グイーンによるライブのもよう

 世界的ロックバンド・Queen(クイーン)が初来日した日を祝う催しが15日、羽田空港・国際線ターミナル内のホール「TIAT SKY HALL」で開催された。

 クイーンが初めて日本に降り立ったのは1975年4月17日、羽田空港には3000人のファンが彼らを出迎えた。以来、同所はファンにとっての“聖地”となり、4月17日は「クイーンの日」にも制定された。

 この催しは『ザ・クイーン・デイ』と題され、来日40周年を迎えた2015年に初開催。オリジナル・メンバーが出演しないにも関わらず、チケットは完売。日本でのクイーン人気の高さが窺い知れた。その好評を受けて昨年もおこなわれ、今年で3年目となった。

 晴れやかな空に溶け込んでいく機影。彼らが降り立ったターミナルは当時と様変わりし、日本の伝統食文化を伝える江戸情緒を蘇らせるツクリになっている。“町並み”を抜けた4階にあるホールには多くのクイーンファンで埋め尽くされていた。

 この日は、対談とライブの二部構成。

 対談では、1977年に発売されてから今年で40年を迎える、クイーンの6枚目アルバム『世界に捧ぐ(News of the World)』をテーマに、クイーン本(東京FM出版刊)の著書もある総合音楽家の和久井光司さんをゲストに、クイーン評論家の石角隆行さんと語り合った。

その後のクイーンを決定付けさせたアルバム

熱弁をふるう総合音楽家の和久井光司さん

 「We Will Rock You」や「We Are the Champions」が収録されながらも『クイーンII』や『オペラ座の夜』に比べると、影が薄いと言われている同アルバム。2人はそれまでの重厚なコーラスやサウンドを封印し、シンプルでソリッドに劇的変化を遂げたアルバムの背景を読み解いた。

 まず石角さんは、このアルバムが発売された前後のツアーのセットリストを紹介しながら、この作品に収録された「We Will Rock You」や「We Are the Champions」がアンコールに登場するようになったことで「その後のクイーンのライブを決定付けさせるものになった」と前置き。

 和久井さんは、当時流行し始めたパンクに触れ、パンクのムーブメントは「74年にNYで始まり、リチャード・ヘルのマネージャーだったマルコム・マクラーレンがセックス・ピストルズを手掛けた。そこに目を付けたのがクイーンのロジャー(テイラー)だった」と説明。

 当時の名のあるミュージシャンはパンクやセックス・ピストルズに冷ややかな目線を送っていたものの、「クイーンは新しいものに対しても悪口を言わなかった。ちゃんと受け止める寛容さがあった」と述べ、それらの楽曲を場内に流し、その変化と歴史を辿った。

 また、イギリスなどヨーロッパでブレイクしたクイーンがアメリカ進出に向けて作ったのが「We Are the Champions」であり、当時の世界的な流れとして、海外バンドがスポーツのアンセム曲をもってアメリカ進出をおこなっていたとした。現に、米大リーグのニューヨークヤンキースが同曲を使用したとも紹介。石角さんは「その流れにクイーンは乗ることができた」と述べた。

グイーンのボーカル、波多江良徳さん

 更に、ブライアン・メイが手掛けた「イッツ・レイト」とフレディ・マーキュリーによる「My Melancholy Blues」の歌詞を読み比べ、当時のクイーンが置かれていた立場や2人の心境の違いなどを読み解いた。

 また、多彩な音楽ジャンルを取り入れたクイーンの姿勢を振り返り、「当時は黒人音楽と白人音楽の接点はなかった。それをシャッフルしようとしていた気配が今になって分かる。そうした意味でも同アルバムは貴重」との趣旨を述べた。

 小休止を挟んでおこなわれたライブでは、クイーン・トリビュート・バンドのGueen(グイーン)が名曲を歌い上げた。

 グイーンは、ポール・マッカートニーが2013年に来日した際に開かれた、ポール夫人のバースディパーティに招待された。ポールを始めメンバーらを前に熱演したグイーンは、賞賛を浴びるとともに、そのユニークさに爆笑をさらったという“実績”がある。

 この日は、滅多に聴けない同作のレア楽曲を中心に、先の名作2曲や「Bicycle Race」などを熱演。確かな演奏力と確かな歌唱力、時折、ユーモアなパフォーマンスを挟み、会場を盛り上げた。(取材・撮影=木村陽仁)

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