MOOK「クイーン ライヴ・ツアー・イン・ジャパン 1975-1985」刊行に際し、クイーン全6回の来日の全50本の公演、86日間の滞在を振り返る。【石角隆行(クイーン研究家)】

 クイーンはフレディ・マーキュリー存命時に計6回の来日を果たしている。1975年の初来日以降、6回のジャパン・ツアーでは全50回のコンサートが行われ86日間、日本に滞在した。その行動記録を写真とデータで綴ったMOOK本、「クイーン ライヴ・ツアー・イン・ジャパン 1975-1985」がシンコーミュージック・エンタテイメントより2月14日(木)に発売された。シンコーミュージックといえば、日本でのクイーン人気を支え続けた音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の出版社だ。このMOOKの編集にあたり同社の倉庫に眠っていたフィルム・アーカイブから未公開の写真を大量に発掘。全430点の中には今まで見たこともないクイーンの写真が数多く収録された。ライブの写真はもちろん、リハーサル風景、オフショットの写真など、来日年度別に収録された膨大な点数には目を瞠るばかりで、ただただ圧巻される。

 このMOOKの魅力は写真もさることながら、その詳細なデータ資料。音楽ライターの西江健博が1969年のクイーンの前身バンド「スマイル」結成から、1985年のライブ・エイドまで、クイーンの歴史を6つの章に分けて執筆。特筆すべきは全公演毎のセット・リストを掲載している点。6回の来日公演での各日の演奏曲をほぼ網羅した貴重なデータだ。

 又、クイーンが日本に滞在した86日間の行動記録は不肖、私が編集を協力させて頂いた。当時の雑誌、ファンクラブ会報や関係者の取材で収集した情報を元に、可能な限り滞在時の行動を明らかにしている。メンバー個々のプライベートの様子を窺い知る事が出来る、こちらも貴重な資料だ。

 ここではクイーンの6回の来日を、MOOK「クイーン ライヴ・ツアー・イン・ジャパン 1975-1985」に収められた写真の見どころと共に年度毎に振り返ってみる。

 (クイーン来日時の写真:KOH HASEBE)

1975年/4月17日〜5月2日

1975年4月24日/京都観光

 クイーンがはじめて日本の地を踏んだのは1975年4月17日。この時点で彼らは3枚目のアルバム「シアー・ハート・アタック」を発表し「キラー・クイーン」がヒットして知名度が上がり始めた頃。とはいえ、ホール・クラスでヘッドライナー・コンサートができるようになったぐらいで、まだまだデビュー2年目の新人バンドであった。そんな彼らを羽田空港で待っていたのは1000人を超えるファン。さらに、かつてビートルズがコンサートを行った日本武道館での単独公演を含む7公演(後に追加公演が出て計8公演に)がブッキングされていた。大勢のプレスが押しかけた記者会見、各地での厚遇と、いきなりのトップ・スター扱いにメンバーは驚き、かつ大いに戸惑った。

 これを仕掛けたのはミュージック・ライフと渡辺プロダクション。元々は硬派な音楽雑誌であったミュージック・ライフだが、クイーンを紹介すると彼らのルックスの良さに女性ファンが食いついた。同誌に掲載されるたびに反響が大きくなり、レコードの売上も伸び始めた。当時のクイーンの日本でのレコード会社、ワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)は渡辺プロダクションの系列。この新人バンドに芸能興行師としての勘が働いたのか、渡辺プロは来日公演の招聘を決断。ある意味、大博打であったが、来日するやTVを中心とした積極的なメディア戦略を展開。当時の洋楽アーティストでは極めて異例なプロモーションではあったが、これが功を奏し初日こそ完売しなかったが公演を重ねる度にクチコミが広がり最終日には武道館を追加したほどの大盛況となった。この初来日を機にメンバー(特にフレディ)はすっかり日本びいきとなり、日本とクイーンとの親密な関係がこの時から始まったのである。ちなみに「伝説のチャンピオン」は、初訪問した日本での興奮をフレディが帰国の機上で書いている。レコーディングされたのは、もう少し後にはなるが。

 MOOKでは名古屋城や平安神宮での観光風景、移動中の新幹線内やツアーバス内で寛ぐメンバーの写真等も掲載。

1976年/3月20日〜4月8日

1976年3月30日/パシフィックホテル東京にて行われた来日記者会見

 クイーン初来日公演の大成功はメンバーを、いい意味で"勘違い"させた。日本で自信をつけた彼らは帰国後、不当な扱いを受けてきた事務所、トライデント社を相手に粘り強く交渉を続け、1975年8月に晴れて独立を勝ち取り、エルトン・ジョンを手がける敏腕マネージャー、ジョン・リード(映画「ボヘミアン・ラプソディ」にも登場!)と新たに契約を結ぶ。悩まされ続けてきた契約問題が解決し、日本での成功もあって、この頃の彼らはデビュー以来もっとも精神的に安定した時期を過ごせた。こうした心の余裕から生まれたのがアルバム「オペラ座の夜」。シングル「ボヘミアン・ラプソディ」は空前のヒットなり、名実ともにトップスターとなって凱旋を果たしたのが1976年の2度めのジャパン・ツアーだ。

 3月20日、JAL061便にて19時20分に羽田空港に到着した彼らを、再び大勢のファンが取り囲む。2回目のツアーは18日間で6都市11公演という強行スケジュール。大阪や福岡ではクイーンの長いライブ史上でも初めての昼夜2回公演というアイドル歌手なみの興行も行われた。これはメンバーも辛かったようでフレディは体調を崩し、温厚なブライアンが2度とやりたくないと取材でこぼしたほど。さて、このコンサートでファンの関心は、あの複雑な曲「ボヘミアン・ラプソディ」をステージでどうやって再現するかに絞られた。このツアーでは、コンサートのオープニングにオペラ・パートがテープで流れロック・パートにメンバーが登場し「オウガバトル」になだれ込むというメドレー形式。続いてはコンサートの中盤。まずバラード・パートが演奏され「キラー・クイーン」〜「ブラック・クイーン」をメドレーで挟み再びエンディング・パートに戻るという解体形式で演奏されていた。現在知られるスタイルになるのは1977年1月からの北米ツアー以降だ。これはこれで貴重では「ボヘミアン・ラプソディ」ではあったが。

 よく知られるフレディのステージでの着物姿は、この日本公演から始まった。初めて披露されたのは、3月22日の初日武道館公演。アンコールに着物をガウンのようにまとって登場。途中、着物をパッと脱ぎ捨てると、その下はホット・パンツ。そのセクシーな姿に多くの女性ファンも悲鳴をあげて大喜び。この時の好リアクションに気を良くしたのか、着物の衣装は後のヨーロッパ・ツアーでも度々登場した。

 MOOKでは歓迎レセプションで鏡開きをするメンバー、ファンに囲まれてサインに応じるフレディに機材や楽器の写真を掲載。コンサート会場で興奮したファンをロープを張って懸命に押止める警備員を撮った1枚は、当時のクイーン・ファンの熱狂ぶりが伝わってくる

1979年/4月11日〜5月7日

1979年日本公演(撮影日、撮影場所:不明)

 75年、76年と2年続けて来日した彼らだが77年の日本公演はなく、がっかりしていたファンを喜ばせたのはアルバム「華麗なるレース」に収められた日本語曲「手をとりあって -Let Us Cling Together-」だ。当時、洋楽アーティストが日本のファン向けに日本語詞で歌うシングルをリリースする事はよくあった(あのポリスが『ドゥドゥドゥ・デ・ダダダ』の日本語詞をリリースしてたほど)。しかし、世界共通のオリジナル・アルバムに、しかもラストに日本語曲が堂々と入っていた事に、日本のファンは誇りに思ったものだ。クイーンは私たちを忘れてないと。ところが翌年も来日がない。この時点で「愛にすべてを(Somebody to Love)」、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」「バイシクル・レース」といったメガ・ヒットを量産。やはりクイーンは日本を忘れたのかと、諦めムードが漂う中、3度目の来日公演が発表された。3年振りのジャパン・ツアーは滞在日数27日間、全15本のコンサートとクイーン全6回の来日公演史上、最大の規模となった。機材は欧米のツアーと同じものを船で搬入。ピザ・オーヴン"と呼ばれる数百個のライトが埋め込まれた巨大な照明ボードが、ゆっくりと開いていくオープニングは鳥肌が立つほどのカッコ良さ。従来の聴かせるロック・コンサートから、聴かせて見せる本格的なエンターテイメント・ショウの到来をまざまざと見せつけてくれたのだ。ファンの間でも1979年のツアーの素晴らしさはいまだに語り草になっているほど。

 さて、このツアーで多くのファンが待ち望んていたのは「手をとりあって -Let Us Cling Together-」の演奏だ。しかし初披露はツアー4本目の4月20日大阪公演。前日の19日にリハーサルで初めて試され、日本語詞にフレディは悪戦苦闘。結局、ピアノの横にカンペを張り出すという奇策に出た。ブライアンがピアノを弾き、その側に寄り添うように歌うフレディ。ファン感涙モノの美しい2ショットだが、これは例のカンペを見るための苦肉の策。ちなみに、この日本語曲は毎回演奏される事はなく、セットリストに入れるかは、あくまでもその日の気分だったよう。

 MOOKでは成田空港に到着したメンバーや、武道館の剣道稽古場にいる姿が収められている。又、日本武道館のコンサートでは、ステージを真上や真後ろから撮った珍しいマルチアングル・カットも収録。

1981年/2月9日〜2月20日

1981年日本武道館(撮影日不明)

 4度目の来日は日本武道館5公演のみで地方公演はなし。5本のコンサートで滞在12日間というのは異例の長さ。これは、このツアー直後に控えるバンドにとって初の南米公演に備える休養も兼ねていた。この頃、南米のスタジアム・クラスで公演を行う欧米ミュージシャンは皆無でクイーンが初挑戦。結果、最終公演地のブラジル・サンパウロでは2日間に25万人以上の観客を集め、単独アーティストでの動員記録を樹立。公演数に比べると長い滞在日数だった理由は、前人未到の南米ツアーに挑む前に、最もリラックス出来る地、日本で十分な休養と充電を取るためでもあった。

 滞在中、2月10日にはフレディを除く3人で映画「フラッシュ・ゴードン」の試写会に参加したり、国立競技場で開催されていたサッカーのノッティンガム・フォレストvsナシオナル・モンテビデオ戦に観戦に行ったりと、休日をゆっくり楽しんでいる。一方、フレディは相変わらずの買い物三昧。この頃、日本美術に対する造詣は専門家なみになっており、浮世絵版画、陶磁器、古美術などを爆買いしていた。

 コンサートではアルバム「フラッシュ・ゴードン」リリース後という事もあって、「フラッシュのテーマ」はもちろん、同アルバム収録のインストゥルメンタル曲までをも演奏。しかし、ファン期待の「手をとりあって -Let Us Cling Together-」は最終日(2月18日)のみであった。

 MOOKでは映画「フラッシュ・ゴードン」試写会レセプションの模様、武道館のリハーサル風景に楽器や機材の写真などが収められている。

1982年/10月17日〜11月4日

1982年10月25日/新大阪~名古屋の新幹線内で駅弁を食べるフレディ

 5度目の来日公演は日本で初となるスタジアム公演(阪急西宮球場、西武ライオンズ球場)2公演を含む全6公演。同年5月にリリースされたアルバム「ホット・スペース」は、ソウルやブラック・コンテンポラリー色を全面に押し出した意欲作ではあったが、ファンには受け入れられず商業的には失敗に終わっていた。ジャパン・ツアーは同年4月にスタートした全欧、全米ツアーの最終公演地。「地獄の道づれ」が全米チャート1位を獲得したことで、アメリカ市場を意識したブラック・ミュージック色に舵を切ったアルバム「ホット・スペース」であったが、肝心のアメリカでも受け入れられず、地元ヨーロッパでも批判の的に晒された。このアルバムは、メンバー間に亀裂を生み、けっして良好ではない状態で臨んだのが82年のジャパン・ツアーだった。事実、この日本公演の後、クイーンは1973年のデビュー以来、初めての活動休止を発表。イギリスのメディアは解散かと色めき立ったが、メンバーは表舞台に一切出ず沈黙を守った。もっとも日本では、そんな不穏な空気はおくびにも出さず、連日圧巻のパフォーマンスでファンを魅了。特に10月24日の阪急西宮球場公演は、開催が危ぶまれるほどの強風の中、メンバー、オーディエンスが一緒になってたいへんな盛り上がりをみせた。この日のコンサートは後にブライアン・メイがベストアクト! と語ったほど。

 MOOKにはブライアン・メイが息子のジミー君の手をつないで福岡空港のサテライトにあらわれる姿、西宮球場でのリハーサル風景、新大阪〜名古屋間の移動中に駅弁を食べるフレディ、10月22日に大阪で開かれた記者会見のショットなどが収められている。

1985年/5月6日〜5月16日

1985年日本公演/演奏を終えステージを降りる4人より(撮影日、撮影場所:不明)

 フレディ生前最後の日本公演となったのが6回目のジャパン・ツアーだ。前回の(82年)来日時も活動休止になるほどに追い込まれていた彼らだが、この最後の来日ツアーの頃も英メディアから解散かと、実しやかに囁かれていた。この辺りの詳細は別項「クイーン最後の来日は解散寸前のライブだった!」(https://www.musicvoice.jp/news/20150515026849/)をお読み頂きたい。さらにフレディが85年4月に初のソロアルバム「Mr.バッド・ガイ」をリリースしたことが解散の噂に拍車をかけた。バンドのボーカリストがソロ・アルバムを、しかも他のレコード会社から発表するという事は、過去の様々なバンドの経緯からみても解散と考えるのが自然。まさに映画「ボヘミアン・ラプソディ」で描かれた、あの状況で起きていたのだ。もっとも、この来日時にミュージック・ライフの取材を受けたフレディは解散の噂を真っ向から否定をしてはいるが、事実、日本公演の後のスケジュールは全くの白紙。2ヶ月後のライブ・エイド出演がなければ解散まではいかなくても、再び長期の活動休止になっていたかもしれない。

 さて、そんな不穏な空気流れる中での来日だったが、これまでも困ったときに頼るのは世界でいちばんの親クイーン国、日本。フレディは美術品やお気に入りの日本のDCブランドのショッピング、夜は連日行きつけの新宿2丁目のバー。日本公演の前に訪れたオーストラリアで、スキューバ・ダイビング中にサンゴで怪我をしたブライアンは連日、都内のサンゴ毒に詳しい医者を尋ねての病院に通い、渋谷の専門学校では初のギター教室も開催。ロジャーとジョンは六本木や青山のディスコ/クラブに毎夜繰り出す。メンバー各々が、それまでの傷を疲労を癒やすように日本での滞在を存分に楽しんでいた。

 MOOKではミュージック・ライフの単独取材を受けるフレディ、青山レコーディングスクールで生徒の前でギター講座を開くブライアン、レコード会社主催のファンとの懇親会でのスナップ等が収められている。

書籍概要

QUEEN LIVE TOUR IN JAPAN 1975-1985
クイーン ライヴ・ツアー・イン・ジャパン 1975-1985
判型:A4判/頁数:320ページ

写真:長谷部宏
The History Of QUEEN 1969-1985 & SET LIST:西江健博(音楽ライター)
Tour Diary In Japan:石角隆行(クイーン研究家)
本体価格:3,000円(+税)
発売日:2月14日

<QUEEN LIVE TOUR IN JAPAN 1975-1985/紹介HP>
https://www.shinko-music.co.jp/item/pid1647238/

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