[インタビュー] ピアニストで俳優の清塚信也が、11月4日にアルバム「あなたのためのサウンドトラック」をリリースした。主役であるピアノをあえて脇役にし、聴くものの人生を引き立てる裏方に徹したという作品には、現在放映中のTBSテレビ系ドラマ「コウノドリ」の劇中曲も収録されている。
清塚は、桐朋女子高等学校音楽科を首席で卒業するとモスクワ音楽院に留学、その後も国内外のコンクールで1位を獲得する成績を収めている。一般には、ドラマ『のだめカンタービレ』で千秋真一(玉木宏)、映画「神童」でワオ(松山ケンイチ)の吹き替え演奏を担当したことで知られる。「コウノドリ」でも鴻鳥サクラ(ベイビー)を演じる綾野剛にピアノ指導をしているなど今、注目を集めるピアニストだ。
今回はそんな彼に、本作への想いから、現在のクラシックについて話を聞いた。ポピュラリティについての見解や、綾野剛の俳優としての一面などについて多岐に語ってくれた。
クラシックの歴史
――ミュージックヴォイスはネット媒体ですが、クラシックとネットはなにか距離感があるようにも感じます。あえてピアニストの清塚さんに聞きます。ネット時代における情報や音楽の接し方はどのようにお考えでしょうか
いまの情報や音楽は、全く知らない人にどれだけ親しみを込めて送れるか、というのがポイントだと思っています。好きな人は放っといても見てくれるし、聴いてくれる。そうではなく、情報にすれ違う事が大事だと思いますね。全く脈のなかった人に、このピアノの良さを知ってもらえる、そういう点においては情報を発信するメディアの種類は、専門性がない媒体でも良いと思っているんです。むしろその方が時代の流れだと思います。
――その流れはご自身にとって良い事ですか
良いも悪いもあまり感じていないですね。でもクラシックに関しては逆行していますね。クラシックはもともと、マイノリティになろうとする傾向のある文化なので、日本というフィールドとしては、芸事(げいごと)は庶民派なものが多いんですよ。
でも、クラシックは西洋の貴族たちのものだったので、一般の人に伝えようなんて気はさらさらなかった。それを変えようとしたのがモーツァルトやベートーヴェンたちなんですけど、失敗しましたね。ほとんどの人は。ベートーヴェンは、たまたま時代が革命期だったので、貴族社会を崩そうといいますか、一般市民が権利を求めていた時代に乗って。モーツァルトはそれが原因で貴族から退けられて、最終的には栄養失調になるくらい、身分も低くて差別もされて、死後の遺体は共同墓地にポイっと投げられて。未だに遺体もわかってないし。反旗を翻した訳では無いんですけどね。
モーツァルトはオペラをドイツ語で書いた人なんです。これは凄い事で、音楽はイタリアがルーツだから、イタリア語のオペラがブランドなんです。どこの国の貴族もオペラ=イタリアと思うんですね。ベンツやBMWとか外車が好きだという社長さんがいるように、そういう時代だったんです。なのに、あえてドイツ語で書いたんです。一般の人にも歌の意味が分かってもらえるように。その土地その土地の語学で作らなくては、という思いで。
しかし、そういう事をやると、ブランド指向の強い人達は「ふざけんな!」となって。最終的にはフィールドを無くして全然売れなくなったようです。
――どの貴族から煙たがれたのでしょうか
オーストリアのザルツブルグですね。
――オペラや歌劇などの音楽文化はローマから発せられたのでしょうか
そうです。ルネサンス時代はほとんどローマの歴史ですからね。でも、そこにキリスト教が入ってくるんですよ。ローマはローマの宗教、ローマ神話があるじゃないですか。キリスト教は昔は過激で、被信者を敵視するところも当時はあって。
それとのせめぎ合いでもあったんですけど、でも(レオナルド・)ダ・ヴィンチがローマ神話の美術を描いたり。やっぱり芸術家はローマのものをまねたいという思いはありましたし、ルネサンスの言葉が再生・復活を意味していて。もう一度、古代ローマ時代のような素晴らしいものを再興しようという意味もありましたからね。
イタリアは特に、音楽の産みの親のような地域ですね。ワインでも「Opus One」というのがあって。あれは音楽用語で「作品番号」を意味しているんですよ。その「Opus」というのも「オペラ」からきているんです。語源ですね。つまり、音楽といえばオペラ。オペラといえばイタリア、というのが鉄則なんです。
予習が可能になったことで生まれた分業
――貴族のためのクラシックが、時代の変遷とともに民衆にも親しまれる音楽へとなっていきました。しかし、現在も教養が求められる高貴なものという印象が強くあります。実際はどうでしょうか
今の時代までクラシックという流れが続いているかどうかが危ぶまれます。というのは、現代は作曲家と演奏家というのが職業で分かれています。例えば、(セルゲイ・)ラフマニノフたちの時代まで、作曲家とピアニストは一人でやっていました。自分で創った曲を自分で演奏するというのがピアニストの仕事であり、作曲家の仕事だったんです。
しかし今は、録音技術の発達で、音を記録することができるようになった。レコードやCD、今ではダウンロードまで。いわゆる、「完成された音楽」というのを世界中の人が知ろうと思えば知る事ができるんです。「メロディーを、一つの演奏を、皆で共有できる」というのは、これまでなかった事なんです。そうすると、演奏を聴きに来るお客さんは予習してこられるわけですよ。
つまり、事前にメロディーを口ずさめる。こんなようなことはその昔はなかったことなんです。みんな初演で初めて聴くんです。しかもその人が作った曲だから、例え間違ったとしても「ああ、そういうもんかな」となります。正解は知らないですからね。だけど今は正解を知っているから一音でもミスしようものなら「ああミスした!」となるんです。
こうなると、ピアニストの練習項目に、音楽的な感動を伝えること以外に、“競技”として「ミスをしてはいけない」という新たな項目が加わる。それによって物凄い量の練習をしなければならなくなった。よってピアニストは作曲をしている時間がなくなってしまったんですよ。
作曲家は、いわば“一字一句”をミスしないエキスパートのピアニストが世に出てくると、そう簡単に追いつけない。そうなると、作曲家は「さほどピアノが上手くないピアニスト」とみられてしまう。そうやって、分かれた、いわゆる分業するようになった。
クラシックは今、新たな時代を迎えていて、作曲家は難しいことをやっているんです。正直ピアニストからしても、「これにどれ程の価値があるんだろうか」というようなモダンなものもたくさんあるんですけど、(フレデリック・)ショパンや(ヨハネス・)ブラームスたちのいわゆるロマン派、人の心に直接訴えかけてくるような音楽はクラシックとしては途絶え気味といいますか。
なので、むしろ映画音楽とかゲーム音楽などの方向にクラシックの流れを続いていったのかなと思いますね。純粋に作品を残すというよりかは、別の芸術と融合して居場所を見つけていった。
――より大衆に近いものとなったという見方もできますね
それが事実ならばそうですね。ただし、専門的な知識を勉強している作曲家の一部には、映画音楽をさほどリスペクトしていない人もいますね。
――それはなぜでしょうか
簡単な事をしているとか、軽い事をしているとか、いわゆる「人に媚びている」いるような、いわゆる「本当の価値を追求している音楽ではない」という価値観がいまだにどこかにあると思います。だから、クラシックのコンクールや作曲家のコンテストを見に行くと、何を言っているかさっぱりわからない。映画音楽みたいに、聴くだけでウルッとくるような音楽をやったところで相手にされない。なんか完全に玄人めのオフ会のようになっている。