中毒性のあるビートと突き抜けたポップセンスを武器に、ジャンルレスに展開する4人組バンドのYasei Collective(以下=ヤセイ)が24日に、通算5枚目となるフルアルバム『FINE PRODUCTS』をリリースする。2009年に結成された、松下マサナオ(Dr)、中西道彦(Ba、Syn)、斎藤拓郎(Key、Voc、Syn)、別所和洋(Key)の4人組。昨年はライブハウスだけでなく、ジャズクラブであるブルーノート東京で公演をおこなうなど、その活動の幅を広げている。そして彼らの魅力は、ビートミュージックや現代ジャズ、ロックなど色々な要素を織り混ぜながら、独自の表現に昇華させているところだろう。日本と海外、ジャンルが無効になった今の音楽シーンで海外勢にも負けを認めず、対等に格好良いと思われる音楽を作っていると話す彼ら。結成当時の話から現在に至るまでの道のり、ジャズシーンとライブハウスシーンの違いについてなど多岐にわたり話を聞いた。
即興演奏から、より構築された音楽へ
――まずは、自己紹介からお願いします。
松下マサナオ ドラムの松下マサナオです。ドラムが好きで楽しくやってます。他に好きな事はあまり無いです(笑)。古着くらいですかね。
中西道彦 ベースの中西です。「ドラムが好きすぎるベーシスト」という感じでやっています。
別所和洋 キーボードの別所和洋です。趣味は将棋です。腕前はアマ初段くらいですね。ネットとか、リアルでも将棋道場に行ったりします。
斎藤拓郎 ギターや、ボコーダーを担当している斎藤拓郎です。「普通のギターの音があまり好きではないギタリスト」という感じです。
――バンド結成はどの様な経緯だったんですか。
松下マサナオ 結成は2009年ですね。僕はロサンゼルスのLAミュージック・アカデミー(編注=LAMA。現在のロサンゼルス・カレッジ・オブ・ミュージック)に通っていたんです。そこでまず、道くん(中西)と出会いました。1年間で4年分のプログラムをやらせる、みたいな学校でした。特にドラムとベースはプログラムが大変で。1日の中で全てのジャンルを網羅して、それを1セメスター(前後期制の1学期)の3、4週間で組み上げて、段々レベルアップしていくみたいな短期間集中のもので。
僕は道くんの半年後に入学したんです。出会ってから「帰国したらバンドやろうよ」という話をしていて。道くんは2007年に帰国して、僕は2008年に帰国しました。それからすぐ2009年にはバンドを組みました。
中西道彦 スカイプしてたよね。俺が病んでる時(笑)。日本に帰ってきたばかりで。
別所和洋 初めて聞いたよ、それ。
松下マサナオ 彼、病んでたんですよ。仕事も無いし。「あるわけないじゃん、仕事なんて」と話してました(笑)。最悪の時期だったんですよ。ジャズシーンもそうですし、ロックとかもそうだったんじゃないですかね。サポートとか、スタジオプレイヤーとか、僕らは最初そういう演奏家を目指していたので。でも2人で「バンドやろうよ」となった時に、大学の後輩の拓郎(斎藤)を呼んだんです。そのトリオで始めたのがYasei Collectiveの母体です。
斎藤拓郎 和光大学でジャズ研(ジャズ研究会)のサークルに入っていたんです。
別所和洋 僕はマサナオが「帰国します」というメールをくれて、帰国後にセッションをしたんです。その時、在日ファンクの村上基(トランペット奏者)とかもいて。それがきっかけで、バンドに誘われて加入した感じです。
松下マサナオ 最初はセッション的な感じが強かったよね。ジャムバンド(即興演奏でライブをおこなうバンド)みたいな。僕が影響を受けた、ニーバディ(米ジャムバンド)とかマーク・ジュリアナ(米ドラム奏者)がやっている様な音楽を僕らでフィルターをかけて「ジャパン」な感じにしないでやる方法は何かないか? という話を当時してました。
別所和洋 「ジャムバンドなんだけど、エレクトロが混ざっている」という様なコンセプトだった気がします。当時、あまりそういうジャムバンドはいなかったと思うので。
――皆さんのルーツはジャズになるんでしょうか?
松下マサナオ そうでもないですね。でも、別所はジャズかな。僕と拓郎はジャズ研だったと言っても、ビッグバンド(大編成のジャズオーケストラ)でした。古いスタイルのビッグバンドで。今でもそういうのはやっていますけど。
中西道彦 僕は唯一、何のジャズも深く掘り下げてないんです。
松下マサナオ 今の方向性では、ジャムセクション(楽曲の中で即興的に演奏する部分)は凄く少ないです。誰かのソロ部分は自由に弾いていますけど。僕は(演奏毎に)変えたりするんですけど、基本的にはちゃんとフォーマットがあって。でも、ジャムっぽい曲もアルバムの中に1、2曲はあります。
別所和洋 元々は割とジャズのライブハウスで演奏をしていたんです。でも、元DOPING PANDA(編注=4つ打ちダンスロックの先駆けとも言える、日本のロックバンド。1997年~2012年にかけ活動)のHAYATOさんに「もっとロックのライブハウスでやったら?」と言われて。
松下マサナオ HAYATOさんがいなかったら、今の僕らは無いですね。全ての始まりは、彼との出会いがきっかけ。僕らのライブをたまたま見てくれて、気に入ってくれたんですよ。
別所和洋 今の事務所もHAYATOさんの紹介ですし。
中西道彦 元々は、前に僕がやっていたバンドと、HAYATOさんが対バンしたのが出会いなんです。
松下マサナオ 彼もバンドをやめるというタイミングだったので、僕らをかなりサポートしてくれました。今僕らが大事にしている、影響を受けた大人を紹介してくれたのは彼。ただもちろん、その前も渋谷のライブハウスなどには出ていました。
別所和洋 よりそっちの方に振れたというか。「そっちのシーンにいたいな」と思ったんです。
松下マサナオ そういうシーンで、そういうハコ(ライブ会場)で、今の音楽をやろうと思ったんです。演奏内容は変えずに。当時は今よりも楽器のソロや即興演奏が多かったですが、その時はそういう時期だったんです。その後に触れた、色んな音楽とか、海外や日本のミュージシャンから得たものを取り込んで構築した、様式美が強い音楽を出していこう、という次のタームが見えてきていました。