美しくあれ、清春が体現し続ける歌の神髄 本物とは何か
INTERVIEW

美しくあれ、清春が体現し続ける歌の神髄 本物とは何か


記者:木村武雄

撮影:

掲載:17年12月16日

読了時間:約23分

 ロックミュージシャンの清春が、日本コロムビア内のレーベルTRIADに移籍。その第一弾としてリズムレスアルバム『エレジー』をリリース。この作品は、清春が年間66公演にもおよぶシリーズライブ『MONTHLY PLUGLESS「エレジー」』の世界観をスタジオレコーディングで再構築したもの。ディスク2にはダーク・シアトリカルな音像が浮かぶポエトリーリーディングも収録され、清春が作り出す歌の世界観を多面的に映し出しており、歌声や音の空気感、その広がりが感じられる。歌の神髄を体現化し続ける清春がみる「エレジー」の世界観はどのようなものなのか。そして清春にとって音楽、ロックとは何なのか。玉石混交する昨今。より本物の見分けがつかなくなっている社会のなかで清春は何を思うのか。世情を切ってもらった。

 1万2千字超にも及んだインタビューの要旨は次の通り。

○移籍は転換期、改めて感じた差異
○美意識の開眼を、音楽で新しいものを追及
○評価されにくい音楽、あいまいな価値判断
○移籍第1弾『エレジー』は総合芸術・本質
○今後の展望、最後まで美しくあれ

 社会にも音楽と似たことが起きている。例えば、見た目は同じ商品でもその中身の機構や技術、デザインが異なることがある。そうしたところは一般ではなかなか見抜くことは難しいが、清春が今回のインタビューで語っているのは「それを知ろうとすることの思いや行動」が大事だとしている。包み隠さず、ストレートに思いを述べる。なかには厳しい意見もあるが、そこには優しさがある。清春の考えに触れることで、改めて音楽の奥深さ、面白さ、そして清春が音楽などを通して体現している美しさに触れてほしいと願う。【取材=木村陽仁】

移籍は転換期、改めて感じた差異

――TRIADに移籍されてのリリースとなります。前回のインタビューでは50歳に向けて「終わりの美学」について考えられているとの話もされていました。そのなかでの今回の移籍は転換期という捉え方もできます。

 その通り、転換期ですね。まあ単純にみても目に見える変化を感じています。レコード会社やレーベルなどのあり方は、僕がデビューした頃と全く違う。 昔はアーティストをメジャーにする手助けすることだったと思うんですよ。でも今は変わってしまった。それと、新しい会社と関わると、僕の年齢となれば、ディレクターなどよりもその上司のほうが近い。働き盛りの若い世代の方々と関わっているのだなと感じます。

――そこから刺激を受けたりすることもありますか?

 あります。どうやって人は音楽を聴くか、という点も違うじゃない? 僕らだったらレコードだったものがCDになり、それがダウンロードになり、というくらいまでしか把握していないんだけど、それを有料か無料かというのもツールによって違うんですよね。YouTubeで流すということも僕らは抵抗がある世代だけど…。フルでMVを公開するのも「え?」って思うんです。「そうなんだ?」みたいな感じです(笑)。

――ちょっとしたジェネッレーションギャップが。

 そうですね。

――以前、ロックをやる若い人達に対して道を作っていきたいという話をされていました。それだけギャップがあると考え方も違ってきますか?

 うん。ディレクターは普通にHIP HOPとかも好きですし、担当してる「美学系」ではないミュージシャンもいて。初めて関わって作業をして「清春さんこうなんですね?」という意外な感じを受けていたような感触があります。

――相手も刺激を受けている?

 意外なんでしょうね。50歳くらいになってもメイクして、これって本当なら相当特殊な世界じゃないですか。市民権のようなものは昔よりはあるけど、その神髄というのは知れないんじゃないかなと。ビジュアル系って一般の人と共通というか、面白い部分や取り扱いやすい部分がフューチャーされやすいですよね。だからそのジャンルの神髄というのは普通に考えたらなかなか異様な世界でしょう。今は当たり前になっているけど、20年以上活動しているバンドがいまだにアリーナクラスでやれちゃうというのは普通に異常に感じるのでしょうね。

 「こういう音楽がやりたくてやっています」というのとは真逆の解釈を受けがちじゃないですか? だけど、どういうジャンルでも音楽をまともにやっている奴はまともにやっていて、音楽っぽいジャンルでもそうじゃない人もいるという。残っている僕らみたいなタイプのミュージシャンでも、まともにやっている人もいれば完全に生活のためにやっている人もいるし。わかりにくいでしょうね。

 僕らみたいなジャンルでまともにやろうとしている人は、まぁわかってもらいにくい。ジャンルでみられるから仕方ないことなんですけど、それを長くやって今回のアルバムをこうしようと考えて、良い曲を考えて良いプレイをしようという人たちにとっては難しいよね…。

――今の社会がそうなっているんでしょうかね。すべてにおいてその差異が広がっている気がします。

 日本って特殊な国だからね。アメリカはロックよりHIP HOPが一番だったりするじゃないですか? 日本ってそうじゃないんですよ。どのロックもHIP HOPもギターロックでも何でもいいんですけど、大衆化はされないというか、その臭いを持っている人達というか、“真似したもの”が大量生産されるじゃないですか。原型、そのジャンルの中でのハードコアというものは、難しいですよね。まぁ、続けることはできるんですけど、核のあるものは絶対聴くという人が少数はいるから。

音楽で新しいものを、もっと良いライブを

――清春さんの公演を観ると、いつも内側がえぐられるような感じがするんです。

 濃いからじゃないですか? あ、記事、いつも気に入ってますよ。

――ありがとうございます。何度も見させて頂いていますが、改めてお聞きします。清春さんにとってPLUGLESS公演『elegy』というのはどういった意味があるのでしょうか?

 同じ会場で何日も何公演もすること自体が、フェスなどの活動とは逸脱してますよね。演劇とかサーカスに近いというか、やりたいことだけをとことんやりたい、という感じです。それをミュージシャンが俳優になってやるのではなくて、ひとつの作品として音楽しかできないんだけど、音楽で何ができるかということなんじゃないかなとは思います。

――毎回やられることで、その時々の空気感とは違うものでしょうか?

 だいたい近いです。ただ、到達したいところ、それは言葉にできないから表現なんだと思うんですけど、毎回「ワァッ」となる感覚は近いと思います。

――その感覚は力が全部抜けてのもの、あるいは達成したことによる高揚感からくるものでしょうか?

 結局最後は音楽とエンターテインメントで良いものを観た、良かった、という純粋な人間の感動した感覚に近いと思います。それは言葉にはできないけど、それをあの限られた条件のスタイルの中で引き起こしたいんです。なんとなくそういうものを見せたいんです。

――確かにそれはなかなか言葉にできないですね。実際に観た方がいいです。

 そうなんですよ。でも観る人によっても違いますからね。ほとんどは音楽のコンサートにしか行ったことがないような人達の前でやるので…。映画やお芝居に行った人はいるかもしれないですし、見せ物小屋みたいなものに興味がある人はいるかもなんですけど、大抵の人はそんなの興味ないんですよ。だから、「清春さんのライブに行っている」「これはライブなんだけどロックっぽく感じるんじゃなくて今回は違うバージョンでやっている」という中で、「この曲、懐かしくて泣いちゃう」とか「この瞬間の音が良かった」とか「上手く歌えていた」とか「響いた」とか、それくらいだと思うんです。

 何回も観ているとまた違うかもしれないし、全然、予備知識なしでたまたま来てくれた人は「あれ?」ってなると思うんです。僕に抱いているイメージがある人もない人も、「普通とちょっと違う」ということは感じてくれると思うんです。やっぱりそれは言葉にできないんです。だから観た方がいいんですよね。

――命を削って歌っているという印象があるのですが。

 ううん、それはあんまり。本数とかステージを1日2回やっているからとか、そういうところから受ける印象かもしれませんが、人生を削って歌っている感じのパフォーマンスはしたくないです。総合的に「芸術的だ」と結果的に思ってくれたら嬉しいとは思います。ブルース・スプリングスティーンとか尾崎豊さんみたいな削り方ではないですね。もっと美しいもの、美学的なものであって欲しい。でもその中で魂やブルースを感じてもいいとは思うんです。あんな近い距離で人間が歌っている訳ですから。みんな歌詞も知っていて、その歌詞が今歌うと違って響くと。何故ならお互い何年も経過しているから――。やっていることはシンプルなんだけどその世界が“異様”であっては欲しいですね。

――こういう社会だからこそ“異様”であると感じて欲しいという面もありますか?

 もっといいライブがあってもいいんだけどな、って思います。例えばみんな好きなアーティストのライブに行くじゃないですか? 舞台でも何でもいいんですけど。外国人って別に好きなアーティストではなくてもライブに行ったりするらしいんですよ。美術展に行ってみたりとか。でも日本人って芸術性をキャッチしたいと思う感覚が薄い国民性だと思うんです。それはメディアがその時々のビジネスに使えるアーティストやタレントを作ってきて、そういう風にしてきた結果なんだと思います。「この人でお金を稼げるように」って。なのでどうしても芸術性が薄いものに慣らされているんです。

 少数でよくわからない俳優や歌手が出ていて、そういう中での演劇やコンサートがロングランすることがなくて、だいたい有名な劇団だったり、有名な俳優が出ていたりとかくらいじゃないでしょうか。僕のライブも結局自分のファンしかいないので、そうなっちゃうんですけど。でも行きたいのはその先なんですよね。かと言って目の前にいるファンの人達を無視する訳にはいかない、この人達がいなければ今までの僕の活動はないので。ただ、国民性で言うと海外ドラマくらいまでは行ったのかな? 海外ドラマがヒットするってそういうことじゃないですか。

――確かにそうですね。

 それは兆しが見えるというか。外国人だから誰が誰だかわからなくてもいいというのもあるかもしれませんが。映画がヒットしなくてそっちの方に行っているのかわからないですけど。日本人はエンターテインメント、出し物を見に行くという感覚、それを察知したいという感覚は相当低い民衆だと思います。そういうのが好きな人って「あんた変わってるね」って言われちゃうじゃないですか。でも海外だとそういう人が普通というか。よくわからないコンサートがあるけどチラシが面白そうだから行くとか、ライブ自体が観たいから行くとか。それでつまらなかったら帰るし、面白かったら拍手をするし。

 「私はこの人のファンだから、この人のライブしか行かない」となると、それはそれで僕らは嬉しいんですけど、色んなものを観てからの「僕のライブってどうなの」というのができないじゃないですか? でも実際は、神様はこっちの方がいいってわかっているんですよ。同じ料金を払ってこっちしか行かないということになるので、感覚が肥えていかないですよね。要はそんな人達が僕の今のライブに来たら多分びっくりすると思う。イメージがある人であれ、ない人であれ、他のライブよりは「あれ?」ってなるようなところは目指していたんだと思います。

評価されにくい音楽、あいまいな価値判断

――清春さんのライブに行って欲しくて、色々考えて記事を書いたりしている部分もあるんです。

 それってジャーナリストの基本なんですね。よくわかっていない人にわかりやすいように事件を伝えるとか。どんな国でどんなことが起きているかということを伝えたり。それが、好きというだけで行っているのなら伝える必要がないですよね。本当は気に入っている記事を書くべきだと思うんです。気に入っている出し物をみて、それを伝えるという。だからそういった意味でさっき気に入っていると言ったんです。みんな同じようにライブに行ってライン工場みたいに観て記事を書いて…。そうじゃないものを伝えたいですよね?

 僕もアーティスト活動をしているうちは、わずかな期待ながら諦めていないからやっている訳で。でもただ惰性でやっていてもつまらないから、どこかでチャレンジする、自分のポリシーを崩さないけど新しいもの、やっている側も「こんな風に感じて欲しい」というのもありつつやっているうちは取材ももちろん受けるし。閉鎖的で異様な空間であればあるほど伝えて欲しいんです。ドームとかでやったらニュースもインスタもTwitterもあるし、断片的には伝わるじゃないですか? でも閉鎖的で異様な空間であればあるほど伝わらないので。

 それがこんなに続いているということは、やっている方が良いと思うからやっているのであって。残念なのはディープなファンの人しかこれを見ていないということなんですよね。僕らは続けて行くことでしか見せることはできないので、内容というのは伝わらずに「じゃあこのライブはアコースティックなんですね」というくらいで終わっちゃうのは凄く残念。僕らはアコースティックライブをやっているという気なんて一切ないの。形態としてはアコースティックな楽器がいます、ドラムがいません、ということだけでしかないので、やっているパフォーマンスや歌に関しては普通のライブより激しいと思われます。

 ロックを象徴するスネアの音やギターの歪んだ音がたまたまないというだけなので、表現を感じる人によって「あぁ!」って思ってくれればいいんです。「これを」というのはないんですけど、何となく匂いを散らばらせているつもりなんですけど。

――あの世界は言葉にしようとしてもできないところがあって、絵にも似ていると思うんです。絵を言葉にするのもなかなか難しいかなと。

 難しいですよね。「見りゃわかるじゃん」って言われたらおしまいだもんね。絵に関しての取材なんてそんなにないですし。自由さで言うと絵にはルールがないけど、音楽にはある一定のルールがあるから難しいんだけど。ルールって、油絵で言ったらキャンバスがあって筆があって絵の具があって――。それがルールだとすると、音楽は楽器とかがあって、それ以降のものだと思うんです。

 音楽はコード進行とかリズムなどに若干支配されるようなところがあって、準備が上手いと「いいキャンバスを買いましたね」とか「たくさん絵の具を持ってますね」というところは絵では評価されないですよね? もっと自由な部分だけが評価されるんだけど、音楽ってスタンバイされているコード感とか楽器の種類とか、歌詞とか曲ではなくて、それ以降のものを評価でき辛いから絵に似てますね。

 でも絵の場合、美術展とか個展とかに行く人ってそんなに多くないじゃないですか? フジロックやサマーソニックに行く人数よりは明らかに少ない。フェスなんかは1万円くらい交通費あわせて払うけど、絵ってその人が描いたものなら何十万円でも払って手に入れたいという人がいるという不思議というか。

 閉鎖的なんだけどそれだけの価値を感じて絵を何枚か描いた人が一人につき3千円とか4千円とかしかとれない人達よりも、どっちに価値があるのかというと、5万人に対して5千円しかとれないという人達よりも、一人に対して100万円とれる人、一千万円買う人、その価値というもの、これは正に芸術の差だと思うんです。

 僕らってどっちかというと、後者であるべきもの。でも、この先の若い人はそういうことをしている世界があるということを知った方がいいと思うんです。TwitterやInstagramで終わるのもいいんですけど。恐らく、日本におけるシステムというものがファンにならないと来ないという風になっちゃっているんですよね。TVとかはファンにさせるためのプロモーションではあるので。そういう人物をすぐつくるんですけど、まあ、大した人物はそうそういないという。ちょっと言葉が面白いとか、それくらいでしょ?

――人の価値観というのはいい加減というか、そういうところがありますね。例えばPCのソフトの場合、ハードだったものをソフト化したとき、見た目的にはただの円盤で見劣りするので「これでは売れない」ということでわざわざパッケージを大きくしたというのを聞いたことがあります。

 この間、SUGIZOくんのCDを送ってもらったんですけど凄いパッケージが来てね、「これは買うよね」と思いました。一般的にもこれは3千円じゃダメだわと。音楽が入っていて、アートワークも素晴らしくて、そういうのってみんながみんなはできないじゃないですか? 絶対にそれが欲しいという人達がいるから、あれができるし、素晴らしいことだと思います。例えば僕が30曲入りのアルバムを千円で売りますということで、iTunes限定で売るとなると、たぶんファンの人は「やめてくれ」となるんですよ。「そんな安いものじゃない」と。

 アイドルが悪い訳ではなくて、千円とかでCDを買ってイベント参加券替わりにする、だから何枚も買って山の中に捨てて事件になるとかとは真逆。芸術性という部分で買ってくれる人は作品を大事にしてくれるだろうし。だから僕らって、世間で今流行っているものとは真逆でなくてはいけないんですよ。

 音楽性とか美学によって、やりたいことが構築されたり、ファンであるキャリアが増してきて、それが人生になって、励まされたりとか悲しくなったり喜んだりする道標、「その人が好き」というより「その人が出すものが好き」という風になってくるから、長く異様なものを続けていくというのは…。芸術というのはどこか異様なんです。

――戦国時代に茶器によってはお城が建てられるくらいの価値があったということがあるそうですが、それにも似たようなところがありますね。

 そうだよね。陶芸などで、その作家がよくわからないのに凄い高いものを買う人とかいるじゃないですか? そういうことなんですよね。その陶芸家の大ファンでなければ買わないという人もいれば、そのバックボーンを知ってて買う人もいて、買ったら金持ちに見えるから買う人もいて、これは人それぞれなんですけど。この世の中のほとんどはそう感じて何かを買うところまでは全くいってないんですよ。服とかでも同じことが言えますね。それはそれでいいんでしょうけど。ただ、頑張れなくはなるんですよ。

 チケット代は高いって僕ら言われてるんですけど、それは価値を感じる感覚がないからなんですよ。すごい前にダウンタウンの松本さんが武道館で1万円コンサートをやったとか、たぶん日本ってそういうチャレンジがもっと必要なんですよね。ちょっとでも値段を下げていこうとしていくと「価値が低いんだ」って潜在的に伝えているようなもの。それは、やっていることに自信がないからだと思うんです。「これは伝わらないけど、観たらわかるんですよね」というエンターテイメントの場所があまりないというか。

移籍第1弾『エレジー』は総合芸術

――さて、今回移籍第1弾として『エレジー』を持ってきた理由は何でしょうか?

 いっぱいやりたいことがあって。普通のオリジナルアルバムも作りたいし、ずっと1年間やってきたこのスタイルでも形に残したいし。DVDや写真集だけでもいいのかなとか色々思ったんですけど、やっぱりミュージシャンなので、基本的には音楽を出しつつで、トータルでやりたいことがわかってくれたらなと。

――同じ歌でも捉え方も変わってきますし、PLUGLESSにすることによっても曲の世界感が変わってくるというのが今回の作品に表れていると感じます。

 PLUGLESSも厳密に言うと、エレキギターを使っているのでプラグは使っているんですよ(笑)。マイクもありますし。チェロとアコギがあって、サンプリングに関しては完全に電子音なので、実際PLUGLESSでも何でもなくて。ただ、ドラムとベースと歪んだギターがいないというだけの話なんです。なので、リズムレスということなんですけど。僕が、アコースティックサウンドが大好きな訳でもなくて。ただ、そうすることによってマスキングがされないから、言葉や声や呼吸がわかりやすくなるんです。

 普段のライブでは伝わらないレベルのヴォーカルのニュアンスを出したいとか、言葉がはっきり聞き取れるような歌い方がしたいとか、それに基づくパフォーマンスをしたいとか…。総合的になくてもいいもの、なければいけないものが整理された状態、僕のコンサートで言うと一つの提示する方法としての「PLUGLESS」「エレジー」なんです。

 もちろんSADSみたいに激しいのが好きな人がいてもいいと思うし。ただ、両方好きなのは嬉しいんですけど。SADSがなぜ好きか、暴れられるから、ダイブができるから、というファンの人がいるとしたら、もう別に僕はいらないですね。「聴いてないんだ? 本質を」という。けっこうそれを言っちゃうんですよね。そしてどんどん離れていっちゃうんですけど(笑)。

――MCでも言ってますね。

 言ってますね。ウォール・オブ・デスとかって「お前ら世代じゃないんじゃないの?」って思いますね。無理すんなよ、と。オズフェスとかラウドパークとか、そういうのであればわかるし。若い子が来てそれを繰り広げるのはまだわかるんでけど。それよりも熟練のファンの年期が入ったものを見せられる方がほんとは嬉しいですよね。「周りは関係ない」っていう。シーンは関係ないというのは僕もそういうつもりでやっているから。

 やりたい気持ちはわかるんですよ。でも黒夢全盛期もそういうのはなかったでしょ? と。ダイブは多少あったけど。でもグルグル回るとかぶつかるとかって無いし。アホだなと思いますね。coldrainを観に行ったときにそういうのを観て凄いなって思いましたけど。今こうなっているんだって。あれは若者のものなので、それを僕らのファンが真似をする必要はまるでなくて。「若い奴にはわからないでしょ?」というのでいいと思うんですよね。「若い奴にわかる訳ないじゃん」って僕本人は思ってますけど。でもやっちゃうんですよね。若くもない奴が飛んでくるんですよ…。気持ちはわかるけど、寄せてて恥ずかしくないかと。

――清春さんの音楽は空間があるように感じるんです。その空間の正体がまだいまいちわからないんです。

 わからないよね。ただ、音楽的に言うと詰め込み過ぎたくないとは思ってる。今回楽器はギター2人とチェロぐらいしかいなくてスカスカなので、ただでさえ空間があるんです。…空間というか、ムードというか、匂いというか、時間がゆっくり流れるように感じさせるというか。上手く言葉では言えないんですけど、何でしょうね?

――曲の中にスポッと入れるんです。自分の行きたい時代に行けるというか、不思議な感覚を受けるんです。今回の作品もその点が特に表れていると思います。

 僕ら送信側がどういうつもりでやっているかだと思うんです。受信する方は、別に受信しなくてもいい訳なので、いかにそれが入ってきやすいような雰囲気にさせるかということだと思うんです。でも難しいですね音楽って。ヒット曲とかである程度はコンサートも存在の意味も支配されちゃうから。

――これまで清春さんのことを知らなかった人、知ってても音楽に触れてこなかった人が今作を手に取ったときに、どういうことが印象付くかということを想像したことはありますか?

 意外とちゃんとやっている感じはあると思うんですけど、ファンの人はいずれ好きになってくれると思うんですけど、想像するのは、きっとわかり辛いことになっちゃうんだろうなという想像ですね。デヴィッド・シルヴィアンがインストアルバムを出したみたいな感じに感じるかなとか…。シンガーが出すインストアルバム。「歌ってないじゃん!」みたいな。

 凄いシャウトしているし、叫んでいるんですけど、リアルにやっていることがそこまでわかるのかなと。けど、やりたいから、明らかにこっちの方がやりがいがあるからやってますけど。Twitterでたまにファンの人がリプ送ってくれるんです。「SADSとかバンドスタイルだけでいいや」みたいなファンの友達を連れてきました、みたいなのがたまにあるんです。僕の中で返して欲しかったのは真逆で、「今回のようなのだけでいいや」と思っているのがファンだと思っているので。僕がやっていることのファンであり、嗅覚が強い人達だと思っているんです。SADSとか黒夢とか激しい音楽は世の中ではカウンターなものになっているので、そのカウンターのカウンターだと思うから、だいぶ濃いなと思うんですけどね。これがわかってくれたら一晩中でも話し合えるなと思うんだけど。

今後の展望、最後まで美しくあれ

――今後の展望は?

 美しくあれ、と思います。音楽をやっているうちは最後まで。顔が美しいとかではなくて、向かう気持ちや音楽、全部なんだけど。せっかくファンの人達がいて、発表できる立場にまだ役割としていると思うので。身を削ってということよりは、普段の生活があって、ライブに来たりCDを聴いたときにはそれを忘れられるような役割というか、それは美しくないと駄目だし、一生懸命歌っていないと駄目だし、そういう匂いを発していないと聴こうとは思わない。汚いとかドロドロしていることも包括した美しさがないと、その人達の人生に響かないし。別に普段の生活がそうじゃなくてもいい訳ですよ。滅茶苦茶でもいいんですけど音楽に対して真摯な態度というか。「ここは僕の役割なので、ここは果す」という、ベストを尽くすのではなく完璧を目指すということが何年できるかな、という感じかな…。

 他の人がどうやっているとか、段々関係なくなってくるからさ。もちろんたくさんの人に評価された方が僕も嬉しいし、家族やスタッフも嬉しいんでしょうけど、僕がやっていることは崇高なことをやろうとしているのは、娘とかも何となくわかっているのかなと思います。明らかに今流行っていることとは違うということは、もうおじさんだからということもあるんですけど。悔いは残したくないですね。『エレジー』がどうかはわからないけど、最後にやめた後も永遠に聴けるアルバムを結果的に作りたいですね。

 尊敬するアーティストの先輩のアルバムと同じくらい好きになれるくらいの音楽ができるかどうかなのかなと思うんですけど、何故か最後みんなそこに向かわなくなる。ちょっとでも商業的なチャンスを狙っていくんだと思う…。こういう濃いのって作れないんだよね。宣伝文句として、たまたま古い曲も入っているというだけであって、それってあの空間でこの曲が凄く雰囲気が出しやすいから歌って、それが多く歌われてムードが出ているのでそれを録音しましょうというだけの話なので、「昔の曲が入っているのを聴いてください」という訳では一切ないので。何をしたいかな…。最終的にはそれはできずに終わるんでしょうね。後悔して。

――もっと新しいものが見つけられて、それを後輩達に提示する?

 やったことないことはしたいですけどね。「これを最初にやったのは彼だ」って、それがアーティストじゃないですか? ある決まった形を上手くやれるというのは、どっちかというとアーティストというよりかはアクターという感じだと思う。「これを最初に発明したのは彼なんだ」というようなのが1ミリでも2ミリでもそれが触れられたらいいのかなと思うんですけど。そのために、伝える人達が大事だなと思うし、上手く伝わらないのがアートだと思うし、言葉にできないという。

――そこには余白があって、その人によって解釈は異なる、という。

 感じることが大事なので、取り憑かれたかのように…。危ないような音楽がやっぱり芸術性が高いと思うんです。結局ね。別の世界だったり懐かしかったり、何でもいいんですけど。こうしたインタビューなどでも、昔に比べて答えることが抽象的になってきているんですよね。前は明確に「売れたいです」とか言っていた時代もあったんですけど。「売れたいです」「何のために?」「お金です」って言ってたんですけど、もうそういうのじゃないから。もう、やりがいなんですよね。

 後輩達は結果的に一つの形としてそれを見てくれればいいと思うんですけど、後輩のこともそんなにというか、人は人、自分は自分だと思っているので、そこは先輩でも後輩でも。自分が尊敬する先輩以外はね。感覚が近いなと思う人は大事にしたいし、そこに売れている売れていないはないなんて全く関係ない話です。たまたますれ違ったというか、チャンスがあってタイミングが合わなかっただけであって、作品とかやろうとしていることは崇高な先輩には憧れる。いくら自分のことが好きでも、魂が抜けてるようなことをやっている後輩は、やっぱりいいと思えないし。僕の名前を出してくれるなと思う。

 不思議ですよね、ミュージシャンも俳優もそうですけど。目標はないんですけど、ただ、何歳までやるかわからないから。何ならもう「何歳で引退する」って決めといた方がいいんじゃないかなって。でも、芸術家という部分では引退はなかなか難しいですよね。だんだん体力を使わなくても出来ていくものなので。肉体の限界ではないし。ライブはしないけど作品は作る、という感じじゃないですか。だから先にライブを引退していくんでしょうね。スポーツに近いことはだんだん自分から手放していくんでしょうね。

 だから僕はバンドは早めに手放したかったというか。結果的に正しいんだって思えます。まだまだやれるときにやりたくないっていう気持ちではなくて、今ちょっと凄い疲れちゃうと思うんです。今の『エレジー』なんかほとんど動かない、けど表現できることがあるってわかっているから今やっている。フェスや野外とか、若いバンドの子達がジャンプして歌っているのは、昔は僕もやっていたんですけど、もう進化という意味ではできないんだと思う。相当鍛えているのなら別だけど、そのために鍛えるのも何か違うと思うし(笑)。音楽家だったらね。ま、難しいですね、異様な感じでいるというのは。

(おわり)

『エレジー』全曲トレーラー

「ゲルニカ」MV

「LAW’S」MV

リリース情報

Album「エレジー」
2017年12月13日発売予定
2CD+DVD/COZP-1402-1404/5000円+tax(完全初回生産限定)

Album「夜、カルメンの詩集」
2018年2月14日発売予定

【初回盤】2CD+DVD/COZP-1411-1413/\5000+tax(完全初回生産限定)
【通常盤】CDのみ/COCP-40251/\3000+tax

「エレジー」収録内容

【DISC1”elegy”】
1. LAW’S / 2.ゲルニカ/ 3.アロン /4.rally/ 5. GENTLE DARKNESS /6.夢 /7.カーネーション /8. この孤独な景色を与えたまえ/9.輪廻/10.空白ノ世界

【DISC2”elegy”poetry reading】
1. LAW’S / 2.ゲルニカ/ 3.アロン /4.rally/ 5. GENTLE DARKNESS /6.夢 /7.カーネーション /8. この孤独な景色を与えたまえ/9.輪廻/10.空白ノ世界/11.YOU

【DISC3”elegy”performance(DVD)】

サロメ/陽炎/瑠璃色/lyrical/rally/alice/シャレード

ライブ・ツアー情報

KIYOHARU 25 TIMES DEBUT DAY

2018年
2/9(金) 岐阜club-G

KIYOHARU TOUR 天使の詩2018『LYRIC IN SCARLET』

2018年
2/23(金) 大阪BIGCAT
2/24(土) 金沢EIGHT HALL
3/02(金) 仙台Rensa
3/16(金) KYOTO MUSE
3/17(土) KYOTO MUSE
3/21(水祝) 柏PALOOZA
3/24(土) 長野CLUB JUNK BOX
3/31(土) 札幌PENNY LANE24
4/07(土) 青森Quarter
4/08(日) 盛岡Club Change Wave
4/13(金) 名古屋 BOTTOM LINE
4/14(土) Live House 浜松窓枠
4/28(土) 鹿児島CAPARVO HALL
4/29(日) 長崎DRUM Be-7
5/03(木祝) EX THEATER ROPPONGI

この記事の写真

記事タグ 

コメントを書く(ユーザー登録不要)

関連する記事