普段なかなか言えないことが一つある。ライブを観賞する際のことなのだが、実はアンコールというものが余り好きではない。華々しく幕を開けるステージ。途中バンドの様々なカラーを見せながら、エンディングに向けてラストスパートを掛けるアーティスト。ステージのピークは、まさにここにある。ここにあるはずなのだ。だから、ライブはここで終わればいいはずだ。

 観客がステージエンディングに叫ぶアンコールには、意味がある。素晴らしいステージを見せてくれたアーティストに対し、敬意を払う意味も込めてか、または真の意味でもっとステージを見たいと願うからなのか、そんな観客の思いが本気で募ったからこそ、アンコールはおこなわれるべきであり、お決まりごととしておこなわれるものではない。

 たまに会場の進行が悪いと、アーティストのライブ本編が終わると会場は暗転、客席の観客がアンコールの拍手や歓声を上げるまで、周囲は真っ暗になったまま、つまり会場側が観客に“アンコールをさせている”という風に見えてしまうことがある。

 こうなると目も当てられない。自分としてはエンディングまでいい流れでステージが終われたのに、“やらされた”アンコールの光景に唖然とする。実際にアンコールを叫んでいた観客は、果たしてぎこちなさを感じず、本当に心から再びの登場を望んでいたのだろうか?

 近年のライブステージはアンコールがないと収まりがつかない、そんな定型的なスタイルが出来上がっているようにも見える。またアンコールでこそ、何らかの告知を行うことに意味が見える、告知に大きな盛り上がりの効果をもたせたいがために、などと敢えて目的のために、アンコールを入れることを企てる、そんな「やらざるを得ない状況」を作り上げてしまっているような場面もある。が、ざっとそんな風に考えた“アンコールをやらざるを得ない”理由も、どれも工夫次第でなしにできるのではないかと思えるのだが…。

 そう考えるのは、不謹慎と思われるかもしれないが、2015年の7月に東京・台場でおこなわれたTHE ORAL CIGARETTESのライブが、“メチャクチャカッコいい”と思えたからである。当日は、ボーカリストの山中拓也の体調不良によりステージ序盤、曲途中で山中がステージから降壇してしまうというハプニングがあった。

 場内騒然の中、何度も見せた謝罪とともに、彼らは少しでも挽回しようと、懸命のステージを最後に披露した。アンコールなど当然なし、プレイできる時間の範囲の中で、決して万全の状況ではないながらプレイする彼らの姿は、目を見張るものがあった。

 皆はどう思ったかは分からないが、私は“ひょっとしたら、彼らには次は無いかも”という思いも。そう考えると、余計にそのときのステージからは目が離せなくなっていた。

 そのステージを見たからかと思うのだが、「今日はアンコールは無いぞ!」などと叫んだり、事前に配られるセットリストにアンコール曲がなく、そのときに急に曲を決めたりというライブを見ていると、非常に気分が良い。敢えて“アンコールなど絶対にしない!”と譲らないバンドが出てきても、それはそれで面白いのではないだろうか。

 決して勘違いして欲しくないのは「アンコールをやってはいけない」と言っているわけではないということ。ただアンコールは予定調和のものではない。心から再びのステージを願う声がステージ後に上がるのであれば、それは逆におこなうべきだろう。ただ、やっぱりプレイのピークは、アンコールの前にもって来るべきで、あくまでアンコールはおまけ。ダラダラと続くトークやプレイがアンコールで続くと、そのピークは薄まったものになるだろう。【桂 伸也】

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