土岐麻子が先日、新曲「STRIPE」のミュージックビデオを公開。同曲は、7月26日にリリースしたベストアルバム『HIGHLIGHT - The Very Best of Toki Asako -』に収録されている。1997年、バンド「Cymbals」のリードシンガーとしてデビュー。実父である土岐英史氏を共同プロデュースに迎えたジャズ・カバーアルバム『STANDARDS ~土岐麻子ジャズを歌う~』をリリースし、ソロ始動。CM音楽の歌唱や、数多くのアーティスト作品へのゲスト参加、ナレーション、TV、ラジオ番組のナビゲーターを務めるなど多岐にわたり活躍している。
『HIGHLIGHT - The Very Best of Toki Asako -』は、「シティポップの女王」とも称される彼女がダンスチューンを中心にセレクトした、爽快感あふれる作品。今年は彼女がCymbalsとして活動を始めてから20周年、ソロとしてメジャーデビューしてから10周年という記念すべき年。「ベストアルバム」という過去を振り返る作業に向き合いながらも、今年1月に自身のイメージを更新したアルバム『PINK』を発表し、制作モードだった彼女は新曲を2曲収録。土岐は「現在進行形のものを入れる事によって過去と現在だけでなく、未来形も予感させるのが私は好きです」と語る。その上で長い音楽活動の中で「自分が残して来たものに縛られたくない」と常に前向きな彼女に当時の音楽シーンと現在、若手ミュージシャンとの交流などについて話を聞いた。
踊る事は自分を解放すること
――今年初頭に『PINK』を出されて、あまり間を置かずにベスト盤を出されたのはどうしてでしょうか?
次のオリジナルアルバムを発表するまでの間、『PINK』で土岐麻子を知ってくれた方に向けての入門編になるようなベストアルバムをリリースしようという話になって、ダンサブルでフィジカルな楽曲を集めたアルバムにしようと考えました。
『PINK』がエレクトロなサウンドで「変わったね」と言われる事が多くて。私自身もアルバムだけを聴けばそう思うのですが、私の中では自然な変化です。その時にやりたい事をいつもアルバムでチャレンジするようにしていて。『Bittersweet』(2015)から『PINK』への変化みたいなものは、これまでも作品毎にあったのですけどね。自分の中ではそこまで変わった様な気持ちはなかったのですが、最近初めて土岐麻子を聴いて、「これまで先入観で聴いていなかったけど、意外と踊れる楽曲があって良い」という方もいましたね。私のエゴサーチによると(笑)。『PINK』からの流れで聴いてくださる方がいてくれたら嬉しいです。
――アルバムに寄せたコメントには「大人だしそうそううっかり踊れないけど…」ともありましたが。
そうですね。照れだとかはあると思います。もちろん、電車や会社にいる時に踊ったりはできないですし(笑)。そんなに自分のプライベートな時間を持てない方もいると思います。今は忙しい人が多いですから。なので、通勤・通学で音楽を聴くのが、自分の大切な時間だという人も結構いるはずです。実際に私も学生時代はそうでした。移動中の2、3分というと凄く短い時間ですけど、充実させようと思えば音楽で充実させることができます。音楽は常に携帯してどこでも聴けますし。そういうところで聴ける作品を目指しました。
もちろん、大きな会場の中大音量でかけて踊れる様なセレクトでもありつつ、イヤフォンでも聴けるというものです。「踊る」というのは解放する事だと思っていて。なので、気持ちを解放できる様な内容になっています。実は、私も照れがあって踊れないタイプです。
――誰もいない自分の部屋でも?
ないですね(笑)。心の中で踊ります。フィジカルに楽しむ人もいるし、心の中で自分を解放しながら聴く人もいて、色々な楽しみ方がありますよね。聴いてくださる方々にも自由に楽しんで頂ければと思っています。
――ベスト盤でありながら、新曲も2曲収録されています。
『PINK』は1年くらいかけて制作していたのですが、終わってからもそのリズムが抜けきらなかった。私もずっと思いついた歌詞をストックしていたり、制作のモードが止まらなくて。サウンド・プロデューサーのトオミヨウさんも次にやりたい事やモチーフを常に探してしまっていたそうで、「もう1枚作りたいですね」なんて話していました。そこでベストアルバムのお話しが出たので、新録曲でトオミさんとご一緒するのが自然かなと。
ベストアルバムでも新録曲を入れたいなと常々思いますね。大体、過去の楽曲を集めた物がベストアルバムなのですが、現在進行形の物を入れる事によって過去と現在だけでなく、未来形も予感させるのが私は好きです。
――「Gift ~あなたはマドンナ~」(2011年)は代表曲ですね。
これは耳馴染みが良いというか、1番「聴いた事がある」と言ってくれる人が多い楽曲なのです。2010年に資生堂の化粧品のCMソングになった曲、というかCMソングからできた曲です。CMソングのお仕事で歌った曲が個人的に気に入ったので、「私の曲としてリリースできないでしょうか?」と交渉して。作詞・作曲はEPOさんによるものです。
EPOさんは、いわゆる80年代のシティポップの中心人物の1人だと思います。彼女が80年代当時、資生堂のCMソングをよく作っていて。2010年になって、資生堂から「古き良き雰囲気をリバイバルしよう」という事でEPOさんに依頼が来て、そこに私が呼ばれて歌いました。EPOさんに憧れてシンガーになった私が、そこに呼んで貰えたことが嬉しかったし、縁を感じたので自分の曲として歌わせて頂きました。
「私のルーツの中にシティポップがある」という事をどういう形で自分の活動の中で表現していくのが良いのか、と思っている時にこの曲に出会って。そのことによって、その後の自由度が凄く広がりました。それまでポップな表現だったり、アレンジに対する遠慮みたいなものがありました。でも、この楽曲を歌った事によって「大丈夫なんだ」という風に思えました。
それからはマニアックなサウンドもやりつつ、開けたポップを探る様になったので、この楽曲は私の転換期となった曲のひとつですね。ポップなのですが、メロディなどを紐解いていくと、結構不思議な感じだったりして「さすがEPOさんだな」と思います。
90年代は現場がSNSだった
――土岐さんのインスタグラムの投稿で、タワーレコード新宿店で撮られたものがありました。よくいらっしゃるのですか?
シンバルズも含めてデビューして20年くらいなのですが、当時は“お店まわり”を大事にしていて、スタッフの方々に連れていって貰っていました。自主的にいく事もありましたね。最近では中々行けなくなってきましたが、今回は久々に挨拶に伺いました。新宿のタワーレコードは学生時代の私にとってはホームというか、1番通学の時に使うお店だったので思い出深いです。
――土岐さんが学生の頃は渋谷系全盛だったと思いますが、今その渋谷系が再注目されています。
当時を知らなかった世代の人たちにとって、新鮮になってきたという事ですよね。その受け取られ方がこちらとしても逆に新鮮であったり。「Cymbalsよかったです」という人が他にどのようなものを聴いているのかなと思って、SNSでチェックしたりもします。最近は握手会もするので、そこで中高生くらいの女の子が「Cymbals好きです」、「渋谷系が好きです」と言ってくれたりして、不思議な感じです。
でも、自分も生まれる前の曲に憧れて、カバーするという事も若い時にありましたから。60年代のロック、ジャズ、ポップスなど。そういう音楽が好きで、コスプレじゃないですけど、当時のミュージシャンみたいな洋服を古着屋で探して、髪型も真似て、そういう曲を歌っていました。だから時代はまわっていくものだと思うのですが、そういうものの1つに自分もなっているのだなと思うと、感慨深いですね。普段はひと回り下の人や学生の人と話すような事って頻繁にはないですし。あと、そういう人たちは“2017年の土岐麻子”から知ってくれているので、そういう点もまた嬉しいですね。
――土岐さんが、学生のときはどの様に音楽を探していましたか?
やっぱり“街の感覚”というものは知ろうとしていました。例えば、新宿は目的がはっきりしていて。ビルの中にタワーレコードがあって、そこにインディーズコーナーがありました。Cymbalsもそこに置かれていましたね。そこの担当の方がセレクトしているものは、アーティストやその作品への思い入れがストレートに伝わってくるので、「どういうコメントを書いているかな?」と置かれている作品などを、嗅覚でチェックするのが好きでした(笑)。
それから「渋谷系」は本当に渋谷だったと思う。渋谷にはZEST(レコード屋)があったり、アナログのレコードが沢山ありました。当時アナログを自分で買い始めたばかりだったので、隣の人がどういう物を探しているのかを見たり…。あとは実際にばったり会うという訳じゃないですが、渋谷を拠点としている仲間や先輩と「今どんなものを聴いている」、「あのアーティストが来日する」みたいに情報交換をしていました。辿っていくと、その来日するアーティストが自分の仲間内の誰かと友達だったりして、ライブを観に行って、そこでまた誰かと友達になったり、という現場感覚です。当時はSNSも無かったから、その現場感が大事だったのではと思います。
今だったら行かずに、SNSで済んでいたかもしれないですけどね。映像で見る、Apple Musicなどで聴いたりもできますし。でも現場に行って、誰々が回して(DJをして)、その場にいないと聴けない音楽が沢山あって。だから音楽との出会いも「今の曲なんですか?」と質問しなければいけない(笑)。それを暗がりの中でメモしていました。
――そういった女性は他にもいたのですか?
沢山いましたよ。女性のDJの人も今ほどではないですけどいましたし、結構レコードに詳しい友達もいましたね。ルックスもカヒミ・カリィさん(女性歌手)みたいな感じで、お洒落で格好良くて。私はもう全然そんな感じではなかったです。端っこでそういうのを見て、吸収したいなと思っている感じでした。それが大学生の時ですね。
あと渋谷では、HMVが私は好きでした。HMVがセンター街の中にあって、1階の入ってすぐの所に…今思うと、渋谷系のラインアップがプッシュされていました。例えばFantastic Plastic Machine(DJ、プロデューサーの田中知之によるソロプロジェクト)の田中さんが1番最初にアルバムを出した時は、ワンフロア全部田中さん。もの凄くプッシュされて、常に映像と音楽が流れている感じ。そこで彼を知るという様な流れでした。90年代だと小室哲哉さんの音楽がやっぱり売れていましたし、大手はそういう「売れ線」をプッシュする所が多かったですが、HMVは店の作り的に1階にそういうコーナーがあったのでよく行っていました。CymbalsがインディーズでCDを出した時も「センター街で聴かれたい」、「渋谷のHMVでかけてほしい」という気持ちで作っていました。
――では現在、SNS全盛の環境についてはどう思われますか?
人間は楽な方へと流れていきますからね(笑)。でも当時は色々な人と出会う事によって色々な音楽を知る事ができましたけど、何年も後に「こんなものもあったのか」と知る事もあったりしましたから。今はそういう情報の取りこぼしが少ないというか、自分が興味があって探せば海外の手に入りにくい物でも聴けたり、CDリリースがない人の音も聴けたりするじゃないですか。もちろん現場に行かないとわからない事もあるとは思いますが、良いんじゃないかなと。
過去にも年齢にも縛られない
――今年はCymbals結成から20周年、ソロデビューからは10周年です。当時と今を比べてご自身の音楽は?
一貫して変わっていない点は自分の「声の在り方」というところだと思います。私は声をサウンドを構成する一音として捉えていて、良い意味でサウンドに溶け込んで、楽器の様に歌いたいと思っています。サウンドの1つとして映える様なというか。そういうところは、歌を始めた時からずっと変わっていません。今回改めてベストアルバムを振り返ってみても自分のボーカルの特徴はそういうところだと感じました。
元々歌ではなくて、ギターをやっていましたし。当時、自分がやっていたバンドで録音したりする時に、歌とバンドサウンドが分離してしまうことが凄く嫌だなと思っていました。私が歌っていた訳じゃないのですが。両方聴けたら良いし、エンジニアリング的な話にもなってしまうのですが、学生だとボーカルも楽器を聴いていなかったり、カラオケ感覚な人も結構いました。そこに不満があったのですよね(笑)。
あとは原体験として、父親(サキソフォン奏者の土岐英史)の楽器の音が好きでした。そういうところにも影響を受けていると思います。なので、子どもの時は楽曲の歌詞はあまり聴いていなかったです。音色として声を聴いていて、自分の声も「好きな音色が出ると良いな」という意識で常々練習していました。
――逆に昔と変わったところは?
作詞ですね。詞の書き方がどんどん変わってきています。デビューして間もない頃はやっぱり作品と自分の距離が凄くあって、「これは別に私の事じゃないんだけど」という変な照れがあったりしました。フィクションや、言葉遊びに徹していて距離があった。でも段々自分の中にある物を掘り出して書いていく、という様な作業になっていきました。最近の作品は言葉がより自分に近くなってきて、リアルな物になっている印象です。
音楽はファンタジーだと思うのですが、その中でも「聴いてる人に主役になって貰いたい」という気持ちがあります。だから、どこかにリアルな部分がないと感情移入できないと思う。私自身も音楽にはそういう立ち位置でいてほしい。忙しくて自分の事を考えられない時でも、聴いている時は自分が主役になれる様な気持ちにさせてくれる音楽が好きなので。そういう事を意識しながら最近は書く様になりましたね。
でも、自己表現としてのツールとしてではないです。「友達の事を歌詞に書こう」と思う事もあるのですが、そういう風に書いても自分の実感が伴っていないと言葉としては上滑っていく。たまたま駅で見た人の事を妄想して書いても、最終的には自分の感情や体験に触れる事になる。そうじゃないと言葉として着地しない。
自分を掘り下げて書く事は、結局自分が丸出しになるという事じゃないですか。そういうものを避けるためにも極力内省的にならずに、言葉遊びをパズルの様にしていたのかなと思いますね。それは今見ても面白いと感じる事はあるのですが、「ぐっとくるか?」と言われれば「どうかなあ…」と。今はそういう照れがなくて、書きたい放題です(笑)。
――「年を重ねる」という事に関して、今土岐さんはどうお考えですか?
肉体的な老化という事と、内面の深化というのは本当に良い感じに反比例していくのだなと。もし肉体が全く老化しないとしたら、年を重ねた人に勝てる訳ないですよね。だから良く出来ているなと思ったりします。歌詞を書いていても「若い頃はこういう歌詞を書けなかったな」と感じますし、それは今だから出来る表現ですよね。それはギフトだなと思っています。
でも、年をとっていく事で生き辛くなってきたりする部分もありますよ。例えば、活動年数ばかりが増えて、10周年とか20周年になると大御所みたいな雰囲気になるじゃないですか。今、私は中堅くらいですけど。そうなると、棚の上に置いておかれてしまう感覚になります。年下のミュージシャンと接すると、時々それを感じたりする事があって。デビューした頃はあんなに色々な人に批判されたりしたけど、今はエゴサーチしたって全然批判の声もない。というのも、やってきた年月で信頼されているというのもありますが、別格みたいな感じで放っておかれている様な気も若干したりして(笑)。
だから自分の年齢はよくわからないなと思う。20代の時に『PINK』なんてアルバムを40代で出しているとは思わなかったですし。これから50歳、60歳、70歳となっていって、どういう形で音楽活動を続けているかはわからないですが、あまり年齢を意識しないで発言をしたり、発信しようかなと。社会人としては40代らしく振る舞うべきだとは思うのですが、でも音楽に関しては「大人っぽい事をやろう」というように自分を決め込まずに表現していこうと思っています。
10年、20年こうして活動してきて、“土岐麻子ブランド”みたいな物が出来てるっぽいですが、自分のやりたい事をやっていけばいいだけかなと。自分が残して来たものに縛られたくないですね。
――では、今が一番充実しているという事でしょうか?
そうですね。そういう生き方をしたいです。そのためにも、過去に縛られず、年齢にも縛られずという事が一番大事なんじゃないですか。
『PINK』の流れが自分の中で終わってなくて、トオミさんと組んで作っていきたいなという気持ちがあります。お互い常に更新していきたいと思っていて、共有している音楽のプレイリストをチェックするといつも新しい曲が入っていて。それは新譜だったり、10年前の曲だったり、色々あるのですが、トオミさんのモードというものが明確に変化しているのがわかります。なので、変わる事に恐れがないというか、むしろ積極的なほうなので私と合っている感じです。引き続き、彼と自分がワクワクする作品作りをしていきたいです。
――ライブはいかがですか?
ライブはいつも色々な事を試しています。ライブで実験して、それが音源制作にフィードバックされる事もありますし、その逆もありますね。ライブは必要な事なので続けていきたいです。最近はこれまで関わった事のない下の世代の方と演奏するという事もあります。同じ曲でも音源の再現ではなく、彼らなりの提案をくれる。その解釈に触発される事もありますね。
例えば、リズムの解釈ですね。今一緒にやっているメンバーにSANABAGUN.というバンドのギター(隅垣元佐)と、ドラム(澤村一平)がいて、2人ともジャズもヒップホップも好きで。ヒップホップ的なアプローチが私の曲の中で見られたりすると面白いです。ギターソロも、ポップス世代の私たちからするとギターソロのピークを決めて、そこに向かって上げていって落として、みたいな黄金律があったりします。でも、彼らは、ばーっと盛り上げを作らずに、ジャズギタリストみたいに32小節テンションを変えない方法を採ったり、ポップスの中でそういう表現をするのが凄く新鮮ですね。
――最後に読者にメッセージをお願いします。
『PINK』を気に入ってくださった方は必ず刺さるアルバムだと思いますし、長年土岐麻子のサウンドを聴いている方もダンサブルな物をセレクトして聴いてみると、新鮮な感じがすると思います。老若男女楽しめる作品なので是非聴いてください。
【取材=小池直也/撮影=冨田味我】
作品情報2017年7月26日リリース TOKI ASAKO LIVE TOUR 2017 “PIT IN PINK!” 開催!! |