僕らの世代の今だから言える、THE ALFEE “結成45年”の矜持
INTERVIEW

僕らの世代の今だから言える、THE ALFEE “結成45年”の矜持


記者:木村武雄

撮影:

掲載:17年12月26日

読了時間:約20分

ヒット前夜

――ヒット曲「メリーアン」が出るまでに10年…というお話は前回、高見沢さんには聴いていますが、お二人はどう思っていたのでしょうか。ヒット曲が出るまでは。

「人間だから悲しいんだ」初回限定盤A

坂崎幸之助 僕ら自体はライブでちょっとずつ良くなっていたんです。いわゆる、誰もが知っている代表曲はまだなかったんですけど。ライブはかなり盛り上がってきていて、最終的にはヒット曲が出る前に武道館まで売り切っていたんです。だから悲観的にはならなかったですね。けっこういい感じで前向きで。3人ともそういう意味ではね。

高見沢俊彦 あまり考えてなかったな。辛いとか悲しいとかよりも、まだ若かったから。売れるとか売れないとかは違う世界の話だと思っていたんです。自分達が売れるとは思っていなかったんだろうね。それよりも目の前のステージをちゃんとこなそうとか、そっちの方が強かったかもしれないな。そのためにシングルも出していましたけど、やっぱりそんなに反響はないですし、売れていかないから。

坂崎幸之助 周りの人の方が「こいつらにヒット曲を出してやりたいな」とか。

高見沢俊彦 「早く書け」とか、だんだん迫ってきたよね。

坂崎幸之助 プレッシャーがね(笑)。

高見沢俊彦 あんまり気にしてなかったんですよ。「まあいいか、コンサートやっていれば」みたいなね。でもプロはそういう訳にはいかないみたいで。そりゃそうだよね(笑)。

――桜井さんはいかがでしたか?

桜井賢 ブームで出てきたことによって自分達がやりたいことができた訳ではない線路に乗せられたので、それで予選で脱線したみたいなものだから。そこで全てが始まったので。本来は出来上がったものが評価されて「デビューしないか?」なんだけど、俺達はデビューをしてから全部やってきたので、やればやっただけの少しの効果が出てきたことで、落ち込むことはなかったんです。その積み重ねがライブの動員にも繋がってきたし。そこにヒット曲が出たから爆発力も凄かったんだけど、普通はそれで人間が変わるんですけどね。ビッグスターになることで。でも俺達は変わりようがなかった(笑)。

坂崎幸之助 ふるさとがない、帰らなくてもいいという。やっぱり地方から来た人達って凄いパワーですよ。そういう力を目の当たりにしていましたね。「ここで負けたら帰らなきゃいけない」みたいな。地元に音楽仲間がたくさんいて「俺は東京に行って成功してくる」と言ったのに、負けて帰らなければいけない、みたいなものが見えるんですよ。僕らは全くそういうのがなくて(笑)。

高見沢俊彦 当時のそのパワーは凄かったな。

坂崎幸之助 そのパワーの違いはプロになってから初めて知りました。

高見沢俊彦 強い、上手い、怖い! と三拍子そろってた(笑)。

坂崎幸之助 みんな上手かったよな。いい曲もあったし。そこにプロになって気付いたというのは、3人とも東京近郊だし、次男坊でぼんやりしてたんじゃないの? ハングリーさとか全くないものですから。好きで楽しくて音楽をやっていただけですからね。

――そこからくる良さというのもあるでしょうね。

坂崎幸之助 時間がかかったというのは、そういうところもあるでしょうね。逆に言えば、長続きしているのもそういうところなのかもしれません。長く続く秘訣とかよく聞かれますけど、たぶんそういった3人の性格だと思うんです。

――しかし、仲が宜しいですよね。ライブ中だけでなく、打ち上げも、この場も。

高見沢俊彦 仲が良いとはよく言われるんだけど。他のグループ、そんなに仲が悪いの? 普通だよ、俺たちは(笑)。

桜井賢 バンドをやるために寄せ集められた人たちが打ち解けるには時間がかかるだろうし、そこで反発もあるだろけれども、もともと同級生が集まってんだから、それ以上発展もなきゃ、それ以下にもならないしね。

悔しかった“幻”の府中捕物控

――今作「人間だから悲しいんだ」に絡めて、これまでで一番悲しかったことは何でしょうか?

「人間だから悲しいんだ」初回限定盤B

高見沢俊彦 いっぱいあるけど、THE ALFEEで言ったら3枚目のシングル(75年10月に発売予定だった「府中捕物控」)が発売中止になったことですね。これは悲しかったです。

坂崎幸之助 でかかったですよね。

高見沢俊彦 それも自分達の曲じゃなかったから余計に。そこで僕はオリジナルの重要性に気が付きましたね。自分達の曲ではないからこそ、勝手に発売中止になったり、相談もなくされちゃう訳ですから。そういった部分では目覚めた感じはありましたね。辛いというよりも悲しかったです。

――そこで発想の転換ができたのは?

高見沢俊彦 ここでやめる訳にもいかないと思ったから、逆に踏ん切りがついたという感じがしますね。まだ学生でしたからね。そういうところの甘さもあったのかもしれません。プロになるということはそんなに甘くないんだなと。

桜井賢 業界の厳しさというのはそこでよくわかりました。1枚目のシングルには莫大なお金をかけて、2枚目になったら全く売れなくて、3枚目になったら…。

坂崎幸之助 回収しなきゃってね。

高見沢俊彦 発売中止だもんね。

坂崎幸之助 僕らではなくて周りが決めて、3枚目はコミックソングで今までの分をちょっとでも、それこそ変な言い方になるけど、回収しなきゃなというのがあったと思うんですよ。そのコミックソングを発売の前日に「やっぱり中止だな」と。

高見沢俊彦 やっぱショックです。

坂崎幸之助 自分ら何もしていないのに、情けねえなと。

高見沢俊彦 「え! 発売中止…」みたいな、ね。

――今回の曲の歌詞にも「裏切られた」とありましたが…。

高見沢俊彦 それとこれは全然違いますよ(笑)。あくまで曲ですから。そこまで根に持っていない(笑)。自分のことではなく、一般的なことですね。

桜井賢 それがあったから今があるというね。そこで結束力が生まれたし、またゼロから始まったので。そこからですよ、本当のTHE ALFEEの歩みは。レコード会社もやめちゃって、浪人になって、どこにも所属しないでライブハウスでやったりとか。

――その後、強みはフォークだ、と原点を見つけることになりますが、当時はそういうことを再認識されたのでしょうか。

高見沢俊彦 あまり考えてなかったね。

桜井賢 もう何でもやりました。

高見沢俊彦 音楽をやるんだという意思だけですよね。

坂崎幸之助 まだ方向性がなかったからね。とにかくがむしゃらに色んなサウンド、曲調とか。

高見沢俊彦 だからライブハウスでロックもやったしね。フュージョンっぽいものもやったし、もちろんアコースティックもやったし。今、ステージで展開しているようなことはライブハウスでしていたんですよ。それでまたキャニオンから出るということになってからまたアコースティックにしましたけどね。

坂崎幸之助 キャニオンに移るときに、数年間、色んなことをやってきたぶんだけ、方向性をどっちの方で行こうか決めなきゃいけないと。ちょうどそのときにディレクターやスタッフと考えて、僕らの一部でもあるアコースティックサウンドで行こうと。

――そのときに確固たるものができたとも言われていますが。

坂崎幸之助 基本はそうだったからね。アコースティックギターが1本あれば3人でハモってというのが楽しくて始めただけですから。

高見沢俊彦 コーラスが楽しくて、ハモったりするのが面白かったというか。そういうグループをコピーしてきたしね。

坂崎幸之助 高見沢が再びエレキを持ちだしたのは、僕らのライブが盛り上がってきたからなんです。自分達が思っている以上に。

高見沢俊彦 アコギなのにね(笑)。

坂崎幸之助 そうそうアコースティックギターなのに、お客さんが総立ちになっちゃって。「高見沢、生ギターなのに前の方に出て行っちゃったって。音出てねえーぞ!」って。

高見沢俊彦 当時はエレアコというギターが出ていなかったからね。

坂崎幸之助 そうなっていったので、必然的にサウンドも厚くなっていったんです。

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