シマ唄広めたい、中孝介 美声育てた奄美の音楽文化と昭和歌謡
INTERVIEW

シマ唄広めたい、中孝介 美声育てた奄美の音楽文化と昭和歌謡


記者:木村武雄

撮影:中孝介にインタビュー「シマ唄を広めたい」【1】

掲載:16年01月18日

読了時間:約13分

「目をとじても」に感じた思い

――昨年11月にリリースされたシングル「目をとじても」は、NHK「みんなのうた」10月・11月に放送されました。起用の経緯は?

 NHK「みんなのうた」のテーマソングということで番組スタッフさんからお話を頂き、楽曲を制作していきました。

――いしわたり淳治さんが作詞を、Kiroroの玉城千春さんが作曲、金城綾乃さんが演奏されています。楽曲のデモを聴いた時の印象は?

 自分が初めて一人暮らしした当時を思い出しました。まあ、ベタですが、この曲を聴いた人は皆そういう風に感じるかもしれませんが、僕は高校卒業まではずっと親元で暮らしていました。それが沖縄の大学に進学して初めて実家を離れることに。最初は「1人になれる」ということで、そりゃあもう嬉しくて。でも、いざ離れてみると、1人で何かをやらないといけない事の大変さを身にしみて感じて。少しでも休みが出来ると帰りたくなるんです。とは言っても距離にすると近いんですけどね。でも近くても遠いみたいな、そんな距離感を感じました。

――奄美の人付き合いはどのようなものでしょうか

 島ぐるみの付き合いで、皆が知り合いなので外に出ても、誰かが誰かを知っていて、繋がっているので、常に目が光っていますよね。悪い事はあまり出来ません、すぐ噂になりますからね(笑)

――島を離れてその温かさが恋しくなった?

 そうですね。若い頃は、そういうのがうっとうしくて嫌で、「早く出たい」と感じることもありましたが、やっぱり離れてみると違いますね。その土地によって気質は違いますから恋しくなりましたね。沖縄と奄美は一緒に見られるかもしれませんが、気質は違います。分かりやすく言いますと、沖縄は「やれる事やれ!」みたいに前向きと言いますか、積極的です。一方の奄美は引っ込み思案で、常に石橋叩いて渡るみたいな所はあります。

――歌手を目指そうと思ったのはその頃?

 沖縄での暮らしたことが大きかったですね。大学に進学するまでは歌手になりたいとは思っていませんでした。それまでは普通に大学に出て社会人になって、シマ唄は趣味でやると思っていましたから。沖縄での暮らしは、新しい事を挑戦する力を与えてくれました。先ほども話しましたが、良い意味でも奄美と真逆の気質があって。沖縄の人達は、自分達の文化や産業を外部に発信するパワーが凄いんです。でも奄美の人達はそうじゃなくて、いいものいっぱいあるんだけど、それを打ち出すのが下手といいますか。「不器用」なんですよね。気持ちはあっても不器用な人が多い。

――沖縄は琉球王国や戦後の米国統治時代もあって。一方の奄美は薩摩藩の統治もあったりと…。お人柄はその土地の歴史や文化から影響を受けているかもしれませんね

 そうですね。そういうのはあるかもしれません。奄美には「ザ・日本人」みたいな気質がありますね。

元ちとせとの出会いと活動10年

――歌手デビューされて約10年が経ちました。これまでを振り返ってどう感じますか

 時の流れに身を任せてきましたが、なかでも「人との出会い」に本当に恵まれていたと思います。シマ唄をやっているからこそ出会いの幅も広がりました。

――シマ唄とポップスを融合した音楽を広めたことでは「先駆者」は元ちとせさんだと思いますが、中さんはその元ちとせさんに憧れてシマ唄をやり始めました。元さんが下地を作ってくれたと思いますが、それでもシマ唄と融合したポップスは物珍しかったと思います。デビュー当時の観客の反応はどうでしたか

 すごく応援してくれていました。奄美に生まれてずっと住んで、シマ唄を歌って、奄美でも島中で歌いましたし、鹿児島にも行って歌っていました。そこでの活動が濃厚でしたので、その中で更に広がって、東京の人とも出会いましたし。シマ唄をやっていなかったら普通に「ただ奄美大島出身」なだけで生きていたのだと思います。

――元ちとせさんとのつながりは?

 元ちとせさんがデビューする直前に、東京で『鹿児島おはら祭り』というイベントが行われて、そこに僕も出させて頂きました。当然、元さんも出ていて、僕は彼女にお願いされてシマ唄のお囃子(はやし)をやりました。その場に今のレコード会社の社長もいて、僕の声が気になったみたいで。その後、元ちとせさんが「ワダツミの木」でデビューして話題になっている時、僕は当時学生だったのですが、社長にお話を頂いて。

――元ちとせさんが「ワダツミの木」でヒットした姿をみてどう思いましたか

 当たり前だなと思いました。彼女の声を初めて聴いた時から「この人は絶対に何かをやる人だ」と思いました。島にいて、シマ唄を歌っているだけの人ではないなと感じていました。

――中さんも東京に来られて、その東京で初めてライブした時の観客の反応は?

 その頃は観客の反応とか見ている余裕はなかったですね(笑)。どうだったのでしょうね。珍しいものを見ているような感じだったのでしょうかね。その頃から観客は、自分よりも年上の方が多かったですね。同世代はまずいなかったですからね。当時はまだ25歳で。年の方が多いのは根本に、そういう古い音楽をやっているというところがあるので、そしてそれが前面に出ているからでしょうね。

シマ唄を広めていきたい

――これから挑戦していきたい事は?

 国内だけでなく、海外でも受け入れてくれる人は沢山いるので、行ける所には積極的に行って歌いたいと思います。

――海外ではその国とゆかりのある楽器を演奏に歌っている?

 はい、二胡は色々やりますね。

――インドでしたらインドの代表的な弦楽器のシタールとかも?

 ええ。やってみたいですね。そういう多国籍な音がハマるんでしょうね。

――色んな音楽、いろんな楽器とコラボしてシマ唄を広めていく?

 はい。シマ唄を広めていきたいと思っています。ただ、僕が歌っている音楽がシマ唄そのものであるという誤解を招かないようにはしていきたいとは思っています。

――ところで、今の音楽の消費市場についてどう思われますか

 やっぱりライブに来てもらえるのが凄く嬉しいですね。

――レコードからCD、現在は配信という形態の流れになっていますが、その点は?

 もうしょうがないですよね。時代が時代なので。インターネットがこれだけ普及していますし、そうなっていくのは仕方ない事ですよね。インターネットが無くなる事はこの先絶対無いと思いますし。でも、「その一枚」を創る為に、凄い時間がかかったりとか、「人の力」ミュージシャンの演奏があったりとか、一つ一つの楽器の音があったりとか。そういうものが「ある」と言う事は感じて欲しいかなと思います。感じながら聴いて欲しいと思います。

(取材/撮影・木村陽仁)

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