<記者コラム:オトゴト>
 先日、欅坂46のコラムにも書いたところだが、“ロックの誕生”というその瞬間を強く意識することがよくある。それは、“ロックの誕生”が音楽が存在する意味という部分を大きく示しているイメージが、自分の中にあったからだ。=写真・10月27日に都内でおこなわれた映画「写真甲子園 0.5 秒の夏」の上映記念イベントのもよう=

 特にCDの売り上げがピークにあった1990年代頃には、よく言われていたのではないかと思われる、「音楽は贅沢品」という印象。確かに人が「生きる」ということを考えた時に、普通なら最低限のライフラインとして音楽は必ずしも必要では…と考えることも多いだろう。音楽家、特に職業音楽家である人、またはそれを志す人にとって、音楽が存在する意味を考えることは、一生付きまとってくる問題ではないだろうか。

 2011年の東日本大震災が発生した際には、多くのミュージシャンも現地の復旧のために積極的なボランティア活動をおこなった。自粛という状況を余儀なくされながらも、「自分たちに何ができるか」というキーワードを掲げ、チャリティーライブをおこなったバンドも多くいた。過酷な状況で音楽活動をできないというピンチに見舞われた中、人が生きるギリギリの中で、音楽というものを自分の第一に掲げる人たちが、まさにその意味を考える時だったことだろう。

 対して、時に嫌われながらも音楽、そして社会的にも様々な場面で大きな革命を起こしているロックの誕生は、音楽というものが存在する意味を、結果的に残したという印象がある。

 しかし、そのインパクトが大きいだけに、音楽が存在する意味を考えた時にどうしてもそのインパクトを基準にしてしまい、それが感じられないものを、単なる「贅沢品」と認識してしまいがちになる。そう思うのは、かつて自分が青春時代に大きく影響を受けたロックスターたちの一部が、近年「復活」なる言葉を掲げてシーンに再登場する際に、ほぼ昔やっていたようなパフォーマンスしか表現できない、いわゆる“懐メロ”で終わってしまう場面に出くわしてしまうケースが度々あるからだ。

 しかし、音楽家の坂本龍一が語っている言葉に、一つの感銘を受けた。先日開催された『第30回東京国際映画祭』の中でおこなわれたイベント『東京国際映画祭 マスタークラス 第4回“SAMURAI”賞受賞記念 坂本龍一スペシャルトークイベント~映像と音の関係~』の中で、坂本は「音楽は直接にはお金を生まないかもしれない。だけど回りまわってというか…音楽は結果的に人を豊かなものにしてくれる」と自身の考える音楽の意味を語った。

 確かにそれは音楽を志す、音楽に携わる意味としてポジティブな、そして大きな意味であると思う。それだけが完全な答えではないかもしれないが、意味は無数に存在するであろうことを、確信した。

 一方で同じく『第30回東京国際映画祭』で、特別招待作品『写真甲子園 0.5秒の夏』のスペシャルトーク&ミニライブゲストに、シンガーソングライターの大黒摩季が登場し、ステージラストで自身の代表曲の一つである「ら・ら・ら」を会場の観客と大合唱した姿を見た時に、ハッとした。私は意味というものに固執するが故に、音楽の核心を感じようとする意識が弱くなっているのではないか、あまりに意味を求めてしまった、そのこと自体が私の中で、音楽というものが存在する意味をなくしているのでは、と様々な思いがめぐった。

 変に難しいことなど考えず、ただ「ら・ら・ら」という曲を楽しんでいた観客がうらやましくもあり、時に音楽のシーンを見るものとしては、その感覚を忘れたくないと改めて思う。【桂 伸也】

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