鈴木慶一「錯乱や妄想が少しでも伝われば」音楽家としての矜持
INTERVIEW

鈴木慶一

「錯乱や妄想が少しでも伝われば」音楽家としての矜持


記者:平吉賢治

撮影:

掲載:21年01月27日

読了時間:約7分

 鈴木慶一が27日、不朽の名作ゲーム『MOTHER』のサウンドトラック『MOTHER MUSIC REVISITED』を新録音リリース。本作は鈴木が手がけたゲーム『MOTHER』の音楽をセルフカバーした作品で、<CD2枚組DELUXE盤>、<CD通常盤>、<LP2枚組>の3形態でのリリースとなった。ムーンライダーズの活動や楽曲提供、映画音楽、CM音楽など、多方面にわたる音楽家生活50周年となる鈴木に、今作の話題、50年という期間での音楽家生活についての想い、長い期間音楽活動を続ける秘訣、そして音楽家としての矜持など、多岐にわたり話を聞いた。【取材=平吉賢治】

50年間の道のりとターニングポイント、そして様々な出会い

『MOTHER MUSIC REVISITED』

――音楽家生活50周年を迎えた現在の率直な心境はいかがでしょうか。

 始めた時は、まさか50年なんて考えもしませんでした。そりゃ普通そうですよね。18歳から19歳になる時期ですから。お客さんの前で演奏したい。場所はないだろうか。スタジオに行ってみたい。録音したい。アルバムを出したい。ただそれだけで始まったのです。そして50年経った今、したい、みたい、は何ら変わってないということに気付きました。

――50年というキャリアで様々なご経験とあらゆる種類の活動がある中、ご自身にとってターニングポイントとなったことを挙げるとしたら何でしょうか。

 ターニング・ポイントはたくさんあります。まずは1970年に高校の三学期を迎えて、受験もしないと決めて、家にこもってひとりで曲を作ったり録音したりしてました。そんな3月、あがた森魚さんが家を訪ねてきたのです。そして一気に外の空気を知りました。スタジオに見学に行ったり、細野晴臣さんの家に行ったり、ロック喫茶に行ったり。そして音楽を始めました。

 1980年にニュー・ウェーヴのバンドとなったこと。少しずつでなく、その数年前にこれまた一気に変わりました。まず髪型とファッションが。

 1990年に、長い間休んでたムーンライダーズをやろうと思ったこと。これは1989年に「MOTHER」というアルバムを作ったのが大きいと思います。ゲーム音楽をポップ・ミュージック化する、ヴォーカルありで英語でイギリス人に歌ってもらう。ある程度のバック・トラックと歌は全部、イギリスで録りました。そして私は作曲、アレンジ、プロデューサーで、英国式洗礼を受けたのでした。すべての判断はプロデューサーがするということ。判断をすぐにせよということ。その後に非常に役立ちました。

 2011年にムーンライダーズ活動休止したこと。これによってムーンライダーズのことを考えないでいいようになりました。常にどこか、頭の片隅あたりにこのバンドのことがありました。休止によって新しいことが始められたのです。Controversial SparkというバンドやNo Lie-Senseというユニットや継続はしてましたがTHE BEATNIKSなどです。

――様々な方々との出会いで、ご自身のスタンスに影響を受けるほど印象的だった出会いは?

 細野晴臣さんがプロデュースした、あがた森魚「日本少年」は演奏しながらプロデュース法を学びました。早く細野さん眠くなって寝ないかなあ、なんて思ってました。寝たら、私がプロデュースすると決めてましたし、細野さんもところどころ任せてくれたような気がします。

 アンディ・パートリッジとの出会いは、衝撃的でした。XTC好きだったし、ロンドンのリハーサルスタジオに一人でギター片手にぶらっとやってきて。そうか、ミュージシャンは一人で行動するんだなと思ったのです。ローディとかはいなくて。そして録音を重ねるうちに、私とのキャラクターの類似性を深く感じました。あのとき、もっと英語が出来てたらいいジョークを言えたのになあと悔やみます。

――50年の間で、スランプや挫折を感じた時期などもおありだったのでしょうか。

 挫折は自分らのことが、音楽雑誌などに全然出ていなくて、こりゃどうしたもんかと怒ってましたが、後で気付くのですが、それは活動休止して何もやってないから当たり前ってことでした。スランプは1986年から89年くらいまでだと思います。ソロアルバムを作ろうとして出来なかった。で「MOTHER」で一気に脱出したのでした。

 ハルメンズ、ゲルニカにいた上野耕路くんが、スランプになったら自分の作った作品を聴くといいですよと教えてくれました。そして聴いてみると、まあ、そこそこ気の利いたモノを作ってきたなと思ったのでした。不満足もたくさんあって、さあ、また作らなきゃと思えました。上野くんありがとう。

――50年という長い期間、そしてこれからも音楽家として走り続ける秘訣は?

 ジャン・コクトーの言葉で「美よりも早く走る」と言う言葉があります。作ったモノはほっといて次を作る、自分の作ったモノを美しいと考えてる暇は無いと言う意味ととらえています。

――鈴木さんにとって、音楽を創るモチベーションになることとは?

 フィジカルとメタフィジカルです。脳を使って曲を作り、ライヴで体を動かし、さらにはサッカーをする。この両輪によってバランスを保つのです。しかもどちらも似たところがある。バンドをやってると特に。一人では何も出来ない。スタッフやガールフレンドやミュージシャン仲間やチームメイトがいてこそ、面白く転がれるのです。

――アイディアや着想の源流、鈴木さんが作品を創るうえで“ゼロ”から“イチ”になる瞬間はどういった時なのでしょうか。

 まずは楽器を弾くことです。主に鍵盤で曲を作りますが、すべてインプロヴィゼーションから始まります。若いときはそんなことはなかったですが。青写真を考えながらやってました。あと、パッと出た音色によって触発されます。偶然ですが。ギターはたまにしか弾かない。弾き出すと止まらなくなる。我慢して弾かないのも意識的です。で、久しぶりに弾くと、何か生まれます。

どんな状況でも音楽をやるという覚悟

――2020年11月28日にビルボードライブ東京でおこなわれた『鈴木慶一 ミュージシャン生活50周年ライヴ』の感触はいかがでしたか。

 このライヴでは、オリジナルアレンジと新アレンジが混ざってます。あえてそうしたのですが、それが面白かった。89年のと今年の自分のと、さらにもう一つ、ヴォーカリストがたくさん集まってくれたことにより、また違う作品になりそうです。3ウェイになったと言うことです。

――この度、ご自身プロデュースによりセルフカヴァーされた『MOTHER MUSIC REVISITED』をリリースすることになった経緯についてお伺いします。

 ずっと気になってました。いつか自分で歌ったモノを作りたいなと。21世紀に入ってから、晩年には作ってみたいと思ってました。そのタイミングが50周年ということです。

――本作をご制作された中で、特にこだわった点やコンセプトとなるような想いは何でしょうか。

 最初はすごくプレッシャーがあり、あれだけやりたいなあと思ってたのが苦痛に変わりました。それはMOTHERマニアがたくさんいて、その人たちのことを考えてたんだと思います。それをやめて、自分のやりたいようにやろうと思った瞬間、気楽になり録音はどんどん進んで行きました。ゴンドウトモヒコくんの助けも大きかったです。こだわりはオリジナルとどれだけ離れるか、もしくは近づくかでした。

――鈴木さんが近年、特に注目している音楽は何でしょうか。

 私は基本的には洋楽の知識しかありません。過去の再発、知らなかったモノはまだたくさんありますから、それにも耳をやり、新譜にも耳をやり、です。特に注目してるのは2000年代はスフィアン・スティーヴンスとフレイミング・リップスでしたが、2010年代はヴェイパーな感じ、編集や引用やノイズなどで出来てる音楽です。例えばPEOPLE LIKE USとか。コラージュ・アーティストですね。

――音楽以外のことで、鈴木さんの“インプット”となることは何でしょうか。

 行きつけのバーでの雑談と、サッカーの考え方です。ガールフレンドとの会話も重要です。

――鈴木さんにとって、「音楽を創る」ということはどういう行為でしょうか。

 音楽を作ると言うことは、極めて楽しいことです。例えば依頼された作曲でダメ出しがあったとしても、一回悪態をMacのモニターに向かってつき、それで終わりです。辛かったり腹が立つことも楽しいことに変わります。

――コロナ禍という特殊な状況下、音楽界はこれからどのように変化していくと思われますか

 これからの変化はわかりません。何しろ未知の部分が多いウイルスですから。ただ、どんな状況でも音楽をやるという覚悟をしてればいいのでは、と思います。変化は望むところですが、よく見据えてまいといけない。配信も、やってみると難しさを感じますが、新たな発信方法もあると確信してます。

――鈴木さんがこれから音楽を通じて伝えたいメッセージは?

 伝えたいメッセージはないんです。メッセージを伝えるのが一番大事とは思っていません。今、感じてることを歌詞にしたり曲にしたりしているだけです。それがメッセージを受け取るのであればそれでもいいですが。音楽を作り、演奏する、ただそれだけです。ただ、私の錯乱や妄想が少しでも伝われば、とは思っています。

(おわり)

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