古典に触れて自己更新 山中千尋から見た米社会、フェミニズム
INTERVIEW

古典に触れて自己更新 山中千尋から見た米社会、フェミニズム


記者:小池直也

撮影:

掲載:18年06月27日

読了時間:約11分

 ジャズピアニストの山中千尋が20日、新作アルバム『ユートピア』を発表した。この作品はクラシックの巨匠であるレナード・バーンスタインとジョージ・ガーシュウィンをトリビュートしたもの。両名の有名曲に加え、バッハやシューベルト、ドヴォルザークまでもが山中らしい視点でアレンジされ、収録されている。前作「モンク・スタディーズ」でもセロニアス・モンクを取り上げた彼女が、古典を大切にしている事は疑いの余地がない。実際に山中自身も「過去と自分を重ね合わせて、より違う表現にトライしたい」と語った。しかし、米・バークリー音楽大学で教鞭をとりながら、若者に対し感じるのは「古典がない」事だという。さらにアメリカを中心に盛り上がる女性運動について、女性ピアニストとして何を感じているかも気になるところ。日本人女性ジャズピアニストから見た今の世界とは、新作を踏まえ山中千尋にインタビュー。【取材=小池直也/撮影=冨田味我】

白鳥の原体験はアグレッシブで怖かった

山中千尋(撮影=冨田味我)

――新作『ユートピア』について、コンセプトなどありましたら教えてください。

 今回は自分のレギュラートリオでピアノをがっつり弾きたいという気持ちがあって、生誕120周年を迎えたジョージ・ガーシュウィン、生誕100周年を迎える作曲家レナード・バーンスタインを取り上げました。クラシックの作曲家というくくりになっているこの2人ですが、有名な曲が多いので、どこまで遊べるか、飛躍できるかと考えて作っています。

 特にガーシュインとか、バーンスタイン自身もクラシックやジャズとかにとらわれず、自由な表現をしていたアメリカの音楽家です。そういう先人の精神から、自分も枠にとらわれずに楽曲をアレンジしたいなと。知っている人が多ければ多いほどやりがいがあるので、そういう視点からも選曲しました。

――それはセロニアス・モンクをトリビュートした前作『モンク・スタディーズ』に共通するところもありますね。

 モンクの場合は、彼の世界自体がかなりユニークですし、ジャズミュージシャンにとって聖域でもあります。アレンジしづらい雰囲気もありますが、敢えてそこに挑むという感じでしたね。でも今作は始めから、制約や縛りなどを考えずに「原曲の持つメロディを活かして、どこまでいけるか」とイメージしていましたから。

 例えば「乙女の祈り」はピアノ曲なんですけど、私自身も弾いた事がなかったんですよ。原曲はクラシックの典型的な和声(コード進行)でできています。でも、今は女の子が強いというか、元気の良い時代なので(笑)。もうちょっと躍動感をプラスしたいな、という気持ちがありました。なのでジャズの勢いの様なものを加味して、現代的なものにしています。

――「乙女の祈り」はピアノソロから更にキーボードでソロをとる、攻めた展開が印象的でした。

 元々ジャズを始めたのが、ジョージラッセル(鍵盤奏者)のバンドでキーボードを弾いた時なんです。私にとってキーボードの方が自分の声に近いんですよ。だからその場面は、より肉声に近づいてくる、本音に近づいてくる感じ。『ユートピア』は色々な楽器を使っていますね。今まではモノローグ(1人語り)する事にためらう部分もありました。でも今回はクラシックというフレームを借りる事で、逆に自分の個性に対してよりオープンになれた気がします。

――「白鳥」の5拍子で、モータウンのビートを鳴らしている様なアレンジについても教えてください。

 原曲はサン=サーンスのチェロによる優雅な曲。旋律がうっとりする様な。いかにも名曲なので、映像を付けるとすると、森の中で白鳥が佇んでいる感じですね。でも私にとっての白鳥の原体験は、子どもの頃の母の実家、福島・阿武隈川にあるんです。そこに白鳥が来るんですね。エサをあげると、自分と同じくらいの背丈の鳥ががつがつ食べに来て(笑)。そういうアグレッシブで怖いイメージ。だからサン=サーンスと私の「白鳥」の解離をとても感じたんです。

 この間、井之頭公園で散歩している時に工事中で、白鳥ボートが何十台も放置されていたんです。遠くで見るとあんなに小さく見えたのに、近くで見たら意外と大きい事に驚いて。そんな白鳥が持つギャップを表現したかったので、全然違う5拍子にして、メロディをズラしていきました。私の中では遠近法を無視した感じのアレンジになっています。

――「白鳥」という言葉のイメージで曲を飛躍させる、というのはとても文学的な操作ですね。

 私自身色々な文章を読むのが好きなので、それを言葉に置き換える作業はしています。でもやっぱり言葉ではこぼれる部分もあって。イメージがズレている感じとか、そのおかしさとか。言葉にできない部分を曲で表現している感じですね。逆に音楽で表せない事はインタビューで話させて頂いたり。ただ奇天烈なアレンジをしているというわけではないので、理解してもらう為の言葉というのも必要だなと改めて感じています。

 それに、もともとクラシックには譜面の縛りがある。そこから逸脱できないけど、自分自身を表現するという意味で折り合いをつけてきました。それにシューマンやブルックナーとかも勝手にアレンジしたり、お弟子さんが変えてしまったりで。そもそも原曲はクラシックでさえも失われているんですよね。

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