演歌歌手の岩佐美咲が先日、東京・恵比寿のコンサートホールでライブ公演をおこなった。筆者は取材としてステージを観覧し、その時に様々なことを思った。なかでも強く思ったのが「演歌というものをもっとメジャーにできないのか?」ということである。

 元AKB48のメンバーという実績を持ちつつも、本格的な演歌歌手としてその頭角を現している岩佐。演歌歌手としてその歌の実力は間違いないが、この日のセットリストには「天使のウィンク」「タッチ」「センチメンタル・ジャーニー」「私がオバさんになっても」「UFO」といった、往年の歌謡曲もあり、それらをしっかりと歌い上げた。さらには初の試みとして、ギターの弾き語りによる「太陽がくれた季節」を披露するなど、かなりバラエティーに富んだステージとなっていた。

 筆者が小・中学生の頃だっただろうか? 音楽の授業では、演歌歌手独特の“コブシ”というものに否定的な意見を述べる先生がいた。当時の音楽の授業が、西洋の声楽が基本だったことを考えてみると、カリキュラムの都合上、先生の立場としては致し方なかったのかもしれない。だが、音楽はあくまで優劣のつけられないものであり、この音楽を強く支持する者がいることも、また確かなことである。

 例えばロック・ギタリストのマーティー・フリードマンは、演歌の名曲について度々「これはロックな曲だ!」と唱えることがある。演歌が「ロックだ」などと言われると、少し冗談っぽい評価と捉えがちでもあるが、確かに“コブシ”の部分に見える情熱的な雰囲気や、その歌心などは“血の通った”音楽と感じることもできるだろう。その上で、日本的なバックグラウンドを強く持つという部分は、改めて見直されてもいいのではないか、という思いも出てくる。

 しかも先述の岩佐など、近年の演歌歌手は、実はマルチな歌唱力を持っている。演歌はその“コブシ”という独特な歌唱方法のため、あくまで孤立したジャンルと受け取られがちだが、岩佐はこの日70年~80年代の、その筋では“名曲”といわれる楽曲の数々をしっかりと歌い上げていた。

 この時代の楽曲は、近年のように音楽制作環境がまだ充実しない状況下で登場したもので、例えばジャズ理論やその他音楽理論で詳細を分析すると、実は高度な作曲技法が取り入れられていたりと、音楽的には非常に高く評価できるものがあり、歌うこと自体にも意外に高度な技量を必要とする。

 以前、某アイドルのバラエティー番組の収録を取材した際に直面した一場面だが、新人アイドルがその70~80年代の“アイドルソング”を歌うという企画があったが、なかなか上手く表現できていないという場面があった。新人だから、ということもあったかもしれないが、オリジナルの音源に比べると、その歌唱力は雲泥の差である。その意味でも岩佐の歌唱力は、評価に値する。

 こういった理由から、例えば音楽性という視点からも、現在演歌というフィールドで活躍する歌手、ミュージシャンという部分の評価を、改めて見直す必要があるのではないか。もっと言ってしまえば、日本の音楽界の中で、演歌というフィールドの存在の意味を、改めて考えてみてもいいのではないだろうか。

 高い音楽性を持ち、そして日本というバックグラウンドを強く持つ演歌。近年は若者に対してはあまり強く支持されないが、若者の演歌歌手というのも確かに存在し、マイノリティではあるがこのジャンルを支持するファンもいる。

 その意味では、他ジャンルには無い個性を持つ演歌というフィールドを見直し、若者に指示される方向性を追求していくというのはどうだろう? 例えば近年で言えば、氷川きよしは演歌というジャンルで幅広い層にアピールし、大きな支持を得ている。その氷川もポップス曲も安定の歌唱力で歌い上げ、高い評価を得ている。

 具体的な方法は様々あれど、実はこのフィールドにはまだ大きな可能性が眠っているのではないか? そういう方向に音楽を志す人々が目を向けると、実はまた音楽という世界の中で、新しいムーブメントがわきあがるのではないだろうか? 実は演歌というジャンルに疎いながらも、岩佐のステージに良い意味でカルチャーショックを受け、そんなことを考えてしまった次第である。【桂 伸也】

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