今井美樹「歌手として自信がなかった」シンガーとしての転換点とは
INTERVIEW

今井美樹

「歌手として自信がなかった」シンガーとしての転換点とは


記者:村上順一

撮影:冨田味我

掲載:20年12月14日

読了時間:約12分

 シンガーの今井美樹が、デビュー35周年を記念したベストアルバム『Classic Ivory 35th Anniversary ORCHESTRAL BEST』をリリースした。アルバムはこれまでもリリースしてきたベストアルバム『Ivory』シリーズの最新作で、キャリア初のフルオーケストレーションによるレコーディングアルバムとなった。フルオーケストラのサウンドに溶け込んだ彼女の今が詰まった1枚で、編曲に千住明、服部隆之、武部聡志、挾間美帆の4人が往年の名曲たちを彩った。インタビューでは、なぜオーケストラ作品にこだわったのか、そして、35年を振り返ってもらいシンガーとしての意識が芽生えた瞬間に迫った。【取材=村上順一/撮影=冨田味我】

ターニングポイント

冨田味我

今井美樹

――35周年ということで、今井さんのシンガーとしてのターニングポイントを教えてください。

 いくつかあるんですけど、まずあげるとしたら3枚目のアルバムの『Bewith』です。岩里祐穂さん、柿原朱美さん、上田知華さんなど、その後の今井美樹を支えてくれた方たちと出会ったアルバムなんです。その出会い方も皆さんが私に曲を書きたいと集まってくれました。その時「こういう曲が歌いたかったんだ!」とデモテープを聴いて感動ました。そんな楽曲たちとの出会いで、歌手として自信がなかったまま歌っていた自分が、音楽を作って行きたいと思えたのが『Bewith』でした。

――自信がなかったとは?

 私はもともと音楽をやることを目指していたわけではなくて、父の音楽好きの影響で私も好きだったという感じなんです。家では素晴らしい音楽が当たり前に流れていたことで、自分の細胞に染み付いているんだと思います。その中で自分の好きな音楽というものも形成されていったと思うんですけど、それとは関係なく自分のキャリアがスタートしてしまったので、音楽ファンが自分の意思ではないところで始まってしまったことにプレッシャーや違和感を感じていました。当時のディレクターが私の思いも汲んでいただきながらやっていたなかで、出会ったのが上記の方達でした。

――すばらしい出会いがあったんですね。

 それで自分が大好きな音楽と向き合いたいと思えたんです。自分の思いの丈を聞いてもらって、それが形になっていって。当時のディレクターが組みたかったアレンジャーや、そのアレンジャーが一緒にやりたかったミュージシャン、今剛さんや青山純さんたちを一緒に連れてきてくれて、素晴らしいチームでした。ただ音楽が好きというだけだった気持ちを、素晴らしい形で音楽にしていただけたので、想いがすごく詰まったアルバムなんです。

――ちなみにデビューアルバム『femme』はどのような認識なのでしょうか。

 正直に言うと他のアルバムとは温度は違いますね。それは、まだ自分の思いがそこに入り込んでいないからで、例えば小さい頃の写真を見て自分はこうだったんだと知るような。そういった感じだったので、普段聴くこともなくて、ライブでも前期のライブ以外では『femme』から曲をピックアップすることはなくなりました。でも、ある時にふと聴いてみたんですよ。そうしたら、自分が気づいていなかっただけで、演奏も良くて、トリッキーで、でもまっすぐで良いアルバムなんです。

 それでディレクターさんに「私、当時全然理解できてなかった」と謝って。ディレクターさんもすごく考えてくれていたんですよね。親の思い子知らずじゃないですけど、『femme』のようなイノセントなアルバムは、あの時じゃなければ出来なかったなと思います。もし、過去を振り返るようなライブをやるとしたら、そこから選んでやってみたいと思いましたから。本当にライブとかでも歌ってこなかったから、今歌ったら新曲として聴いてもらえるかも知れない(笑)。

――それは副産物かもしれないですね(笑)。次のターニングポイントは?

 『Bewith』で意識が変わったことで、もっとチャレンジしたいという欲が出てくるんです。『Bewith』からキャリアを重ねて『retour』という5枚目のアルバムをリリースしました。当時私はドラマ『想い出にかわるまで』に出演していて、主人公の沢村るり子を演じていました。そのるり子ちゃんがいろいろ背負っていて(笑)。そのドラマがクランクアップした直後にアルバム『retour』の制作に入るということで、出来るだけ自分で歌詞を書いて欲しいと言われていました。レコーディングに入るまで一応3週間ぐらいはあったんですが、私はドラマの重さに疲労困憊していて。

 なかなか役柄のるり子ちゃんが私の中から出ていかなくて。何も自分から出てこないから、もう少し時間が欲しいとお願いしたんですけど叶わず。本当にその時は苦しくて、それでタイトルを『retour』にしたんです。フランス語なんですけど、日本語に訳すと復帰とか戻るという意味で、自分らしさに戻ってたかったんです。

――ご自身の思いが反映されたタイトルだったんですね。

 はい。『retour』は全曲すばらしくて、今井美樹のある意味ピークだったんじゃないかなと思えるくらい(笑)。作詞家の方たちも当時の私が歌うにあたって、素晴らしい歌詞を書いてくださっていて、それが到達感みたいなものがあったんです。でも、レコーディング中に鼓膜を傷つけてしまい、それでレコーディングを中断して、落ち込みながらも再開した時に、信頼している音楽仲間が言ってくれた言葉が印象的でした。「今、君は音楽を楽しんでいないでしょ」って。その一言が大きくて残りのレコーディングは大切なことを思い出して歌う事が出来ました。それまでの自分はただレコーディングする、という事に一生懸命で、大好きな曲たちを楽しんでなかったな、と。。それから残りのレコーディングは、それこそ自分らしさを取り戻せて歌えました。

曲に寄り添った似合う声で歌いたい

冨田味我

今井美樹

――音楽への意識が大きく変わった言葉だったんですね。

 目から鱗でしたね。『flow into space』というアルバムから、佐藤隼さんやMIXER'S LABといった制作チームを一旦解体して、サウンドプロデュースを久石譲さんにお願いして。この時に初めて布袋さんに「amour au chocolat」の「The Days I Spent With You」2曲書いていただきました。それは、全く違う温度感で違う色の音楽を作りたい、今までのものを全部捨ててもいいから新しいものを見てみたいという、強い衝動のようなものでした。

――それはなぜそう思ったのでしょうか。

 そのころのロンドン経由の音楽が自分の日常の中心になってきて、今まで大好きだったものと違う温度感や、質感、エッジーさなど、明らかに全く違うものに傾倒し始めていたんです。
 だから、今まで私を作ってくれた音楽家にその全く違う質感のものをリクエストしていくのは、違うと思いました。彼らの素晴らしさを相殺することになる、そして自分もフラストレーションが溜まっていくだけ。だから大好きな人達と一度線引きをしてでないと私は新しい領域にはいけないと。苦渋の決断でした。大好きな音楽人、そして私の根底に流れている大好きな音楽への別れですから。でもそれでも今自分が心踊る方向に踏み出してみたい、勇気を持って線引きをすることで新しい世界に入っていかないと先には進めないと思いました。その時にたまたま布袋さんの音楽にも出会って、この人ならその音楽のニュアンスをわかってくれるんじゃないか?と突然お願いしたという経緯があったんです。

――ということは『flow into space』がターニングポイントに?

 布袋さんと出会ったのは『flow into space』ですけど、ターニングポイントは8枚目のアルバム『A PLACE IN THE SUN』ですね。そのアルバムにはもちろん布袋さんもいて、坂本龍一さんも参加していただいて、昔からの作家陣も参加したアルバムです。それは新旧とかではなくて、自分の体温と新しい色と匂いが入っているという感覚なんです。それらをミックスして一番自分らしいものを作りたいと思いました。どんなにふるい落とそうと思っても、ふるい落とせないものが自分なので、それがあるのがわかっていたから振り切る事が出来たんです。新しいものを取り込んでもバランスがとれる、敢えて異種格闘技のような3つの要素が入ったアルバムにしました。それを繋げたのは私の声だったと思います。

――どのような意識で歌唱されたのでしょうか。

 その曲に寄り添った、似合う声で歌いたいと思いました。サウンドがカッコいいというのは大前提にあって、それまでのトライしてきた私の歴史とその中で出会ってきたサウンドがそこにあり、カラフルで、でもシックでまさに目指してきた世界観だったので、そのサウンド、歌詞の世界の一部になりたいと思いました。だから歌唱、というより「声」という担当で楽曲に寄り添いたかったです。

 『A PLACE IN THE SUN』はニューヨークでレコーディングしたんですけど、その時のミキサーがGOH HOTODAさんだったんです。最終的なミックスをGOHさんにやっていただくんですけど、歌入れに関してもGohさんに紹介していただいたエンジニアさんがニューヨークで準備していただいていました。そこで歌入れを始めた時に今まで感じていた違和感がなかったんです。

――違和感というのはどんな感じだったんですか。

 ヘッドフォンで聴いていたものとコントロールルームに戻って聴いたスピーカーから聴いた音だと、自分が思っていたものとちょっと違うと感じていました。なぜだかわかりません。でもいつも自分の中で正解がわからず、迷いながらレコーディングをしていたんです。ニューヨークでの歌入れはその差異がなかったんです。そんなことは初めてで迷うことなく声に確信を持ちながら歌えました。完成した後「はい、これが私です!」と名刺がわりに渡せるな(笑)と思えました。

 そこからレコーディングをするということが楽しくてしょうがなくて。楽曲のサウンド作りも東京、布袋さんの曲はロンドン、教授(坂本龍一)の曲はニューヨークで録っていたので、あのアルバムは地球を2往復ぐらいしていました(笑)。皆さんの特徴があったのでカラフルなアルバムだったんです。その個性を繋いでいたのが自分の歌だったので、それはすごく自信に繋がりました。その想いがあって次の年のアルバムもニューヨークで録ろうと思っていたんです。当時32歳だったんですけど、どこでボタンを掛け違えたのか、うまくいかないことが多くなりました。それは前年のニューヨークでの体験と比べてしまったんでしょうね、なにか違う、どうしてあの時みたいにうかく行かないのかな・・とか。

――常に戦いなんですね。

 戦っているのが当たり前だけど、それをしっかり形にしています。その年の記録としてしっかり残せるようにスタッフさんは作ってくれているので、本人の記憶の中では嵐が吹き荒れていたとしても、その時の作品としてと残っていくわけなんです。「PRIDE」はそんな新たな迷いに入った後に制作することになるんですが、そのレコーディングは衝撃的でした。

――どのような衝撃があったのでしょうか。

 今までとはまるで違うレコーディングでした。それまではディレクターと一緒に楽曲決定や歌詞の世界、レコーディング中のアイデア・・など私も一緒に参加させてくれて制作してきました。それがここで初めて詩曲ともある世界にシンガーとしてのみ関わる、というプロデュースされるというの形態で作品を作ることになったんです。今までと全く違うやり方、戸惑い、でも誰かに身を委ねて違う画を描いていく..という作業に衝撃を受けて、布袋さんプロデュースでアルバムを1枚作ってみたいと思ったんです。それがアルバム「PRIDE」に綱がります。

 その後、たまたまそのタイミングでレコード会社を変わることになり、結果そのまま布袋さんとの制作は続いていきました。レコード会社が変わったことは大きいですし、新しい環境、チームとして物作りを始まったんですけど全てが初めてのことでした。それもあってどこか一人で戦っているような感覚でしたね。たぶん布袋さんやスタッフのみんなは「大げさ」と言うかもしれないですけど(笑)。

今の私に合うようにアップデートさせたんです

冨田味我

今井美樹

――今井さんは節目で「Ivory」というタイトルでこれまでベストアルバムをリリースされてきていますが、この言葉にはどのような想いが込められているのでしょうか。

 私は自分にエッジのある色がないことがずっとコンプレックスでした。でも何色のベースでもある白、が自分だと思っていましたが、白は個性的で強い色です。当時はもっとナチュラルで体温を感じるような生成り、アイボリーが一番フィットして、自分らしいと思えたので「Ivory」というタイトルにしたんです。ベストアルバムのシリーズ化を決めたわけではないのに、でも結果的にそれが私のベースになっている、という意味もあり、いつの間にか「Ivory」がシリーズ化していきました。だから今作も『Classic Ivory』としました。

――5年ほど前からオーケストラの構想があったとお聞きしているのですが、オーケストレーションのアルバムを作ろうと思ったきっかけはどんなものだったのでしょうか。

 作ろうと思った経緯は、これまでの曲もオーケストラが彩ってくれた曲はたくさんあります。私にとってはオーケストレーションはいつも作品の中で素晴らしい世界を描いてくれている、だから取り立ててオーケストラでの再録という形にこだわるのは、今ではないな・・とその都度思ってたんです。ただ、ロンドンに移ってから布袋さんが「君の曲はスタンダードに足りうるものをたくさん持っていて、そのパフォーマンスをみんなが待っている。それをオーケストラというふくよかな音楽でレコーディングし直してベストセレクションで届けることを絶対したほうがいい」とずっと言っていて。

――布袋さんの言葉がきっかけだったんですね。

 でも、私は環境が変わって、ロンドンに移ってからも戸惑って、何をしたらいいのかわからない時期がありました。東京で暮らしていた時とは違う、いろんな思いが巡っているわけです。でも迷っているからこそその迷いも新たな発見も残しておきたい、と私はどちらかというとオリジナルを作ることにこだわっていました。

 私の楽曲にはオーケストレーションなどで、大きく違う絵を描くことができる曲が沢山あることを自分自身も知っていたので、タイミングがあえばというのはありました。そして35周年というタイミングが巡ってきて、それが今だと思ったんです。皆さんが長く愛してくださっている、そんな曲たちを持てているから35周年を迎えられて、とにかくみんなに「ありがとう」を言いたかったんです。それを形に残したかったというのが、着手した理由です。

――制作するにあたって大事にしていたことは?

 4人の音楽家たちが惜しげもなく音楽愛を溢れさせてくれて作ってくださった音楽が素晴らしいので、それに見合う自分でいたいと思いました。あの頃のオリジナルの良さがあるのは当たり前だけど、その楽曲がこれからもみなさんの大切な曲になっていてほしいし、これからもライブで歌っていく大切な曲として残しておきたいから、今の私です、という作品にしたかった。

 それに合わせて自分もアップデートさせたかったんです。でも結果的に、今井美樹という人はこういう人だよね、という歌がそこに残った感じになりました。それは布袋さんや武部(聡志)さんが非常に客観的に私のことを歴史も含めて理解してくれて導いてくれたし、私は今の年齢の自分をさらっと残したい、と思いつつ、楽曲の力が大きい曲たちが勢揃いしていることもありなかなかそうはいかず、結局いろいろもがいていましたが、最終的に「これが今井美樹でしょ」というところに自力で歩いていけるように、皆さんが導いてくださいましたね。

――拝聴させていただきましたが、すごく“今”の今井さんを感じることができました。

 オーケストラに焼き直しただけのものは1曲もなくて、それは私にとってもチャレンジでした。新しい作品と言ってもいいと思っています。これまでチャレンジしてきた作品と同じように、それ以上のエネルギーを持って形に留めることができたのは、2020年という特別なタイミングに35周年というのが繋がっていて。こじつけかもしれないですけど、そこに大きな意味があるのかなと思っています。コロナの中でのレコーディングだったのでどんどんスケジュールも変更になっていきました。実際レコーディングを続けられるのか、リリースができるのかなど色々あってここにたどり着いたので、2020年は絶対忘れられない年になりましたね。この想いを皆さんの日常の中で、リラックスして私の最新版として聴いていただけることを願っています。(おわり)

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