ピアニストの桑原あいが4月7日、ニューアルバム『Opera』をリリースする。本作は、ピアニストとしての真髄を聴かせるキャリア初のソロ・ピアノ・アルバム。持ち前の豊かな表現力を最大限に引き出す、ジャンルの垣根を超えた名曲のカバーを中心に収録。これまでのキャリアを俯瞰しつつ、ピアニストとしての新境地に立つ。カバー曲のうち5曲は桑原とも親交のあるシシド・カフカ、立川志の輔、山崎育三郎、社長(SOIL&“PIMP”SESSIONS)、平野啓一郎の計5人にリクエストを依頼。彼らがセレクトした多彩な楽曲が、桑原のアレンジにより奏でられる。本作の話題を聞くとともに、「曲を書くこともできなかった」というスランプを脱するきっかけとなった出会いと新たな音楽観について語ってもらった。【取材=平吉賢治】
世界が180度変わった出来事
――2020年を振り返っていかがでしょうか。
めちゃくちゃ落ち込んでいました。4、5月あたりはあまりやる気が出なくて、曲を書こうともピアノを弾く気にもならず、ぼーっと過ごしていました。何か悲しかったんです。何に対しても鼓舞されず、むりやり頑張る必要もないのかなと思って。何もしないということを久しぶりにしていた感じです。6、7月あたりから「この企画の曲を書いて」などお話を頂き、作曲から活動を始めました。
――過去の動画で、作曲の時はかなり集中する環境を作ると仰っていましたね。
日常から離れた非日常の「アーティストとしてどうやって見せていきたいか」と理想像を掲げていたので、日常や生活というものから離れた環境を自ら作り、非日常を演出して自分を追い込む形で曲を書いていました。それによって疲れきって曲が書けなくなったということがありまして。でも、クインシー・ジョーンズ(米ジャズミュージシャン)に会ったことで気持ちの変化などがあり、スランプを乗り越えられたんです。
そこからは非日常ではなく、日常に感じるちょっとした心の揺れなどを曲にしていく方が人に寄り添える音楽が書けるのではという風に方向転換していきました。そうすると気持ちも楽になったし「こういう自分でいなければいけない」というアーティスト像もなくなり、今の等身大のナチュラルな自分でという部分を凄く大事にするようになりました。今は音楽をしていない時の自分も凄く大事にしています。
――そういったスタンスになったきっかけは?
本当に曲が書けなくなっちゃって「自分の出す音が嫌い」という風になってしまったんです。自分の音楽を創ることに対しての糸が切れてしまったような感じで。クインシーに会わなかったら多分辞めていたのかなというくらいでした。だからレコーディングをしていても楽しいと思わなかったし、良いものをと考え過ぎて、理想の音楽があり過ぎて。何をそんなに焦っていたのかというくらいでした。
ピアノの根本の音を鳴らすという部分、ピアノが喜んで音を鳴らしている状態、それが思ったようにいかなかったのがつらくて。「こんなに練習したのに全然響かない」など、そういうことばかり考えていたので凄くコンプレックスがあったんです。作曲する時くらいは人と違ったものを生み出さないと、ということがあったと思うんです。
――葛藤があったのですね…。
それでも前に出る時はプロとしてその時のベストを出さなければいけないので、そうしていたつもりなのですが根本がそこにあったので。「ピアノが弾けない」というのがずっとあった中、15歳の頃からレッスンを受けている先生と「私が鳴らせるピアノの音」を、体のつくりから何からずっと研究して、それが少し板について「ピアノが鳴ってくれている」というところに辿り着き始めたのが2年くらい前なんです。それからは少しずつピアノとの距離が縮まり「ピアノが喜んでくれている」など、前向きに捉えるようになりました。
スティーヴ・ガッド(米ドラマー)とウィル・リー(米ベーシスト)とは、作曲のスランプを抜けた1年後くらいに始めてレコーディングをしました。レコーディングの最中にスティーヴに“Are you happy?”と言われて、どういう意味だろうと思いました。私は“I’m happy”と、即答できなかったんです。スティーヴとウィルとレコーディングできることは夢だったし、凄くハッピーだったはずだけどそう言えなかったので、多分スティーヴはそういう私の葛藤を感じ取って「とにかく、あいが幸せでいないと僕達は幸せになれないよ」と言ったんです。そして「あいが幸せでいて、心が健康でいることが一番いい音楽を創る要素だからね」とも言われて。そこから世界が180度変わって見えました。
――核心を仰ったと。
そこからです。クインシーに頂いた自信もあるし、その直後にスティーヴとウィルにそう言って頂いたので。ツアーをして2人の人間性にもたくさん触れて「なんて狭い世界で生きていたんだろう」と思いました。彼らは日常をとても大事にしているんです。家族との時間、ディナーを楽しみにすること、ちゃんと寝ること、よく笑って、家族が元気でいることを常に気にかけているんです。
彼らは私に会うとまず「家族は元気?」というような話をするんです。「音楽がどう」というのはその後なんです。とにかく「人間である」ということを彼らに教わりました。それでピアノに対しての向き合い方も変わり、気も凄く楽になりました。
――スティーヴさんの“Are you happy?”という一言は大きかったのですね。
そうなんです。言われてびっくりしました! スティーヴはどんな時も私が何も言っていないのに「何でそんなにわかるんだろう?」というくらい察してくれるんです。しかも直接言うと私が気にすることをわかっているので、プロデューサーを通して「あいにこう言っておいてね」という風にしてくれたり。それでスティーヴにお礼を言いに行くと彼はただ、ハグをしてくれるんです。本当に凄い人なんです。
ウィルはとにかく私が楽しめるように、私が笑うことだけをずっとしてくれるんです。2人とのライブの前など、ナーバスになって食事が喉を通らなくても、2人が「この曲のアレンジは、あいの意思を受け取って僕達でブラッシュアップさせておくから、あいは寝てなさい」と言って枕をくれて毛布をかけてくれるんです。さらに、私が「一緒にご飯が食べられない」と言うと「とにかくここに座りなさい」と言って私が少しでも食べると「あいが食べた!」と拍手してくれるんです(笑)。2人からは音楽としても、人としての面も、色んなことを教えてもらい感銘を受けて、今それが生きていると思います。とにかく「音楽は人である」ということですね!
自身のターニングポイントをサウンド化
――本作のカバー曲のうち5曲は、桑原さんの音楽を愛する方々にリクエストを依頼して録音されたとのことですが、この経緯は?
そういった企画を提案して頂いて面白いと思ったんです。「やりましょう!」と即答でした。
――選曲をしたシシド・カフカさん、立川志の輔さん、山崎育三郎さん、社長さん、平野啓一郎さんら5人とは交流がある?
それぞれあります。
――2曲目「リヴィン・オン・ア・プレイヤー」を桑原さんが弾くとああいったアレンジになるのですね。
ああなりますね(笑)。私もボン・ジョヴィ(米ロックバンド)を弾くと思いませんでした。選曲されたシシド・カフカさんはボン・ジョヴィがお好きだと以前おっしゃっていたので、ボン・ジョヴィ来た!と思いました(笑)。この曲は“ザ・バンド”で歌ありきというような曲なので、ピアノ1本で弾くことにとにかく興味がありました。この曲の歌詞はストーリー仕立てで物語がつくりやすかったのと、ベースラインも印象的なので、アレンジもやり甲斐がありました。特にベースラインの変化の仕方に注目してもらいたいです。
――とてもドラマチックなアレンジと感じます。そして立川志の輔さん選曲の「ワルツ・フォー・デビイ」も印象的なトラックで、とても丁寧なプレイだなと感じました。
丁寧に、というのは意識しました。絵画を意識するというか、それこそエリック・サティ(仏・作曲家)さんのような世界観を持って演奏しました。ビル・エヴァンスさんが「ワルツ・フォー・デビイ」の1コーラスだけを弾いているトラックがあって、とても丁寧な演奏なんです。それが凄く好きで、少し意識したのもあります。
――なるほど。そして山崎育三郎さんの選曲はGReeeeNの「星影のエール」ですね。これは意外なチョイスと感じました。
育三郎さんとは舞台系のお仕事でお会いし、以前育三郎さんのディナーショーでピアノを弾かせていただいたこともありました。さすがにこの曲がくるとは思わなかったです。育三郎さんは「星影のエール」が主題歌の(NHK連続テレビ小説)『エール』に出られていたのでなるほどなと思いました。私もずっと観ていたので嬉しかったです!
――社長さん選曲の「ミスハップス・ハプニング」の印象は?
この曲は本作のカバー曲で唯一私が知らなかった曲なんです。全然知らない観点から攻めてきてくださる感じが、社長さんはさすがだなと思いました。
――「デイドリーム・ビリーヴァー」は桑原さんの選曲ですね。
私は忌野清志郎さんのバージョンの「デイドリーム・ビリーヴァー」が本当に好きなんです。マネージャーが推してくれた曲でもあります。この曲をピアノで弾くことにより、みんなの頭の中で清志郎さんの声が聴こえてくるようなトラックにするといいんじゃないかなと、清志郎さんの歌い回しを全部耳コピしてニュアンスを出したんです。一緒に歌えるように弾いている感じです。
――そういったコンセプトもあるのですね。そして桑原さん作曲の「ザ・バック」はどんな着想で制作されましたか。
もう4年前くらいになりますね。クインシー・ジョーンズに会った時、彼の後ろ姿を見て書きました。自分がスランプの時にスイスの『モントルー・ジャズ・フェスティバル』で演奏する機会を頂いて、その演奏を聴いてくれたクインシーが「あなたはこのまま進んで行けばいいだけだから。何もあなたに足りないものはないよ」と言ってくれたんです。「今のこの気持ちを曲にしないと後悔するな」と、クインシーが帰って行く後ろ姿を見た時、これをタイトルにして曲を書こうと思いました。
スイスから帰る飛行機の中で五線紙に向かい1年半ぶりくらいに曲を書いたのがこの曲です。私は普段からピアノを弾かずに曲を書くので、クインシーの後ろ姿だけを頼りに書き、久しぶりに「書けた」と思いました。そこでやっとスランプを抜けたんです。それからスティーヴとウィルと共演という流れがあるんです。
――するとターニングポイント?
間違いないです。一番のターニングポイントだと思います。クインシーに会っていなければスティーヴとウィルとも会っていなかったと思いますし。クインシーに会ってスランプを抜けて、そこから人生が変わったポイントです。全てが繋がっています。
――ターニングポイントをサウンド化したのが、本作収録の「ザ・バック」と。
そうです!
桑原あいの今の夢
――以前のインタビューで「好きなアーティストを聞かれてもあまり出てこない、あまりハマる事がない」と仰っていましたが、それは今でも?
基本的にはそうです。アーティストとして「今ハマっている音楽は?」と聞かれた時に特に出てこないということだと思います。大好きな作曲家、大好きな三大ピアニストはいます。
――その三大ピアニストとは?
ミシェル・ペトルチアーニ(仏ジャズピアニスト)、リチャード・ティー(米ピアニスト)、アート・テイタム(米ジャズピアニスト)です。この3人からは凄く影響を受けています。ちなみに二大作曲家は、レナード・バーンスタイン(米・指揮者、ピアニスト、作曲家)とブラームス(独・作曲家、ピアニスト、指揮者)です。
――そういったバックボーンがあるのですね。さて、今後は音楽でどのような表現をしていきたいですか。
映画音楽を作りたいです。聴いただけでその情景が浮かぶサウンドトラックを。理由としてはそれに影響を受け続けているから。映画音楽は音楽と映像がマッチしていないものだったり、監督によって音楽の重要性はその比率が違うと思うんです。それは聴いているとわかるんです。ウォン・カーウァイさんなど、監督によっては音楽の音量が大きかったり、そういう時につけられる映像が凄く綺麗だったりするんです。
ウォン・カーウァイ(香港の映画監督、脚本家)監督の作品を初めて観た時に、こういう風に音楽の使い方を切り取るのって面白いなと凄く感動したんです。エンニオ・モリコーネ(伊・作曲家)さんに関してはメロディが全てを物語っているというか、この曲を聴いたらみんなが「あの作品いいよね!」と、曲というより「作品がいいよね」となるじゃないですか? 私は、音楽が伝えるものはそこだと思っているんです。この曲がどうというより、その作品を何段階も上にするというか、そういう映画作品を見た時に鳥肌が立つんです。そういったものを作るのが夢です。
(おわり)