シンガーソングライターの阿部真央が2019年1月にデビュー10年を迎える。等身大の歌詞が若い世代を中心に支持を集め、現在も若者向け動画投稿アプリでは当時の歌がよく使われている。この10年、彼女は多くの節目を迎えた。声帯手術に出産…。1月23日にリリースされる10周年ベストアルバム『阿部真央ベスト』は、この10年の歩みが曲から分かるドキュメンタリーとも言える内容だ。「コミュニケーションをするための手段だった」という音楽は今もその存在意義は変わらない。音楽家として、母として、女性として。阿部真央が歩んできた道とは。【取材=木村陽仁/撮影=冨田味我】
変化の連続だった10年
「正直、不安でした」
その気持ちはステージに立った時に消えた。まばゆい光の向こうに見える多くのオーディエンス。迎えられた気がした。
阿部真央、28歳。2009年1月に「ふりぃ」で鮮烈デビューを果たした彼女は、等身大の歌詞と感情をむき出しの歌声で若い世代を中心に人気を集めた。しかし、その歌唱スタイルは喉に負担をかけた。喉を傷め、声帯手術を受けることなる。その代償は大きかった。それまでの歌声を失った。
その数年後に結婚、出産。1年間の活動休止からの復活。
「正直、離れていったファンはいました。でも、付いてきてくれるファンのためにも歌い続けていきたいと思いました」
彼女にとってこの10年は「変化」の連続であり、変化と向き合ってきた年月でもあった。
感情むき出しの歌唱スタイルの源は“怒り”
「私にとって音楽は人と繋がれる手段でした」
3歳の頃に祖父に「歌が上手だね」と褒められた。その時の嬉しさが「歌うこと」の原体験となっている。小学5年生の頃には祖父に連れられ、公民館で開かれた50人規模のカラオケ大会に出場した。大勢の人前で歌うのは初めて。多くの拍手を浴び湧き出る喜びと嬉しさ。
「聴いてもらう喜びを初めて感じたのが3歳。そして、このとき歌が好きだと思えた瞬間でした。歌手になりたいという気持ちも芽生えたのもこの頃です」
コミュニケーションは得意な方ではない。友達も積極的に作れるタイプではない。接着剤の役割を担ったのは音楽だった。
「楽器を弾いたときに周りが喜んでくれたことが凄く嬉しくて。なんだか自分の存在を認めてくれた気がして、共感を得られていることに喜びを感じました」
人と繋がる手段だった「音楽」はやがて多くの人と繋がり出す。
高校生の時、楽器屋の店長に進められてオーディションを受けた。そこで奨励賞を得た阿部は大手レーベルからメジャーデビューすることになった。喜びを噛みしめての上京。しかし、憧れの東京で待っていたのは「孤独」。
「音楽を始めたきっかけが、『喜んでもらえる嬉しさ』だったのに、それがいつしか見失っていました」
右も左も分からないデビュー当時。本来は彼女中心で進められていくはずの音楽制作などの話が、知らないところであれよあれよと進んでいく。
「誰を信じて良いか分からなくなっていました。頭の整理がつかなくなって、いつも誰かと戦っているような感じ。その怒りや感情はライブでぶつけて…怒りは良くも悪くも物凄いパワーを生むから、当時の私に惹きつけられたものがあるとしたら、そういうことが理由だったと思います」
転機となった声帯手術
そんな彼女に転機が訪れる。声帯手術だ。怒りに任せて歌うスタイルは多くのファンを魅了したが、その反面、喉に大きな負担となっていった。まさに身を削りながら歌ってきた代償だった。
「声質が変わることが一番怖かった。実際に変わってしまって高い音が出にくくなって…。離れていくファンもいたし、ショックだった。何より歌えないことへのフラストレーションがありました。でも、復帰後におこなった日比谷野音でのステージで大声援を受けて、声質は変わったけど、受け入れてくれて。その時に見失っていたものを思い起こせた気がして」
声質を失った反面、手にしたものもある。忘れていた「喜んでもらうための音楽」「繋がるための音楽」という気持ちだ。声帯手術後の2012年に現在のスタイルが確立する。この年、アヴリル・ラヴィーンの日本公演にサポートアクトして、ONE OK ROCKのライブにゲストとして出演する。そして、初のホールツアー『阿部真央らいぶNo.4』を実施した。
このホールツアーで初めてセルフプロデュースした。バンドメンバーから照明、PAに至るまで全て自身で人選した。その基準は「愛情があるか、いなか」。
「愛情があるということは相手の事を考えてくれて、ちゃんと伝えようとするし、行動しようとしてくれる。バンドやライブはコミュニケーションが大事だと思います」
その姿勢は歌詞づくりにも表れている。もともと喜んでもらえたことで好きになった音楽。17歳の時に初めて歌詞を書くようになったが、その頃から「誰にでも分かる言葉を」と難しい言葉は極力避けた。「相手に喜んでもらうために、相手の視点で考える」。その思いがライブ作りにも表れたかたちだ。
そうして迎えた初ホールツアーは大成功だった。全15公演で3万人を動員した。得たのは数字だけではない。
「信頼できる仲間と一緒に作っていったこともあり、気持ちに余裕がありました。ライブで怒りをぶつけていたと話したように、それまでは力技で通しているところがありました。でもホールではそれは通用しない。声帯手術が結果的に良い影響を与えてくれました。それまでの経験と余裕がうまくかみ合い、音楽に集中して届けることができました」
そして、考え方も変わった。
「人は変わっていくべきだということに気づきました。変わっても良いんだ、と。音楽をやっている人は必ず向き合わなければならないものがあります。よく言われるのが『昔の方が良かった』。でもその気持ちも乗り越えられました。昔の声はちゃんとCDで残っているし、変わった自分を、ありのままの自分をそのまま表現していけばいいって」
道が開けるようにそれ以降の彼女は精力的に活動を展開していく。桜井和寿とGAKU-MCによる「UKASUKA-G」がFM802「ACCESS!」のキャンペーンソングとして制作した楽曲「春の歌」のレコーディングに、槇原敬之、KREVA、ポルノグラフィティ岡野昭仁、吉井和哉らとともに参加。映画『小野寺の弟・小野寺の姉』主題歌書き下ろしやAimerに楽曲提供するなどをおこなった。自身も4枚のシングル、1枚のアルバムを出した。
だが、順風満帆に見えた音楽活動も再び転機が訪れる。
出産したことで得た安心感
2015年に結婚と妊娠を発表した。ツアー中での突然の発表だった。ツアーは最後まで全公演を回ったが、周囲に迷惑をかけた。出産から産休。そして、離婚。1年ぶりに復帰することを決めたが、不安があった。
「ファンの皆さんが受け入れてくれるか心配でした」
ステージに立った彼女。目の前に広がるのはオーディエンスの声援だった。
「実際、集客は落ちました。でも応援してくれる人たちを大切にしようと思いました」
彼女を強くしているのは、ファンだけでない、子供の存在も大きい。
「出産によって強くなれました。あの痛みを乗り越えたらなんでも大丈夫という気持ちですね。なにかがあっても息子の顔が出てきて、『一人ではないんだ』と力が湧いてきます」
そんな変化は楽曲にも表れている。2017年にリリースしたアルバム『Babe.』はそれまでの鬱憤を晴らすかのような痛烈な楽曲が並ぶ中で、「母である為に」など母親になった心境をしたためた楽曲が収録されている。そして、それまで実体験をもとにした楽曲づくりをテーマにしていたが、この作品をきっかけに「フィクション」を織り交ぜた楽曲も作るようになる。2018年リリースのアルバム『YOU』でそれが顕著に表れた。
「伝えたい思いは変わらずに、ストーリーやシチュエーションはフィクションでも良いのではないかと。それと、それまではアンタッチャブルで、破滅的な歌を歌ってきましたが、それは寂しさの裏返しだったのかなと今になっては思えます。ファンに支えられ、息子ができて満たされる安定感。そのなかで自然とハッピーなものを書きたいと思えています」
音楽が人と繋がる手段――。その役割は今も変わらない。
「私にとってはかけがえのない手段です。音楽だからこうやって皆と繋がれた。改めてファンの方が大好きですし、心からありがとうと伝えたい。変わりたくて変わったわけではないけど、変わることは悪い事ではないんだと思えましたし、受け入れてくれる人のために頑張ろうと思っています」
インタビュー終わり、彼女は優しい目を向け、こんなことを漏らした。
「私自身もこんなに変われるなんてびっくりしているんですよ。不思議ですね」
祖父の喜ぶ顔を見て歌うことに喜びを感じた小さな女の子。25年後もこうして歌い続けているとは思ってもみなかっただろう。もがき苦しみ、心に傷を負い、それでも歌うことを諦めなかった彼女は今、多くの人に支えられ、そして大好きな音楽を通じて繋がっている。