類い稀なる歌唱力と人並み外れた声量

[写真]渡辺美里の魅力とは(2)

渡辺美里と言えばライブとも。圧巻の歌唱力でファンを魅了する

 渡辺美里はロックだけを歌ってきたわけではない。バラードやジャズ、童謡など幅広いジャンルにも挑戦してきた。歌唱力も日本屈指の実力を持つ。ハスキーな声質で低音から高音まで幅広い音域を持ち、高い音も声が細くならずに太く安定している。日本人離れした歌唱力を有する。ライブでもそのピッチの安定感と力強さは変わらず、聴くる者を圧倒する。ピッチに関しては、3歳から習っていたピアノが音感を鍛えたのではないかと言われている。

 歌唱力は、デビュー当時の声質と比べると、明らかに太い声になり、音域も広がっている。それはデビュー以来休むことなくレコーディングやライブで歌い続けて出来上がった声だと関野氏は語る。歌唱テクニックはむろんのこと、声量も人並み外れている。レコーディングでは、あまりの声圧からスピーカーを飛ばしてしまったこともあるという。

過去の失敗で生んだ徹底的なケア

 その声を保つためにどのような取り組みをしているのか。ホテルやスタジオ、楽屋には真夏でも加湿器2台常備し、マスクやストールを首に巻くなど喉のケアに余念はない。テレビ出演で1曲しか歌唱しない時であっても、ライブに挑むかのように本番に向けてスタジオで発声する日を必ず設けてコンディションを整える。ファンに最高の歌を届けるため、ストイックでプロフェッショナルな彼女の姿がここにある。

 そこまでストイックになるのは理由がある。デビュー間もない時に、ハードなスケジュールで喉を壊してしまい入院、ライブを延期してしまった事がある。そうした後悔の念から、最善を尽くせるようにシビアに管理を行う姿勢になったようだ。長く歌い続ける為には人並み外れた努力をしなければならないというのが渡辺美里の姿でみえてくる。

 そして、レコーディング時には香りを焚く。その楽曲に合わせたアロマを自身で調合して持参するほどだ。時にはその香りから楽曲のイメージをスタジオミュージシャンに伝えることもあるそうだ。そのアロマとの出会いは初めてロンドンに訪れた時。まだ、日本ではあまり知られていない時代だった。

ターニングポイントとなったオーケストラ

 30年というキャリアの中でターニングポイントはあったのだろうか。その質問に関野氏は、99年に行ったオーケストラとのライブを挙げた。02年に発売された自身初のカバーアルバム『Cafe mocha うたの木』を制作するきっかけとなったライブで、Bunkamuraオーチャードホールで新日本フィルハーモーニーオーケストラと共演した。

 「21世紀に持って行きたい音楽を」をテーマに、洋・邦楽問わず選曲を始めたが、コンサートの音楽監督を務めたクライズラー&カンパニーの斉藤恒芳氏から「初めてフルオーケストラを従えてコンサートを行うんだし、みさっちゃん(渡辺美里)の楽曲にも21世紀に持って行きたい曲いっぱいあるでしょう」という提案から自身の曲中心で行うことになったという。

 そのコンサートタイトルは『うたの木』と名付けられ、オリジナル楽曲の制作、そのアルバムを携えて行うコンサートツアー、スタジアムやアリーナでのコンサートなどの活動を木の幹と例えて、そこでは中々表現できないことを木の枝とし大きく広げていきたいという意味が込められている。

 99年のオーケストラライブ以降『うたの木seasons』と題した春夏秋冬の動揺、唱歌を歌ったミニアルバム、映画音楽、ジャズアレンジを中心としたライブなど、渡辺美里が歌う事によって、これまで渡辺美里を聴いてこなかった音楽ユーザーにもアピールすることができた。ルーツに戻って色々な楽曲を歌いたいという思いがより強くなり、活動の幅が広がるきっかけとなった。

スタジアムライブと美里祭りの違い

[写真]渡辺美里の魅力とは(3)

5月に大阪で行われた『春の美里祭り』のもよう

 渡辺美里といえば、スタジアムライブのイメージが強い。実際、デビュー翌年の86年から05年まで、西武球場(現西武ドーム)でのライブを行っていた。当時はもはや夏の風物詩とまで言われるようになっていた。一度は10回目で終止符を打つかと思われたが、10回目のライブで西武球場のグランドを一周した渡辺美里は、ステージに戻ってきた時に「ゴールテープが見えると思っていたが、まだ道が続いているように見えた」と語っていたという。結果的には20回という大記録を残し、西武球場のライブは終幕した。

 それに変わり、翌年の06年には『美里祭り』と題したコンサートが始まった。この『美里祭り』は、「ファンには毎年、西武球場に来てもらっていた。ならば今度はこちらからファンに会いに行こう」という主旨で始まった。第1回は富士山の麗、山中湖シアターひびきで行われた。こけら落とし公演ということで当時は話題となった。美里も「ここなら西武ドームも許してくれるよね」と語っていたという。それぐらい、西武球場に敬意を表し、スタジアムライブの後継イベントとして慎重に場所選びをしていた。

 今年の美里祭りは5月2日、デビューした記念日に大阪城野外音楽堂で『30th Anniversary「春の美里祭り 30th Revolution」』というタイトルで行われ、現在は30年目にして初めてとなる47都道府県を巡るツアー中だ。このツアーには『美里祭り』というタイトルこそ付いてないが、気持ちは美里祭りを全国に持って行く意気込みで行われている。このツアーでライブに初めて訪れたという昔からのファンも多いという。スタジアムから美里祭りに切り替えた意味が大きく表れている。

 スタジアムと『美里祭り』は同居出来ないのか――、という質問に関野氏は「86年から20年間、1年のスケジュールはスタジアムライブを中心に組まれていました。ニューアルバムの発売日、新曲もスタジアムライブを意識した楽曲を制作したり、スタジアムの開催日から逆算して調整していたほどでした。実は06年からも『美里祭り』の会場探しなど、1年以上前から準備が始まり、開催日を意識したスケジュールを組んだりとスタジアムと美里祭りに掛けるエネルギーは変わりません。86年から20年間は同一会場で、06年からはいろんな場所で『美里祭り』を開催しているということですね」

ニューアルバム『オーディナリー・ライフ』

 『オーディナリー・ライフ』は前作『Serendipity』から4年ぶり、30周年という節目にリリースされた。オリジナルアルバムとして通算19枚目となる同アルバムは豪華作家陣を起用し制作された。デビュー当時から参加している大江千里やSPEEDのプロデューサーで有名な伊秩弘将、その他にも初コラボレーションアーティストも多数参加。ポップロックバンドのWEAVERや一風堂の土屋昌己などが名を連ねている。

 渡辺美里は30年たった今だから出来たアルバムだと語る。聴いた印象を表すならば、ベストアルバムのようなバラエティーさがありつつも、一貫した芯を持ったアルバムと言える。アルバムのオープニングを飾る「鼓動」のようなアレンジがシンプルな楽曲では、美里の優しい声が生々しく伝わってくる。「青空ハピネス」のアレンジでは「18歳のライブ」や「My Revolution」のBメロが入っていたりと粋な計らいも。

 『オーディナリー・ライフ』は一流のミュージシャン達による良い歌と良い演奏を高水準で実行出来た1枚に仕上がっている。一見当たり前のことだが、これをしっかり出来ているアーティストも最近は少ないと筆者は思う。流行を追求したとかではなく、何年経っても色褪せない後世に残る楽曲が集まったアルバムとなった。

 レコーディングとライブという歌手にとって重要な2点に重きをおいて30年。常に120%の力を出し切る為にやれることはすべてやってきたという。これからまた35年、40年と時を重ねて行ってもそのスタンスは変わることはないだろう。そして、常に進化し続けて行く渡辺美里が、この先どのような歌を届けてくれるのか、30周年イヤーはまだまだ続いていく。

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