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森山直太朗のドキュメンタリー映画『素晴らしい世界は何処に』が、3月28日より2週間限定で全国で上映。本作は2024年11月にリリースされたライブBlu-ray、DVD「森山直太朗 20th アニバーサリーツアー『素晴らしい世界』in 両国国技館」を再編集し、新規映像や新規楽曲を加えて製作されたドキュメンタリー。
20thアニバーサリーツアー、計107本の公演をおよそ2年かけ各地を回るなか、父親の死に直面。幼少期に体験した両親の離婚、家族への愛、閉ざされた思いを胸に国内最後となる両国国技館公演を中心に両国国技館のライブ映像を軸に、死と再生の物語が描かれる。
インタビューでは、両国国技館のステージに立ち感じたこと、亡くなった父親とのエピソード、その父親が憑依したような感覚で書いたという映画主題歌『新世界』の制作背景に迫った。(取材・撮影=村上順一)
日常が緊張、舞台で解放
――森山さんが、素晴らしい世界を追い求めていく中で、「答えがない。正しさに際限がない。ただ、たった今の正解、たった今の正しさに気づいた。その瞬間を僕は素晴らしい世界と名付けます」とお話しされていていたのが、とても印象に残りました。
たった今を感じるというのが、とても難しいのですが、お風呂に入ったり美味しいものを食べた時はどこか満たされますが、それでも過去のことを悔やんだり、未来のことに怯えたりするのが人間の習性です。僕はこれを取っ払える時間、いわゆる夢中になれる、黙々と没頭できる時間をどれだけ日常の中で工夫して作れるか、ということが大切だと思っています。たった今を感じることは、この社会で生きていく上で、とても難しいことだからこそです。
――合計107本ライブツアーを行なっている最中は、体調面など不安もあったと思いますが、それこそ森山さんも夢中だったのではないかと予想できます。
やっぱり人間だから飽きも来るし、欲も出てきます。ただ、邪念を捨てて舞台に立つので、その舞台にいる2時間半、3時間は無我夢中でした。それでも歌詞を間違えたらどうしよう、MCでスベったらどうしようって、考えなくてもいいことを考えてしまう。そんな自分はいるけど、舞台を作っている時は、限りなく過去と未来にとらわれず、生きていることさえ忘れられる感覚がありました。
――それはすごい境地ですね。
1年に100本もやるとライブが日常化していくので、玄関のドア開けたらその向こうには舞台があるといったような世界でした。日常の暮らしがそのまま舞台に直結するようなツアーだったので、そういう意味では日常がとても緊張していて、舞台の方が逆に解放されるような感じもありました。
――感覚が逆転してしまう。
魂が喜んでいる、魂って言うとちょっと眉唾だけど、それがとても大事な状態で、自分が本当にここにいて心地いいのか、夢中になれているのか? というバロメーターに舞台がなっていました。
――両国国技館を選んだ意図はどのようなものだったのでしょうか。
国技館でやりたいなんて、本当は言っちゃダメなんです。そんなこと言うもんじゃないって思うのですが、それを我慢できなかった。僕はツアーで100本やってみたいとか、国技館でライブをやってみたいとか、そんな言葉が考えて出てくるようなタイプではないけど、その時はなぜか説明ができない状態でした。
自分もなんでこんなことを言ってしまったのかわからないけど、これの答え合わせをしたいなと。それにスタッフのみんなは信じてついていくしか選択肢はないから、もちろんよっぽど違うと思ったら都度都度話し合うと思うけど、自分の中にその景色がただ出てきてしまった。今の自分にはできるわけないじゃないかとどこかで思いつつも、とにかくトライしてみたい。トライすることで、自分がその力を出せるよう準備することが大事なんだと思いました。
――実際、国技館の舞台に立って分かったことはありましたか。
なぜここでやりたかったのかという答えみたいなものは、自分が見たい景色やイメージしていたもの、そして自分が表現したい360度囲まれた四角型ステージでしかできない舞台演出が表現できた時に、「あ、僕はこれがやりたかったのか。これは国技館じゃなければ絶対できない」と思いました。一夜限りのステージだったのですが、これを2回やれと言われても絶対できない。一夜限りの両国国技館というところもとても意味があったと思っています。そうじゃないと自分の舞台作りのポテンシャルを引き出せなかったし、とても潜在的な感覚を引き出された舞台でした。
――森山さんの歌っている表情や仕草、所作から特別なものをドキュメンタリーから感じました。
ライブ空間にしかない良さというのもあったと思うのですが、映像だからこそ垣間見れるリアルな情景、映像じゃなければわからない、たとえば自分はこんな顔で歌っていたのか、そういった気づきもありました。肉眼で見られないところもたくさんあったので、それはおそらくスタッフの人たちにもあったんじゃないかと思います。
――森山さんを知り尽くしている番場さんだからこそ、撮れた映像だと思いました。
僕の活動や創作を直感的に理解してくれている番場監督にしか作れない映像作品です。普通の記録映像だったら、ある程度の人でも撮れると思うけど、ツアーだけではなく、自分のプライベートや家族の話などここまで細部にふれることはもちろんのこと、海外でやったライブにも同行してくれましたし、ツアー『素晴らしい世界』が始まる前の苦悩、葛藤みたいなものも全部知っている番場監督じゃなければ撮れなかったと思っています。僕が題材になっているけれど、これは番場監督の作品であり、彼が見た『素晴らしい世界』なのだと思います。
父はこの作品が上映されることをどこかで予言していた
――お父様がツアー中に亡くなられて、『新世界』という曲が誕生しました。映画のエンディングを締めくくる曲としても感慨深かったです。歌詞がお父様の気持ちで書かれていることにとても驚きました。
僕の知らないこともあったと思うのですが、父がどういう風に生きてきたか、というのは僕なりに理解できているつもりです。『新世界』は父が亡くなる2カ月前くらいに作った曲なのですが、それまで色々あった分、心のどこかで、僕も楽になる思いとともに、親父が亡くなることで、今までの関係をもう自分が引きずらなくていいんだと思いました。ただ、同時に幼い頃の自分が無性に寂しがっているといった感覚になりました。
――今の自分ではなくて。
今の自分といえば自分なんだけど、それも含めて幼い頃の自分が、どこにも行ってほしくなかった父親が、母親と別れたことで離れて暮すことになった当時の寂しかった感覚が蘇ってきて。と同時に死は父自身が肉体の苦しみや精神の苦悩から解放されていくことでもあるから、これは祝福、感謝だなと思いました。『新世界』は自我がなくなった時に、父が自分に乗り移ったのか、自分が父に入って書いたものなのか、どこか父と1つになった状態で書かされた感覚がすごくあります。
――そういう状態で曲を書いたのは珍しいですか?
『夏の終わり』はそういう感覚に近かったけど、自我からある意味解放されたような感覚は初めてでした。
――このドキュメント映画の中で、お母さまの森山良子さんがお父さまに声をかけている音声のみのシーンがありましたが、よく録音してありましたね。
あれは偶然なんです。父が死に際に名言を連発していて。ある意味悟りが開かれているような状態なので、自分がこれまで如何につっぱって生きてきたかを思い知ったとか、今そのつっかえ棒を自分で見つけて、それを外した状態でようやく死んだ自分の母親に会いに行けるとか、いろんな話をしていたので、僕は父が言うことを一言も逃したくないという気持ちで録音していた1つに、良子さんとの再会の場面が、たまたまワンシーンとして収められていたというだけなんです。
――そうだったんですね。
父が死に際に泣くんです。父は幼少期の頃にお母さんを亡くしていて、その寂しさをずっと抱えながら生きてきた人でした。今まで父の涙なんてほとんど見たことなかった。でも自分自身を洗い流して、真っ白な世界に旅立っていく父を見たら、これはもう祝福だと思いました。
父は物理的にはこの世にいませんが、こうして父のことを話しているということは、父はここにいるんですよね。僕の中では、生前よりも亡くなってからの方が近くに感じていて、この映画も父が作らせたんじゃないかという気もしています。
――他にも森山さんの心に響いた、お父様の名言や格言はありましたか。
亡くなる3日前に、俺の人生はこうだったみたいなことを話している中で、「でも、まだ最後にクライマックスがある。映画のラストシーンみたいなのがあるんだ」と言って亡くなったのですが、当時の僕はその意味がわからなかった。でも、それがこの作品だったんだとわかりました。父はこの作品が上映されることをどこかで予言していたんじゃないかな。
考え続ける行為が生きること
――本作を拝見して、目的を持って生きることの素晴らしさを感じました。森山さんは生きるということに、いまどのような考えがありますか。
僕も昨日それを考えていたのですが、答えがないんです。人間は思考する生き物で、考えないと生きていけないと思っていて、考え続ける行為が生きることなんだと思いました。
――思考すること自体が生きることだと。
とある場所に行った時、浮浪者を見かけて思ったことがあります。その人は食べもの、寝るところを探して、雨風をしのげれば、おそらく生きていること自体は成立すると思います。ただ、これって本当に生きているのか、現在進行形なのか? という疑問がありました。結果的に生きているけど、どこか魂が死んでしまっているようであれば、死にながら生きている、ということになってしまうのかなとか思ったり。
――なるほど。
3大欲求に従って命を全うする人間には、思考と感性があって、さらに社会もある。それが実はすごく厄介なところで、文明や様々なものが発展して来たのにもかかわらず、ここではないどこかにみんな何か思いを馳せながら、歩みを強制して進めている。それぞれの立場で考えたり、また組織や家族、コミュニティ、チームで一緒に生きていくって何だろう? といったテーマがありますが、個人としてはそれらをずっと想像し続けること、生きるというのはその上に成り立つものなんじゃないかなと思っています。
僕はたまたま音楽、創作みたいなことをやっているから、みんなとそういうことを話したりもしますが、やっぱり答えがない。ただ、僕らは何かを感じることはできるから、考え続け様々な出来事が起こっていく中で、こういうことなのかもしれない、と気づくことがあると思います。「人間は考える葦」という有名な言葉がありますが、生きるってとにかく過酷なんです。
(おわり)
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