ソロは責任の全てが僕一人にある、高橋幸宏 実験的だった40年前の名盤を振り返る
INTERVIEW

ソロは責任の全てが僕一人にある、高橋幸宏 実験的だった40年前の名盤を振り返る


記者:村上順一

撮影:

掲載:18年10月24日

読了時間:約14分

運命を感じる様々な出会い

高橋幸宏(撮影=冨田味我)

――今作のボーカルを再録するにあたって気をつけたところはありましたか。

 気をつけたところというよりは、今の自分の歌い方をするというところですね。当時はピッチも悪かったし、以前からいつか録り直ししたいと思っていました。ただ、やっぱりあの当時は「せーの!」で一斉に演奏を録っているから、それに合わせるためにある程度の譜割りは当時のまま歌いました。なので、音程と声が今の感じになった仕上がりです。むしろ僕の中では若返った感じです。

――キーも当時のままですものね。

 キーはそのままですね。年齢も重ねて、当時よりは半音くらいキーは下がってきてしまっているから、ちょっと大変なところもあったけど、なんとかいけちゃいましたね。

――あと、参加ミュージシャンが豪華なのもポイントですよね。

 みんな友達ですからね。先輩ミュージシャンに関しては教授と相談しながら選んだんだけどね。ギターは松木(恒秀)さんが一番年上だったんじゃないかな。(山下)達郎と(吉田)美奈子は僕と同じくらいの年齢だったし、若手で最年長だった細野さんでも31歳ぐらいで。

――私の年齢ですと、その方達も若手の頃があったんだなと不思議な感覚です。私が知った時には皆さん既にビッグアーティストでしたので。

 そうだよね(笑)。しかも、ほとんどみんな現役というのが凄いことです。

――さて、表題曲の「Saravah!」はこのアルバムの中でも人気がある曲のひとつなのですが、当時はどのような着想で制作されたのでしょうか。

 ジョアン・ジルベルトの「エスターテ」という曲があるんですけど、そのイメージですね。僕やトノバン(加藤和彦)、教授も好きで、「エスターテ」みたいな感じの弦を考えて欲しいって教授に話をして。あと、「Saravah!」はパリの明け方のイメージもあってジャケットは絶対パリで撮りたいと決めていましたから(笑)。

――バラエティーに富んだアルバムだと思うのですが、8曲目の「BACK STREET MIDNIGHT QUEEN」のギターは和田アキラさんでしょうか?

 これはアキラだったかなあ…。「SUNSET」は間奏のソロでアキラに参加してもらったのは覚えています。ジェフ・ベック(英・ギタリスト)みたいなギタープレイをするって、教授の推薦で参加してもらって。アキラが松木さんの坊や(ローディー)を辞めてプリズム(フュージョンバンド)を結成して活動していた頃だった思います。でも、これ以降一緒にやれてないんですよ。

――「SUNSET」といえば、坂本さんはあのシンセを手弾きで演奏されていたみたいで。今なら人力では普通やらないですよね。

 基本的には最初から最後まで手弾きですね。何曲かはドンカマ(リズムマシン・クリック)を入れてやったような気もします。「MOOD INDIGO」や「C'EST SI BON」のイントロもそうです。シーケンサーがなかったので、手弾きでやるしかないんです。

――幸宏さんはドンカマやクリックに合わせて叩くドラマーとしてはパイオニアですが、始めた頃は機械に合わせるということや、リズムマシンを使ってのアレンジに関してどのように感じていたのでしょうか。

 もう楽しくてしょうがなかったです。それが嫌だというドラマーの方もいっぱいいましたけどね。それによってミュージシャンのアイデンティティが崩壊すると感じていた人もいるみたい。ミュージシャンが要らなくなってしまうのではないかという危機感だね。

――ドラムのこともお聞きしたいのですが、小学5年生頃から始められて高校生の時にはスタジオミュージシャンとして活動されますが、当時はどのような練習をされていたのでしょうか。

 練習という練習は何もしてませんでした。ひたすら好きな曲をコピーしていただけです。あとは中学時代にブッダズ・ナルシィーシィーというバンドを組んで活動していて、僕の兄が大学時代にプロデュースしていたパーティーが軽井沢であって、そこで細野さんと出会ったことで、そこから色んな人と繋がっていきました。そのあとスーパーセッションブームというのがあって、みんなで集まってセッションをやっていました。その中でコンサートをやろうという話になって、そこに学生服で飛び入りしてきたのが高中(正義)だったり。

――そこからサディスティック・ミカ・バンドにも繋がっていくわけですか?

 まだその頃はミカ・バンドの話は出ていないですね。19歳ぐらいの頃に小原(礼)が僕をトノバンに紹介してくれたんです。ただ、僕が高校生の時、ユーミン(松任谷由実)やBUZZの東郷昌和たちとバンドをやっていて、そのバンドでTBSの『ヤング720』(66年10月31日から71年4月3日まで放送されたトークと音楽が中心の情報番組)という番組に出たことがあるんです。ユーミンの「マホガニーの部屋」という曲を演奏しました。その後「翳りゆく部屋」(1976年)というタイトルでリリースした前身の曲ですね。その番組にトノバンや景山民夫さんがひな壇に座っていたので知ってはいました。そうしたら、たまたまロンドンに行った時に偶然トノバンに会ったんです。凄い目立つ格好していたからすぐ分かったんですけどね。その時は確か大口広司と一緒にいました。ミカ・バンドには誘われていたけど、トノバンと話すのはその時が初めてでした。

――日本ではなくロンドンで出会うなんて運命的ですね。

 そうなんです。そこから僕も運命論者になりましたから(笑)。そのあとピエール・バルー(フランスの音楽家・俳優)と仕事した時も運命だなと思ったし。

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