ポピュラリティを求める
それはそれで価値のある行為なんですよ。例えば、薬を作るにしても、研究して研究して一般の人が解らないような知識を高めてのぞまないと、良い薬はできないじゃないですか。だけど、良い薬ができたとしても、その薬の良さを簡単に説明して、どういう症状に効いてどういう副作用があるかというのをちゃんと説明して、一般市民に渡してくれる町のお医者さんがいないと、どんなに研究しても意味がないでしょう。
このバランスが、クラシックの作曲に関して言えばあんまり良くない。研究ばっかりしている。凄く難しくて、知っている人、その価値が解る人には解る。だけど一般の人にこの良さをどう説明するんだよっていう所に今ルートが流れていないんですよ。
その研究している部分の人と、映画音楽を作っている人の部分というのが合致していないんですよ。映画音楽は、映画の作曲家という新しいカテゴリーができつつあるんですよ。クラシックは、ポピュラリティを追求することにちょっと引け目を感じてしまっているというのが特徴なんですね。
最初の方に話したモーツアルトの話がそのまま使えるんです。クラシックはそれなりに教養がある貴族のもので、そうした貴族は、難しい音楽にもついていけるんです。だけど、それを一般市民に分かりやすく解説するという行為が、貴族にとっては非常に下衆な行為というか。レベルを下げた品格のない行為に見えてきちゃうんです。それはね、専門家の悪い“クセ”でもあるんですよね。
サッカー日韓ワールドカップで、当時イングランド代表だったデビッド・ベッカムが日本でブームになって。当時、「ベッカム様!」とか言っている人が腹立たしいと思った人っていっぱいいましたよね。にわかファンというか。僕もそうだったんですけどね。サッカー凄い好きだから。「何だよ、ブームに乗ったにわかファンかよ」とね。でも、あれが大事なんです。専門家はあれを認めなければいけないんです。
――それは政治の話も通じますね。当時総理大臣、小泉純一郎氏への人気が高まり、演説する度にその周りに多くのご年配の女性たちが。「純さま~」と黄色い声援を送っていました
国会答弁をみていてもそう感じることはありますね。質問内容は事前に答弁者に伝えられているのに。一種のショウといいますか。人々にどう納得のいく説明ができたかが重要ですからね。アメリカでは有権者もそのことをよく知っていて投票する訳ですから。
人に伝えてこその芸術
――音楽業界でもポピュラリズムへの評価はバラバラです
つまり、「音楽という要素の中にポピュラリズムを入れるかどうか」という議論をしなくてはいけないですね。僕は、ポピュラリズムを入れなければいけないと思っているんです。これはゲーテの「ファウスト」にも出てくるんですけど、「芸術家とは何ぞや」といった時に、人に伝えられてこそ芸術なんじゃないかと。
例えそれがセリフだとしても、自分の心から湧き出ていないセリフ、上辺だけのものであっても、それで人々が泣いたらその時点で芸術なのではないかということ。それともう一つは、ファンが1人もいなくて屋根裏部屋でネズミだけが聞いていて、心から出た掛け値なしの(本当に)美しい言葉を出せても、それが芸術なのではないかと、ということ。それが僕のなかのテーマにあるんです。
「音楽という要素の中にポピュラリズムを入れるかどうか」、これは主義が関わってくるんです。人類の音楽の歴史の中でも常に議論され、お互いに派閥をつくり、攻撃し合うという…。
分かりやすく言うと1800年代、(リヒャルト・)ワーグナーは「標題音楽」というのを作り、ブラームスは「絶対音楽」というのを作りました。「標題音楽」というのはテーマを持たせる。例えば「自然現象」とか「心の動き」とか「物語」など。音楽以外のテーマを持たせてそれに沿った音楽をつくる。これは今で言ったら映画音楽、つまり音楽を音だけではなくそれ以外の要素を加えて見せようというものです。
一方の「絶対音楽」というのは、「完全に音だけで成立させなければならない音楽」。もう二人はもの凄く攻撃し合って、2大派閥になって、今なお主義が分かれるところなんです。そして、この二人の前に立った1770年生まれのベートーベン。彼は「標題音楽」と「絶対音楽」をどちらも一人でやっているんです。
例えば、5番の交響曲「運命」。この題名はただの売り文句なだけで、そのテーマではないんですね。これは完全なる「絶対音楽」で、「ジャジャジャジャーン」というリズムと音程、これだけで音楽ができているんですね。そこから皆は何を受け取るか、という音楽なんです。絶対的な音だけで成立している。
だけど、次の6番の交響曲「田園」というのは、途中でティンパニーが雷の様な音を鳴らしたり、田園が色んな風景を持っていく様を音楽で現している。これはもう正に5番と6番の隣同士の曲で「絶対音楽」と「標題音楽」を使い分けた。これに当時のミュージシャンは非常に感化されたんですよ。
それで、ベートーヴェンが亡くなった翌年に、パリで「ベートーヴェンの交響曲を全曲味わおうじゃないか」というコンサートが開かれて、そこにワーグナーからベルリオーズから、これから上がってくる音楽家も全員一同に集結して聴きにきたんです。そこでそれぞれのものをベートーヴェンから持って帰ったんです。
ポピュラリティを得た表題音楽
ワーグナーはやはり「田園」なんかを聴いて「これからの音楽は標題を持ち、テーマを持ち、音以外の世界に繰り広げていかなければ!」と。で、ブラームスなんかはそこでベートーヴェンを聴いて「音楽は音以外に意味を持ってはならん!」という世界にどんどん向かっていく。いわゆる「標題音楽」というのはポピュラリティを得たんです。テーマ性を持っているのでフックになりやすく、人を囲いやすい。
でも、「絶対音楽」というのは何度も何度も聴いて、スルメみたいに噛みしめて、やっと解るような音楽。でも、そこにある音楽というのは、標題音楽にはない良さがあるんですよ。チャラい音楽にはない良さといいますか(笑)。その良さも伝えなくてはいけないんですよ。だからポピュラリティを入れてしまうと「絶対音楽」は成り立たないんです。
なので、よりマイノリティになろうとする性質があるんです。だから、ポピュラリティを入れていくかどうかというのは、本当にその人その人の考え、「主義」というのを聞かないと解らないですね。僕としては「ポピュラリティ」は必要だと思っています。やっぱり音楽たるもの、聴いてもらって評価されてなんぼだと思っているので。
だから、時代で活躍したヒットメイカーの音楽なんかは、確かに「薄っぺらい」という言い方もできなくはないんです。コード進行が似ている、とか。だけど言い方を変えれば、「人がどうしたら喜ぶか良く知っている音楽」なんですよ。それはそれで芸術の一つ、だと僕は思いたいです。

![清塚信也の世界観に触れる[1]](https://www.musicvoice.jp/wp-content/uploads/2015/11/photonews-151106-20-300x300.jpg)




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