こういう夢ならもう一度逢いたい――。女性目線で書いた曲は当時、若い世代から共感を呼び、ヒットした。Hysteric Blue(ヒスブル)が歌う「春〜spring〜」だ。そのヒスブルは人気絶頂期に活動を休止。休止期間中にメンバーの一人が起こした不祥事で解散した。その一人を除くボーカルのTamaとドラムの楠瀬タクヤは現在、Sabao(シャボン)というバンドを組んで活動中。先月には1stアルバム『MeRISE』も発売した。解散後は「元ヒスブル」というだけで仕事がキャンセルになったりと苦汁をなめてきた。しかし、一気に人気を集めた彼女達はこの期間を「良い下積み」と捉え前向きだ。乱高下の激しい音楽人生。2人に今の胸中を聞いた。(Sabaoの2つ目の「a」はチルダ付きが正式表記)【取材=村上順一/撮影=冨田味我】
デビューから解散までを振り返る
――20周年という節目を迎える心境は?
Tama Hysteric Blueから始まって、他でバンドを組んだり何百という曲をいつの間にか歌わせてもらっていたりして…。それを今でも聴きたい、ライブで見たいと言ってくれる人がいて、それは凄いことだと思うんです。私の甥っ子はデビューした時はまだ赤ちゃんだったんですけど、今年成人式を迎えました。その子が大人になって社会人になるまでの間、ずっと歌ってきたのかなと思うと感慨深いですし、ファンに言葉にできないほどの感謝の気持ちがあります。身に余る幸せを、この20年の間にいただいてきたんだなと思います。
楠瀬タクヤ 僕らはデビューした時は10代だったので、キャリアを重ねた割にはまだ30代という年齢で。でも、シーンを取り巻く状況は仲間を見ていてもこの20年で変わったと思いますし、音楽の仕事だけで生活ができているということにまずは感謝の気持ちがあります。20年続けてきて、下の世代が頑張っている姿を見られているというのもありがたいですし、誇りです。
――Hysteric Blueとしてデビューされ、すぐに「春〜spring〜」や「なぜ...」などのヒット曲が生まれましたが「売れた!」という実感があったのはどの時でしたか。
Tama 最寄りのコンビニに気軽に行けなくなった時です。行くと指をさされたりするんですよ。それで家がバレたくないからどうやって帰ろうかなと考えたり…(笑)。
楠瀬タクヤ その頃ってインタビューなどの取材が集中して多かったんですよ。
Tama 感覚的には、取材を受けていつの間にか音源が発売されていて。それで、その記事を見てくれた人が音源を手にしてくれて。外に出て声をかけられることによって、実は私たちのことを知ってくれている人がたくさんいるんだなということに気づく、という感じです。
――デビューから約5年で活動を休止されましたが、その理由の一つが、取材ばかりで音楽があまり出来なかったから?
Tama それが理由ではないんですけど…。確かにあまり音楽に集中できる環境ではなかったです。デビューして音楽漬けになるのかと思いきやそれ以外の仕事の方が多くて「あれ全然歌う時間ないやん」みたいな。何かと何かの間にレコーディングをするとか、朝まで撮影して次の日ライブとか「どっちが本職なんだろ」みたいな感じでした。デビュー当時は割とそれがストレスになっていました。自分が思っていたのと違うみたいな(笑)。
楠瀬タクヤ 僕と彼女(Tama)とでは立場が違うので比べるのは出来ないと思いますが、僕はいろんな仕事の最前線が見られるぞ、というミーハーなところもあって楽しくやっていました。Tamaちゃんが紅一点ということもあってプロモーションを一手に担っていたというのもありますし、ファッションの仕事とか音楽以外の仕事がすごく多かったのもあると思います。ありがたいことなんですけどね。
Tama 元々音楽が好きでそれが仕事になったんですけど、それ以外にもファッションやメイクも好きでそれも仕事になって、漫画が好きならそれも仕事になってというような感じで。でもそれを別に人に見せたいわけではなかったんです。休憩中に絵を書いていたらそこから絵を書いてくださいという仕事が来たりとか、全部が仕事になって…息抜きが出来なくなってしまったという感じでした。そういうのに慣れなくて…。
でも、活動休止の理由は、3人でできることはすべてやったかなと思えたからなんです。解散じゃなくて休止にしたのは、またどこかで「やりたいね」となるかもしれない、解散にしてしまったらそれが出来なくなるんじゃないかなと思いました。それぞれの道を歩む冷却期間があってもいいかなと。
――解散という選択肢もすでにあったんですね。休止はTamaさんから切り出して?
Tama そうですね。それに関してモメた記憶もないです。みんなどんどん好きなものや音楽が変わってきて、もっとこういうものをやりたいというものが出てきていて。
楠瀬タクヤ 元々僕らには何もなかったからだと思います。10代の時から培ってきている引き出しの数が少なかったのが原因かなと。当時は浅い音楽知識を右から左にスルーして出しているみたいな感覚もあったかもしれないです。必死に背伸びしているみたいな。
Tama 下積みがないというのがすごくコンプレックスで、結成して約1年でメジャーデビューしてしまったので、もっと下積みもしたかったというのが本音です。初めてのZeppツアーの時にもっと小さなライブハウスから、車で全国を回らせて欲しいと事務所に直談判しに行きましたから。私たちがいきなりあんな大きなところに立ってはいけないと思って。もっと地に足をつけて自信を持って立てるようになりたいという気持ちがあったんです。
楠瀬タクヤ 僕なんかは地に足がついていなくて、「イエーイ」みたいな感じになってましたから。それまではストリートライブで、通行人の2人ぐらいしか立ち止まってくれなかったのが、ライブハウスで満員になって、しかもちゃんとレスポンスがあるのは楽しくて。僕は舞い上がっていましたね。
Tama それがまた逆に羨ましくて。楽しそうにやってるなって(笑)。
――お二人にも温度差があったんですね。そこからメンバーの不祥事で解散という選択肢を選んだのも自然な流れではあったんですね。
Tama 無期限の活動休止の中で起こったことだったので、じゃあもうこれで解散しようと…。 事件が発覚してから数時間のうちに結論を出したのを覚えています。
――印象としては、すごい葛藤があったのかなと思ったのですが…。
楠瀬タクヤ 解散への葛藤はありませんでしたね。もう事件に関して救いようがなかったので。
Tama 私達は個人事務所だったから解散した瞬間に野放しみたいになってしまって。今まで出会った関係者の方の連絡先もマネージャーしか知らなかったし。解散してから3年間は仕事も全然なくて…。
楠瀬タクヤ 路頭に迷った感じはありました。元ヒスブルということだけで、決まっていた仕事もなくなったりもしましたから。10年ぐらい月日が経ってやっと元ヒスブルと名乗ってもいいような空気になった感じがありました。
――当時、お二人で続けるという選択肢もあったと思いますが…。
Tama その時はそこまで考えられていませんでした。もう終わらせるしかないみたいな。休止前から各々ソロプロジェクトが始まっていたということもあったので、流れとしては自然でした。
楠瀬タクヤ そういう意味では活動休止と決めた時の方が葛藤はあったかもしれないですね。活動休止と決めた後はそうでもなかったんですけど。