横浜銀蝿「また一緒にロックンロールしたい」翔とTAKUが振り返るリーダー嵐との日々
INTERVIEW

T.C.R.横浜銀蝿 R.S.

「また一緒にロックンロールをしたい」翔とTAKUが振り返るリーダー嵐との日々


記者:村上順一

撮影:

掲載:22年11月02日

読了時間:約13分

 T.C.R.横浜銀蝿 R.S.が10月26日、ミニアルバム『All for RAN』をリリースした。昨年末まで横浜銀蝿40thとして、2枚のオリジナルアルバム「ぶっちぎりアゲイン」「ぶっちぎり249」を発売し、2度の全国ツアーを開催。大盛況の中、40thとしての幕は閉じ、THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIALとして活動。 しかし、7月4日にリーダーの嵐が他界。ミニアルバムは永眠した嵐を想って制作した追悼アルバムになっている。 同作は全6曲収録となり、新曲は4曲収録。1曲目の 「All for RAN」は実弟でボーカル&ギターの翔が作詞作曲し、嵐の人柄や想いが詰まった楽曲に仕上がっている。また嵐の還暦記念で発売された嵐のファースト・ソロ・アルバム『生涯現役!』に収録された「RUN & RUN」「生涯現役」も収録。バンドは11月2日からは『T.C.R.横浜銀蝿R.S. 嵐追悼 All for RAN』がスタート。関東と大阪、名古屋で全6公演をおこなう。インタビューでは、まだ「ロスが激しい」と語るメンバーの翔とTAKUの2人に、嵐との思い出を振り返ってもらいながら、追悼アルバム『All for RAN』の制作エピソードなど、話を聞いた。

「声を聴いちゃうとやばいな」

――今、どんなお気持ちで日々を過ごされていますか。

翔 四十九日も終わり、どこかで前に向けると思っていたけどロスが激しいね。今作のレコーディングに入っても「1人足りないな」と、ふと思うんだよね…。今までも、2004年に脳梗塞で倒れたり入院したりと色々あったけど、あの人は毎回復活してきたんです。

 6月頭におこなった心臓の手術も「厳しいよ」とは言われていたけど、「ちゃっちゃと終わらせて早く退院したいから」と話して、手術も成功したんです。でも退院する日に誤嚥してしまい、肺が調子悪くなって入院延長という話から、容体が急変して7月4日に亡くなって。俺はまた復活してくるだろうと本当に思っていたんだけどね。10月18日にお別れ会があるので、そこでファンのみんなと関係者の人たちとやりとりをしたら少しは変わるのかなとは思ってはいるんだけど…。

TAKU 亡くなった当時はびっくりして。実感がないじゃないですか? アーティスト写真が2人きりになっていたりすると、日を追うごとに「(嵐さんが)いないじゃん」と凄く思ったりして。だからお別れ会が済んだら心が一区切りするのかなと思うけど、今が一番実感のない期間になっていると思う。今日も1人車でこのアルバムを聴いていたりすると、「声を聴いちゃうとやばいな」というのがあったりします。

――お2人はどんなところに嵐さんの凄みを感じていましたか。

翔 嵐さんは横浜銀蝿のリーダーとして42年間引っ張ってきてくれました。俺は今64歳で、64年間実の兄貴であるわけで。中学1、2年生で不良の道に入って、当時高校2年生だった嵐さんに色んなことを教えてもらったよ。横浜銀蝿が1980年にスタートした頃からは、兄弟というものより「リーダー嵐さん」みたいな思いでずっと付き合ってきたんです。実家のこと、親父の具合がやばい、どうしようという時は兄弟に戻って「兄貴どうする?」みたいな話にはなるけど、それ以外はやっぱりずっと横浜銀蝿のリーダーという感覚で。

 嵐さんは、当時の事務所の社長や自分が社長になってからも、どうあるべきかと方向性をずっと考えてきてやってきてくれたんです。俺たちはその流れの中、楽曲を作って歌うことだけに専念していたからノリノリでやってたけど、嵐さんは知らないところで悩んだり、決めたり、色んなことがたくさんあったと思う。横浜銀蝿があの風体で出て行って、どう売っていくかと思った時を今でも思い出すんだよね。デビューする時のキングレコードの発表会の会議室で嵐さんが言った「俺たち、金の匂いがしませんか?」から始まって、シングル1位、アルバム1位、日本武道館を満員にするからと大風呂敷を広げてさ。

――有言実行ですよね。

翔 どうなるのかは誰もわからないじゃないですか? だけど、横浜銀蠅蝿を売るためにそんなことまで考えてプレゼンしている嵐さんは何しろ馬力がある人だったから横浜銀蝿が解散してからも「ソロでどうするんだ」とか「再結成してどうしようか」と、色んな作戦や手段のための楽曲作りは俺たちが任せてもらったけど、やはり大きな流れでバンドをどうしていくかは、嵐さんがいたからここまで来れたんだよね。

 楽曲も評価されないと売れないわけだから、いい曲を作ることに関して本当に俺たちは精一杯やってきました。嵐さんはそこに向かうための一番大事な方向性などの道筋をつくるために、色んな人たちとも渡り合ってきたと思う。きっと嫌な思いもしている中で、どんな道であっても楽曲を作って精一杯やったら俺らが売れると信じていたのは、嵐さんがその道筋を立てるのが上手だったというのがあると思うんだよね。それが嵐さんの一番凄いところ。亡くなった後でも横浜銀蝿を続けて行くにあたり、「やっぱりリーダーは嵐さんなんだ」ということを忘れたくないから、そのために今頑張っているという感じかな。

――代わりのきかない存在ですよね。TAKUさんが感じる嵐さんの凄さは?

TAKU 俺の場合は18歳で嵐さんに出会って、そこから全てのキャリアが始まっています。そういう出会いは縁とお互いの可能性を信じるところから始まるしかないじゃないですか? その中で一番最初に俺の可能性を信じてくれたのが嵐さんでした。車を買いに行く時も付いてきてもらってるし、いま思い出したけど、昔お金を借りているんですよ。まだ返してないけど(笑)。とにかくプライベートでもお世話になっているし色々教わってきたんです。その中で俺が感じていたのは、突破口を切り開くパワーと引っ張っていく力、機関車みたない役割というか、そういう人物でした。冷静に考えると「何だよ?」ということをやっていても、嵐さんだから許しちゃうこともいっぱいあるんです。本当に不思議な感じだよね。

――嵐さんに借りたお金は何に使ったのでしょうか。

TAKU 生活費だよ。

――生活費を貸してくれるというのは凄いですね。

翔 やはりメンバーだし、年上ということもあって、そういう状況になったら嵐さんは借金をしてでもそうしていたと思う。

――誰しもができることではないですよね。ところで、TAKUさんは横浜銀蝿にどういった経緯で加入されたのでしょうか。

TAKU 高校3年生でプロになることは決めていたけど、周りに見合う人がいなかったんです。インターネットもなかった時代なので、「Player」という雑誌に「当方18歳――」と書いてメンバー募集、加入のハガキを出していたんです。嵐さんは当時ユタカプロダクションという事務所でバンドを組もうとメンバーを探している時で、雨宿りした本屋で俺が投稿した記事を見つけたらしく、自分に電話がかかってきて。

――メン募からだったんですね。

TAKU そうそう。それで嵐さんから「横浜ではみんな俺のことは知っている」、「革ジャンを着てロックンロールをやっているから、俺と一緒にやればすぐにスターにしてやる」というような話をされてね。俺は高校を卒業する前で、ちょうど矢沢永吉さんの『成りあがり』を読んで成り上がろうと思っていた少年だったから、そんな人から電話がかかってきたら「もしかしてこの人は永ちゃんか?」と思うじゃないですか? それですぐに待ち合わせして行ったら、全然永ちゃんではなくて、嵐さんだったという出会いでした。そこから2人でキャッシュというバンドを始めて。

翔 もっと遡るとアマチュアバンドの横浜銀蝿があって、俺とJohnnyがいて、嵐さんがドラムを叩いていました。ユタカプロダクションのオーディションで俺たちが演奏したら、事務所の社長が嵐さんに「このバンドは下手っぴだし駄目だ」「まあ、これから頑張りなさいよ」と言って、録ったテープをくれたんです。そうしたら嵐さんは何を勘違いしたのか、「合格したんだ!」と思って、次の日から事務所に通いだしちゃったんだよね。

――ポジティブですね。

翔 社長も「なんでこいつ来るんだろう?」と。まあいいかなと思って放っておいたみたいだけど、毎日事務所に来て「何か仕事ないですか?」と言っているから「お前はオーディションに落ちたのに何で来るんだ?」と社長が言ったら、嵐さんは「だって社長が『頑張れ』と言ってテープくれたので何か手伝うことあるかなと思って」と言ったら「バカだなお前」という話になって(笑)。

 横浜銀蝿はまだまだ完成されていないから駄目だけど、お前1人だけだったら雇ってやるということで、嵐さんだけが事務所に引っ張られたんだよ。「じゃあ兄貴、行ってくればいいじゃん」と送り出して、俺たちは違うドラマーを入れて横浜銀蝿を続けてました。そして嵐さんは事務所に入って、TAKUとの出会いがあって。

TAKU それで事務所からTV出演の話が来ていた時に、当時4人バンドだったけど俺と嵐さん以外は「このメンバーでは駄目だ」と言われて解散になってしまって。ちょうどその時に翔君のコンサートを嵐さんと2人で観に行ったんですよ。舞台の幕が開いたら翔君とJohnnyが出て来て「横須賀Baby」と「潮のかほり」をやっていて、それが凄くカッコよくてね。

翔 アマチュアの時から、俺ら人気があったから(笑)。

TAKU それで嵐さんに、ボーカルとギターは「絶対、翔君とそのお友達(Johnny)でしょ。あの2人しかないよ」と話して、TV出演もあったので合流することになったんです。

――そこで翔さんも事務所に?

翔 そう。嵐さんに引き戻されてね。横浜銀蝿というバンド名と、オリジナル楽曲もいっぱい作っていたのでそれを全部持って来てくれと。「でも、俺たちオーディション落ちてるじゃん?」「いいよ、わかんないから大丈夫だよ!」とか言って。それで横浜銀蝿の他のメンバーたちに「プロになれるかもしれないからチャレンジしたい」と、話したら「じゃあ行ってきなよ!」と言ってくれたんです。それで俺とJohnnyは嵐さんとTAKUと合流して、決まっていたTVに出演したのが1979年で、本格的にデビューしたのが1980年。

――複雑な流れがあったのですね。

翔 そういった中でもTAKUをチョイスして俺たちを引き戻して、事務所の社長を納得させてデビューまで漕ぎ着けたのは、嵐さんの凄いところだよ。変な説得力があったからさ。

TAKU 嵐さんは事務所の社長に「俺が骨を拾ってやる」と言ったんですから!

――凄いですね…。

TAKU とはいえ、凄いのばかりでもないんだけどね。デビュー前に「ライブがあるから集合な」と言われて行ったら、どこかのゲームセンターで誰もスタッフがいないんですよ。自分たちでドラムやギターアンプのセッティングをしたり、それで演奏して帰って来て「今日の仕事は何だったんだろう?」という、ハズレもあった(笑)。

――謎の仕事もあったのですね(笑)。

翔 何としても売れたいという気持ちだけで動いていたからね。

――何をやるにしても良い勘違いは必要ですよね。冷静に考えて「これ駄目かな」と思ってしまうと行動力に繋がらない場合もあって。

翔 ずっと最初から良い勘違いするんだよ。嵐さんの勘違いで事務所に入り込んでバンドを結成して、しかもそれが古巣だった横浜銀蝿だったという。結局そこしかなかったんだろうなと。そんな中で売れていったというのは、俺たちがデビューした1980年は“ツッパリブーム”があったりと時代の流れもあったと思う。あの年にデビューしていなければ売れていなかったと思うよ。

横浜銀蝿を引っ張ってきてくれたことに感謝

TAKU

――さて、今作『All for RAN』の制作はいかがでした?

翔 7月4日に亡くなって葬儀など色々あり、2週間くらいは何も動けなかったんです。7月下旬に「嵐さんの追悼アルバムを作ろう」と、話が持ち上がって楽曲を作り始めたのはそこからです。だからレコーディングも楽曲が出来上がってリハーサルを少し入れて、8月の中旬くらいからかな? レコーディングを始めて、9月の頭にトラックダウンを終わらせて、発売日に間に合わせようということで。

 タイトル曲になっている「All for RAN」は、悲しみの中だけど、嵐さんのためにアルバムを作ろうとなった時に、まずは今まで横浜銀蝿を引っ張ってきてくれたことに対してなど色々考えた時に感謝しかないと。銀蝿のリーダーとして本当に最高だったし、「今までありがとう」というのを楽曲にしようと思ってまとめました。1、2週間ですぐに曲が上がったけど、歌詞はギリギリまでかかったけどね。

――タイトルもすごくいいですね。

翔 もともと銀蠅は「One for All,All for One」の精神、想いもあった中で、最初は『All for One』というアルバムタイトルにする予定だったんだけど、ずっと見てたら『All for RAN』だなと思って。みんなが嵐さんのためにつくるアルバムなんだと。「感謝の気持ち、ありがとうという気持ちを歌にしよう」というのが一番大きくて、「All for RAN」という曲を書き上げました。そうしたらどうしてもみんなで歌いたくなっちゃって、合唱しようと。

――それで全員で歌っているんですね。

翔 そう。サポートメンバーであるAtsushiとJackにも加わってもらって。40thをやって終わったばかりだったけど、嵐さんは今年4月のバースデーライブの時も「Johnnyとまたやりたいな」と言っていたので、「Johnnyもこれ覚えて一緒に歌ってくれよ」と話したら快く引き受けてくれてさ。最初はコーラスのところだけでいいんじゃないのと言ってたけど「いや、全部歌うんだ」って話して。TAKUからは「それはレコーディング大変だよ」と言われたけど、AtsushiもJackもJohnnyも、本当に短い時間で何度も聴き込んで覚えてきてくれて、3テイクくらいで全部録れちゃったんだよ。

 歌詞の内容は嵐さんへの感謝の気持ちだから、出だしの<嵐のように>というのは嵐さんにかけていて、「この歌詞最高だな」と思いました。そして<星になった>と、最後までエイトビートを叩き続けて、嵐さんが色んな道を決めて、嵐さんの今までやってきてくれたこと、嵐さん語録、考えていたこと、俺たちが感じたことなどを歌詞に乗せて。みんなで合唱できて、追悼アルバムには最高のリード曲になったと思う。

 肝としては、4曲書き下ろして、それ以外に嵐さんが還暦の時に作った「生涯現役」と「RUN & RUN」を入れて出すことです。俺たちの追悼アルバムだけど、アルバムの中で嵐さんに生きていてほしいし、嵐さんへのリスペクトです。嵐さんのことを忘れない、俺たちが嵐さんに感謝している気持ちと、ファンの人たちに俺たちがみんなで歌った曲を聴いてもらうという中では、嵐さんの曲を2曲入れたのも1つのかたちだと。

TAKU 制作は本当にタイトで、正直、作っていた時のことはあっという間でほとんど忘れちゃっているんです。本当に集中してやっていたので。その甲斐もあってとてもいいアルバムができたと思っています。

――MV撮影はいかがでした。

翔 スタジオでみんなで歌っています。Johnnyも出てくるしノリノリですよ(笑)。40thをやってきた2年間が終わって7カ月じゃないですか? そんな流れの中でJohnnyがいてくれるということは外せないし、絶対歌ってもらいたかったんです。

――Johnnyさんが参加しているのは本当に嬉しいです。何度か取材させて頂いた時、嵐さんはいつも楽しそうでした。「仕事があるのが嬉しい」と仰っていたのが記憶に残っています。バンドへの愛が伝わってきて、情熱を持つことの大切さを教わりました。昔からそうだったのでしょうか。

翔 そうだね。有名な話は高校生の頃に生徒会長になる際、男子校だったから「学園祭に女子を呼ぶ。門から校舎まで並べる」と、それを公約としてぶっちぎりで当選したんです。そして生徒会長になって有言実行しました。今でも嵐さんが卒業した学校では伝説として語り継がれています。情熱を昔から持っていて、みんなをまとめる力と前に出る力が凄く強いからすぐに信頼されるし、後輩たちも付いてくるんです。

――人望の厚さは昔からなんですね。さて、最後に嵐さんに今、一言何か伝えるとしたらどんな言葉を送りたいですか。

翔 「All for RAN」の歌詞にも書いたけど、できるなら、また一緒にロックンロールをしたい。それだけですね。

TAKU 「ありがとう」しかないんですけど、嵐さんに体のために筋トレやら片足立ちなどをやったらどうかと生前よく話していたんです。こうした方がいいよって。でも嵐さんそれを全然やってくれなかったから、いま話せるなら「ほら、やっておけばよかったじゃん!」と、言いたいですね。

――そういったことは聞いてくれなかったんですね。

TAKU そうそう。そういうことは聞いてくれない(笑)。

――改めて、今日思い出話を聞かせていただいて、嵐さん人柄の良さが伝わってきました。

翔 生きている時は「この野郎ふざけやがって」と思うこともあるけど、亡くなってしまうと「あの時こういう風にしてくれたな」と、そればかり思い出すよね。一番に残るのは横浜銀蝿のリーダーでやってきたという凄さ、それに敵うものはないよね。シングル1位、アルバム1位、日本武道館満員の景色も見せてくれたし。もちろん俺たちの努力もあるけど、それを差し引いても嵐さんが引っ張ってきたからということに尽きる。

TAKU そもそも42年経ってもバンドが存在していること自体、それが全てを表してるよね。

――もう解散できないですよね。お2人とも生涯現役で。

翔 そうなんだよ!

――ずっと続いていくと思っています。何かあったらまた取材に来ます!

翔 頑張るよ! でも、何もなくても取材には来いよ(笑)。

(おわり)

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