたか。
誰しも陥る事だと思いますが、「真夏の出来事」がヒットして、それしかないと思われるのが嫌なんです。ライブで「真夏の出来事」をどこに持ってくるか、という所にも意識します。最初に持ってくるか、真ん中か、最後か、と葛藤しながらいつもライブをしていました。でもその時点で「真夏の出来事」を意識しているんです。だから歌わなくなっちゃう時もあるんですよ。「もうあれは封印する。歌わない。もう新しい事をやってるんだから」と。私も封印して「真夏の出来事」を歌わない時期がありました。
それでもだいぶ前になりますが、テレビで「真夏の出来事」を歌わなくてはいけない時があって、久々でしたから全く歌詞を忘れてしまって分からなくなっていたんです。「すみません! 歌詞間違えてます!」ってスタッフの方に言われて。画面上に歌詞のテロップが出るんですよね。だから、間違えているといけない。その時、出演者やスタッフの皆が待っているのに4回くらい間違えたんです。そうしたら「一番最後にやりましょう」という事になったんです。書いてくれた歌詞を見ながら歌いましたね。それからはちゃんと歌わなければいけないと思いましたけどね(笑)。
――それ以降はコンスタントに歌うように?
やっぱりだんだん大人になってくると分かるんですよ。大事な歌だし、ヒット曲があるのは恵まれているし、凄いことじゃないですか。これがあるから私は今、歌っていると思ったんです。
後編は2016年9月16日掲載予定
(取材・木村陽仁/撮影・村上順一)
◆平山みき 昭和24年8月22日生まれ、東京都大田区出身。蒲田中学校から日本音楽学校に進み歌のレッスンを始める。昭和42年、銀座の音楽喫茶「メイツ」オープンに伴いメイツ・ガールとしてステージに立ち、そこでコロムビアにスカウトされる。昭和45年、「ビューティフル・ヨコハマ」でレコードビュー。2作目の「真夏の出来事」が50万枚の大ヒットとなり一躍人気歌手となる。現在も独特の歌声は変わらず、ライブやショーに出演中。また、京都在住で「滞在型観光客」と自身のことを呼ぶ程の京都愛好家。京都に関する著書やCD等も発売している。
◆ザ・サーフコースターズ(The Surf Coasters) 日本のインストゥルメンタルロックバンド。ギタリストの中シゲヲを中心に1994年に結成、1995年にレコードデビュー。往年 のザ・ベンチャーズを髣髴させるサーフ・ロック・サウンドを身上とする。2004年、2005、2008、2014年にアメリカツアーを敢行。
作品情報
2016年7月20日
平山みき「真夏の出来事 ~ナウ・アンド・ゼン」
COCA-17198/1,389円+税
▽収録曲
1、真夏の出来事 ~ナウ・アンド・ゼン
歌=平山みき
伴奏=The Surf Coasters
作詩=橋本淳/作曲=筒美京平
編曲=中シゲヲ
2、ビューティフル・ヨコハマ 2016
歌:平山みき
伴奏=The Surf Coasters
作詩=橋本淳/作曲=筒美京平
編曲=中シゲヲ
3、太陽の下の18才
歌=平山みき
伴奏=The Surf Coasters
作詩=ルチアーノ・サルチェ
訳詩=あらかはひろし
作曲=エンニオ・モリコーネ
編曲=中シゲヲ
4、<ボーナス・トラック>
真夏の出来事
歌=代官山ミラクルキャバレー
作詩=橋本淳/作曲=筒美京平
編曲=田上陽一
5、<ボーナス・トラック>
恋はあせらず
歌=代官山ミラクルキャバレー
作詩・作曲=エディー・ホーランド-ブライアン・ホーランド-レイモン・ドジャー
編曲=田上陽一
ライブ情報
平山みき with ザ・サーフコースターズ「ビューティフル」
▽日時 2016年10月7日(金)開場18:30/開演19:00
▽会場 Mt.RAINIER HALL SHIBUYA
▽問合 キャピタルヴィレッジ(電話)03-3478-9999
一般発売
チケットぴあ(Pコード:300-857)
ローソンチケット(Lコード:75408)
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