誤解を払拭したい 財部亮治にみるYouTuberというクリエイター
INTERVIEW

誤解を払拭したい 財部亮治にみるYouTuberというクリエイター


記者:木村武雄

撮影:

掲載:16年02月21日

読了時間:約15分

YouTuberを知るきっかけとなったマイケル

財部亮治

財部亮治

――YouTuberになったきっかけはそこにあった?

 YouTuberになろうと思った動機は実はいっぱいありまして…。憧れていたアーティストが海外のYouTuberだったんです。もともと僕は、マイケル・ジャクソンが凄く好きで、音楽の道でやっていくと決めて会社を辞めたわけなんですが、「とりあえず神様を拝みに行こう」と思ってマイケルのお墓参りに行ったほどなんです。

 マイケルが亡くなったのが2009年で、僕がその会社に就職してすぐだったんですけど、凄く落ち込んだんですよ。落ち込みながらYouTubeでマイケルの曲とかを探していたら、「カート・ヒューゴ・シュナイダー」と「Sam Tsui」という人がマイケル・ジャクソンのメドレーをYouTubeにアップしていたんです。その時は彼らがYouTuberだという事は知らなかったんですけど、凄い衝撃を受けて。曲のクオリティもそうですけど、それを自分達で作ってアップしているという事が僕には新鮮で。「何者だ?」となったわけです。

――YouTuberの出会いはその頃だったんですね

 そうです。そこからずっと彼らの動画をみるのが習慣になって、それがいつしか「彼らみたいになりたい」という気持ちになって。上京して少し経った頃に始まった「glee」(編注=2009年から2015年にかけて米国で放送されたテレビドラマ。高校の合唱部を中心に描かれている)という海外ドラマが好きになりまして。そういうのをやりたいなと思ったんですけど、上京して友達もいなかったから、一緒にコーラスグループを作る事も出来なかったので「じゃ、一人でやろうか」と思って…。そうした色んな要素が集まってYouTubeを始めたんです。

――福岡でも音楽活動はできたと思いますが、なぜ上京を?

 福岡は音楽が盛んな地域で。だけど僕は、仕事として音楽をやっていくと決意したのが25歳と遅かったということもあって。早く売れたいと言いますか、東京の方がマーケットは大きいから、その分、チャンスも多いのかなと。

 それと、やっぱりやらないで後悔するより、やって後悔した方がいいかなという考えがあって、それで会社を辞めて。退路を断ってというわけではないんですけど、地元の福岡を飛び出して、東京で思いっきりやって「駄目だったら駄目で」という方が自分的には納得するのかなと思ったりしまして。それで東京に来ました。

――渋谷で活動されていた頃はどういった歌を?

 右も左も分からなかったので「とりあえず曲を作らなきゃ」と思って、最初の頃は普通にポップス調の曲を作っていました。でも、クラブで歌うにあたって違和感があって。それで、郷に入れば郷に従えじゃないですけど、馴染むようにクラブで歌っている人のまねをして。でも全然しっくりこなくて。「オレ何してんだ?」と思うくらいに。

――まね?

 お客さんの前で「Party people!」「調子はどーですかー!」というノリをしてみたり。でも「いや、オレ全然こういうガラじゃねんだよな…」と。自分のキャラクターを出さないといけないなと思って。僕はけっこう“おちゃらけ役”というか、“盛り上げ役”というか、そういう感じのキャラクターなので、思い切って「宴会芸」じゃないけど「そういう事からやっちゃえ!」と思って、ライオンキングの「サークルオブライフ」という歌があるんですけど、それをやりました。みんなクラブで普通にダボダボの服とか着ている中で…。

個性探しの結果たどり着いたYouTuber

財部亮治

財部亮治

――当時周りが歌っていたのはHIP HOP?

 HIP HOPとかR&Bでしたね。でも僕だけちょっと違いまして。そんな中で「財部亮治です!」と呼ばれた時にこう、アフリカの民族衣装みたいなのを着て、上半身裸で「ラ〜〜!」とか言ってステージに出るんです。そうしたら、自分の中で何かが解放されて(笑)。何かやりやすくなったんですね。もう喋りとかまで。普通の自分が出せるようになって、「何かイイわ!」となりました。そうしたら結構気に入って頂けまして。「ウチでも歌って」といろんな所からオファーがあって。けど、「このままじゃ駄目だなあ」とも思ったり。

――「解放された」ということは、よほど強く“クラブ”という概念にがんじがらめになっていた?

 そうかもしれません。どちらかというと吹っ切れたと言いますか。何か型にはまろうとしていたと言うか、「クラブで歌う人ってこうじゃなければいけないんだな」とか。それ以外の事をする事に対して凄く恐怖感をおぼえていたと思うんです。

 でも、それ以来、自分のスタイルで行っちゃえと。それをやってしまえば何でも行けちゃうと言うか。なんだかんだで、こちからバリアを張っていたと思うんですよ。ライオンキングとか、気取らず構えずという感じで行けば、皆寄って来てくれて話かけてきてくれたりとか、他のイベントに呼んでくれたりとかして。最初はイベント毎にライオンキングして歌ってたりしていたんですよ。

 でも毎回、ライオンキングやっていると、自分的にも飽きてきたり、お客さんも多分飽きてきているんだろうなと思って、何か他の事も考えないといけないなと。それに加えて、クラブで「次のアーティストは財部亮治です!」と言われた時に、何か「アーティスト」という言葉に違和感をもっていて。「シンガーソングライター」ではあるけれども「アーティスト」ではないなと心のどこかで思ったんです。

 それでアーティスティックな世界観を創れる人になりたいなと思いまして。そこに居る人達をもっと楽しませたいなと思った時に、普通に出て来て歌うだけじゃなくて、映像を使ったりとかして、歌うとある程度僕のカラーというか、プラスアルファが出せるのかなと。

 その時に「これだ!」と思ったのが「カート・ヒューゴ・シュナイダー」らの動画や「glee」が頭に浮かんで、「色んな物をやった方がいいかもしれない。動画を作ろう」と思って、以前に写真を撮りたいなと思って趣味で買った一眼レフを取り出して、構えていたら「コレ動画撮れるじゃん!」と気付いて。三脚代わりにダンボールを重ねて態勢を作って「これなら撮れる!」とかやっていて動画を作っていきましたね。

――試行錯誤しながら動画制作をしたのですね

 MacのiMovieでやろうと思ったんですけど、これじゃどうにもならないと判断して、ネットで調べたんです。そうしたら、「Final Cut」というのがありまして、それで何とか動画を作ってみたんです。それをクラブのイベントの時に流して歌って、どうせならネットに公開しようとYouTubeにアップしたんです。そうしたら、1カ月で300回再生されて。そんなに観てもらえないと思っていたんですけど、案外観てもらえていると実感して。Facebookでシェアしてくれてたりとかして、福岡の友達や会社の同期とか、東京で出会った人達にも観てもらえて、「財部亮治が面白い事やってるよ」って言ってくれました。

 そこで「あれ、渋谷で歌うよりこっちの方が色んな人に届くかも」と思ったんです。自分の中でも凄く楽しかったし。作品そのものを作っている事が楽しかったので。「これは毎月動画をアップしていこう」と思いましたね。最初にやったのが「一人glee」っていう多重録音で。それでglee界隈で僕の事を知ってくれる人が出て来て、gleeのイベントによく出るようになりまして。その頃に初めて「YouTuber」という単語を知ったんです。「あ、僕が好きな人達ってみんな『YouTuber』だったんだ」と気づきました。僕がやりたいのはこれに近いなと。渋谷とかのイベントよりも動画に絞ろうと思いました。

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