運命を変えた武道館

[写真]クイーン日本で2度ブレイク(1)

1975年クイーン初来日時の武道館ポスター(提供写真)

 そしてクイーンにとっても運命をかえる1975年4月17日がやってくる。18時25分。ホノルル経由のJAL061便で羽田国際空港に降りたったメンバーは到着ゲートを出て腰を抜かす程、驚いた。初来日する自分たちのアイドルを一目見ようとする、およそ1000人の女性ファンでロビーは隙間なく埋まっていたのだ。悲鳴と歓声がどよめく殺気だったロビーを抜け、這々の体で東京プリンスホテルにたどり着くとそこにも数百人のファンが出迎える。翌18日は同ホテル内で記者会見が行われ100人近くの報道陣が詰めかけ、その後は歓迎のレセプション・パーティー。前述したように、この時点でクイーンはデビュー3年目の新人バンドだ。初めて訪問した地で、このビートルズ並みのVIP扱いに彼らは大いに戸惑うが、もちろん悪い気はしない。新人外タレ相手にここまでする。まさにこれこそが渡辺プロダクション流の「おもてなし」だったのだ。

 4月19日(土)はジャパンツアー初日の武道館。あのビートルズがコンサートを行った会場でもあり、彼らにとって経験した事のない最大級のホールだ。実際のところは満員完売とはいかず各方面に招待券をまいて動員を図り、見た目には満員にさせた。メンバーに恥ずかしい思いをさせたくなという渡辺プロ流の配慮であった。続く地方公演も動員面では、けっして芳しくはなかったが、記者会見や日本滞在の様子がTVや新聞で報道され、口コミ効果もあって最終日の追加公演の武道館(5月1日)はなんとか満員になった。日本のファンの応援に応えるようにメンバーはアンコールで着物を着て登場。ファンを大いに喜ばせた。

 興行的には成功とはいえなかったが初のジャパンツアーだったが、世界に先駆けてクイーンを売る! と決めた渡辺プロの慧眼は、以降のクイーンにとって大きな影響を及ぼす事になる。日本で経験した一連のスーパースター扱いが、彼らをいい意味で勘違いさせた。帰国後、条件面で不当な待遇を受けていた所属プロダクションのトライデント社に対して契約見直しを訴え出る。交渉は粘り強く続けられ8月には晴れてトライデント社から独立を勝ち取る。長らく悩まされていた契約問題も解消し、日本での成功もあってこの頃の彼らはデビュー以来、初めて平穏の時間を過ごせたといえよう。精神的な余裕はクリエイティブ面に反映される。この夏彼らは、後に歴史的名盤となる『オペラ座の夜』の録音に入る。1975年10月31日、アルバムからのリードシングル『ボヘミアン・ラプソディ』が発売され4週目にして初の1位を獲得。11月21日に発売された『オペラ座の夜』は3週目に1位になり、以降44週に渡ってチャートインする大ヒットとなり、クイーンは一挙にスーパースターの仲間入りを果たしたのである。収録曲『預言者の歌』には日本のファンに貰った“おもちゃの琴”を使用しているクレジットもあり、日本のファンは大いに喜ばせた。

世界で最初にブレイクした日本

[写真]クイーン日本で2度ブレイク(3)

世界で唯一シングルカットされた『手をとりあって』(1977年5月25日発売)

 翌1976年3月、クイーンは再び日本の地を踏む。2週間の滞在で6都市11公演(大阪や福岡では昼夜2回公演も!)という強行スケジュールの中であったが、今回は全公演即日完売の大盛況。世界で最初にブレイクさせた国は我がニッポン!という自信と誇りが当時のファンの間にはあり、再び日本中でクイーン・フィーバーを巻き起こしたのである。

 もちろん、これは日本からの一方通行的な思いではなく、クイーンにとっても日本は特別な国という意識があった。1976年12月10日(日本発売1977年1月9日)にリリースされた5枚目のオリジナル・アルバム『華麗なるレース』のジャケットを開いて、それこそ腰を抜かさんばかりに驚いた。アルバムラストに、なんと日本語の曲『手をとりあって(Let Us Cling Together)が収められていたのだ。当時、日本で人気のあるミュージシャンが日本語の詞で歌った曲をリリースする事は珍しくなかった(あのポリスですら発表している)。しかしいずれも日本のみでの発売で、オリジナル・アルバムに日本語曲を収録するアーティストは誰もいなかったのだ。ああ! クイーンは私たちの事をこんなにも思ってくれていたんだ! と我が同胞は大いに溜飲を下げたものである。その効果あってか同アルバムは初のオリコン初登場1位となっている。

 以降、クイーンは『伝説のチャンピオン』『ウィ・ウィル・ロック・ユー』『バイシクル・レース』といったヒット曲を連発し世界規模のトップスターへの階段を上って行く。

 歴史に「たられば」は無いと言うが、もし1975年の初来日公演で、あれほどの歓待を受けなければ、クイーンの成功はもう少し時間がかかっていたかもしれない。唯一の弊害といえば日本ではアイドル的な売れ方をした為、クイーンが男性ファンに敬遠された事であろうか。実際は相当数いたのだが、男子がファンとは名乗れない風潮が当時はあった。しかし、この時期の受難を乗り越えた隠れ男子ファンは後に続々とカミングアウトし、2004年に巻き起こった第二次クイーン・ブームを支えるのである。

 次回、後編ではフレディ亡き後、クイーン活動再開のきっかけになったかもしれない日本での第二次クイーン・ブームについて取り上げる。  【寄稿・石角隆行(六角堂)】

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