SHOW-YAというバンドの歴史

[写真]SHOW-YAの魅力を考察<4>

SHOW-YAがこれまでリリースしたシングル

 SHOW-YAは、寺田と中村が中心となり結成、1982年にバンドコンテストのレディース部門で最優秀グランプリに輝いたものの、寺田と中村を除くメンバーが脱退、その後、ドラムの角田美喜、ベースの仙波さとみ、ギターの五十嵐美貴が加入し、現在の不動の体制が確立、1985年にメジャーデビューを果たした。

 当時は、アイドルバンド路線で売り出される傾向にあったが、次第に彼女ら本来のハードロック路線に回帰し音楽を追求、30万枚を突破した8thシングル「限界LOVERS」や「私は嵐」のヒットも相まって、7枚目のアルバム『Outerlimits』は約60万枚のセールスを記録。バンドはトップアーティストとして一気に世の注目を浴びるようになった。さらに1987年から始めた、女性アーティストのみを集めた野外イベント『NAONのYAON』により、女性バンドの認知度を上げることに貢献するなど、一バンドとしてだけでなくさらに幅広い活動を続けるようになった。

 しかし、1991年に多忙を極めた状況により、喉を潰すなどの体調不良と精神的ストレスを理由に、寺田がバンドを脱退。残されたメンバーは、新しいボーカルにステファニー・ボージャスを迎えて活動を続け、1997年にボーカリストをYoshinoに交替後、1998年にバンドは解散を迎えた。だが、2005年に寺田が5年の年月をかけてメンバーを説得し、再結成を果たした。以降は数々のライブ活動など、精力的に活動を続けて今に至っている。

ロックシーンに影響を与えたSHOW-YAの秘密

 SHOW-YAがロック界で大きな存在として君臨し続けた理由とは、どのようなものだったのだろうか? それは、彼女らが女性バンドという立場を保ちつつも、個々のメンバーが一流のミュージシャンとして成長を遂げた、そのバランス感にあると考えられる。

 女性バンド、アーティストという立場だけが前面に出てしまい、実力を伴わないバンドであれば、一時的にシーンに登場することはあっても短命で終わってしまうだろう。バンドの躍進とともに、SHOW-YAのメンバーはバンドとしてだけでなく、個々のミュージシャンとしても日本ロック界の大御所的な男性プレーヤーとも肩を並べている。

 寺田は、ロックミュージシャンとしてだけでなく、2004年にはミュージカルにも出演、さらにLOUDNESSのニ井原実、EARTHSHAKERの西田昌史という日本ハードロック/へヴィメタル界の二大巨頭と肩を並べ、スペシャルグループ「西寺実」を結成するなど、様々なセッションでも女性ボーカリストとしてファーストコールの一人に挙げられている。

 また、ギターの五十嵐もそのセンスを買われ、EARTHSHAKERのギタリストである石原慎一郎のサイドプロジェクトであるmintmintsのメンバーとして活躍するなど、ロックアーティストとして高い評価を得ている。これほどまでに彼女らのミュージシャンとして、取り上げればきりが無いほどに高いスキルを持っている。

 逆にミュージシャンとしての台頭だけでも、彼女ら自身がここまでシーンの中で輝くことは出来なかっただろう。彼女らのデビュー期に、「女性バンド」としてアピールするグループが殆どいなかったという背景もあったからこそ、なおさらその傾向は強くあったかもしれない。一ミュージシャンとしての成長と共に、彼女らが女性バンドとしてのメリットを深く追求し続けたことで、自身が注目されるための特徴を得たとも考えられる。

 ざっと書いてしまうと、これらのことは当たり前の話のように感じる人もいるかもしれない。しかし、彼女らと同等に「女性としてのアピール」と、「ミュージシャンとしての実力」を併せ持ち、長きにわたって活動を続けている女性バンドが他にいるかは、そう数を上げることは出来ないだろう。それほどまでに彼女らが打ち立てた金字塔は大きなものだ。

記事の続き:メジャーデビュー30周年

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