日本語ロックの歴史

 グループサウンズのブームが落ち着きを見せた60年代後半から70年代初め、日本のロックバンドは、ロックンロールやハードロック、フォークミュージックなどの要素が音楽的背景として色濃く見られた。日本語とその文学的要素を歌詞に乗せてロックで表現する「日本語ロック」という解釈が生まれたのは、この頃の時代ではないだろうか。

 当時は「日本語とロックミュージックの相性の是非」という論点を争うといった動きもあったというが、忌野清志郎や「はっぴいえんど」など、偉大なアーティストらは「ロックは英語でないと合わない」という当時の一部の風潮を嘲笑うかの様に、現在も愛される数多の日本語ロックの名曲を産み出し歴史に刻んだ。

 その時代を跨いだ「人間椅子」「美狂乱」「筋肉少女帯」など、文学的な要素、サブカルチャー的存在そのものを感じられる数々のバンドは、メタルやプログレッシブロックを深く解釈し、独自の音楽性へと発展させ、積極的に日本語を用いてロックを表現した。あるいは、それらのロックを用いて日本文学を表現した。日本語を歌詞に乗せ表現するロックバンドの登場は、日本のロックシーンを更なる展望へと華をもって飛翔させた。

 イギリス、アメリカが発祥であるロックにもかかわらず、英語で歌う事に抵抗を見せ、さらに、日本語で歌う事に対しても抵抗と葛藤をみせた背景もまた「その時代ならでは」とも言えるのであろう。

 ロックに日本語を適応させる、はたまた「日本の文芸をロックで表現する」という、当時の偉大なミュージシャンらの果敢な行動は現在にフィードバックされ、「ラップを日本語で」「ソウルミュージックやレゲエを日本語で歌い上げる」という90年代前後からの日本のポピュラー音楽シーンにも繋がり、2000年代後半には「日本語をDTM上でプログラムして歌わせる」という、初音ミクに代表される音声合成システムVOCALOID(ボーカロイド)のムーブメントにまで繋がった。

 と、ここまで繫げるのはやや強引すぎるきらいもあるが、世界的に見ても日本独自の荒技「ボカロ文化」にまで日本語による音楽が発展したのは、日本パンク創成期当時、それ以前の前身のアーティストらの精神を、時代背景の変化に伴いその形を変えて、文化として受け継がれているという要因が少なからずあるのではないだろうか。

パンク出身の作家

 さて、再び「INU」に話を戻したい。シンプルでストレートな表現、パンクやハードコア音楽のそれにみられる爽快な歌詞とは一線を画する言葉の表現、歌詞の異端性が「INU」にはあった。日本語を巧みにパンクバンドで表現したという点で、日本のバンドシーン上で町田町蔵はキーパーソンの一人だ。

 「INU」はメジャーデビューからわずか3カ月で解散というパンクバンドらしい立ち回り(?)でシーンから去った。中心人物である町田町蔵(町田康)はその後も様々な名義で音楽活動を続け、俳優としての活動も行うなど、様々な活動をする。現在は主に作家「町田康」として活躍している。

 1992年に「町田町蔵」名義で詩集「供花」を発表。1996年には町田康として小説家デビュー。処女作品「くっすん大黒」を皮切りに、芥川龍之介賞、川端康成賞、野間文芸賞などなどこれまでに数々の文学受賞作品を文壇に発表する。パンクスならではの独自的作風、町田康にしか言語化できないであろう言葉が紡がれた作品の数々は現在もなお、文脈から主張を続けている。

 町田町蔵は、パンクバンド「INU」を経て「町田康」として文学界に旋風を巻き起こす。音こそ発せず言葉を綴りパンクシーンに存在する類い稀な文化人であり、その時代の象徴とも言える。=敬称略=  【平吉賢治】

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[写真]町田康率いるINUを生んだ時代背景を考察

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