歌手でタレントのタブレット純が、シングル「東京パラダイス」をリリースした。表題曲はムード歌謡に精通しているタブレット純がファンだと語る“ムード歌謡の父”作曲家の故・中川博之氏(2014年に他界)の未発表曲。カップリングにはタブレット純が作曲と編曲を行った「鎌倉哀愁クラブ」と、レコード収集している中で発見したジョージ山下とドライ・ボーンズのカバーで「サヨナラ大阪」を収録。インタビューでは「社会では生きていけない」と感じた学生時代のエピソードから、自身がムード歌謡に惹かれる理由、「東京パラダイス」の制作背景からジャケ写の衣装についてなど多岐に渡り話を聞いた。【取材・撮影=村上順一】
もう社会では生きていけないと感じた学生時代
――タブレット純さんの子ども時代のこともお聞きしたいなと思うのですが、どんなお子さんでしたか。
すごく音楽が好きで、特にAMラジオを聴くのが好きでした。玉置宏さんというアナウンサーの方がいて、その方の番組を聞いていると古い音楽が流れていて、その時にオンタイムの歌よりも昔の歌が好きなことがわかってきて。それらの曲を録音して一本のテープにしたりしてました。その中で和田弘とマヒナスターズというグループを知って、衝撃を受けました。小学生の卒業アルバムにもマヒナスターズの事を書いてましたから。
――そのマヒナスターズにタブレット純さんは27才の時に田渕純として参加されていたのですごいですよね。周りと話が合わなさそうですね...。
全然合いませんでした。担任の先生すら知らなくて(笑)。あと相撲や野球、プロレスなどスポーツや格闘技を観るのが好きでした。やるのは全然ダメなんですけど。昔の事を調べるのが好きだったので古本屋通いも良くしていました。それは今も続いています。
――あまり新しいものは好きではない?
そうですね。当時にタイムスリップしたいというのがあって、今というものにはそんなに興味はないです。コンサートもほとんど行かないんですけど、音楽は部屋で一人で聴くものだと思っていて。
――ロックとかジャズなど沢山ジャンルはありますが、その中でご自身が歌謡曲が気に入っている理由はどんなものですか。
GS(グループサウンズ)とか元々はザ・ビートルズのようなサウンドでロック要素もあったはずなのにどんどん歌謡曲になっていってしまう。それぐらい日本人にはマイナー調のメロディやサウンドが好まれていて。どんなにおしゃれな事をやっても、泣きの部分など歌謡曲には勝てないと言いますか、不思議な魅力があると感じています。それが僕には性に合っているんです。
――Aメロ、Bメロ、サビという日本ならではの流れもありますよね。
そうなんです。そこに3分間のドラマがあって、それが特に好きなところなんです。あまり長い曲は好きではなくて。
――音楽を聴く時はレコードですか。
レコードしか買ってないんです。今も6畳一間の風呂なしのアパートに住んでいるんですけど、ちゃんと数えた事はないんですけど、3000枚以上はあるので、自宅にはもう置けなくなって。たまたま銭湯で会ったおじさんが下宿屋をやっていて、安く貸していただけることになって。もう一部屋近所に部屋を借りて、そこにレコードを置いています。必要な時にそこに取りに行ってます。
――すごいですね! さてタブレットさんはお笑いもやられていますが、お笑いはお好きだったんですか。
音楽は全然オンタイムの曲は聴いていなかったんですけど、ちょうど漫才ブームだったこともあり、お笑いはオンタイムで色々観ていました。ザ・ドリフターズや『オレたちひょうきん族』、『お笑いスター誕生!!』という番組が特に好きでした。でも、まさか自分がお笑いをやるとは全然思ってませんでした。
――お笑いをやる事になった時はどんな心境でしたか。
少しずつおかしくなって行くんです。ライブハウスでロックバンドと一緒にやって、踊ったり、失神するだけでいいからとか、プロデューサーからの変なリクエストが多くて(笑)。その辺りから面白がられる案件が増えてきて。それで知ってくれて、浅草フランス座演芸場東洋館という演芸場に呼んでいただいて、最初は歌手として出ていたんですけど、定期的に出て欲しいという事で、歌手との差別化を図るために東洋館限定でタブレット純という名前にしたんです。
――そうだったんですね。
思いつきで付けてしまったんですけど。その時に客席で観ていた今の事務所の方が僕をスカウトしてくれて、そこからお笑いのオーディションに行かされるようになって(笑)。それがポンポンと受かってしまって、テレビにも出れるようになって、あっという間にお笑い芸人になっていました。ここまでがスカウトされてから2カ月ぐらいの出来事でした。
――歌手と芸人、違うジャンルでの活動に葛藤はなかったのでしょうか。
なかったです。そもそも自分が歌手ということに関しても意識が薄いと言いますか。ひょんな事から歌うようになって、下積み時代があったわけでもなかったので。なぜ自分がこの世界にいるんだろうという中で、10年近く時が過ぎていたという感じなんです。
――算数の問題文を使用したムード歌謡漫談も斬新でしたが、その時に使っていたノートはボロボロでしたね。
ネタの中で地面に叩きつけているので、結構すぐにボロボロになってしまって。今のノートは2代目なんですけど、テープを貼りながら使ってました。最近はそのネタもやらなくなってしまったんですけど。
――また見たいです。テレビ番組には機会があればどんどん出たい感じですか。
個人的にはテレビはあまり向いてないと思っていて、特にひな壇があるような番組は難しいです。過去に出たことがあったんですけど、一言も喋らずに終わってしまったことがあって。自分から積極的に行かなければダメなので。どちらかというとラジオの方が僕には向いているかなと思っています。変なレコードを沢山持っているとかで呼んでいただけることが多いんです。
――秀でたものがあると良いですよね。
個性は重要ですね。でも、その人とは違うというところで苦しんできたところはあるんですけど、それが今役に立っていて、個性に繋がったのは良かったです。
――苦しい時期もあったんですね。
中学生ぐらいの時は苦しかったです。それまでは特に恥じらいもなかったんですけど、だんだん疑心暗鬼になって、人と違うというところに悩み出しました。マヒナスターズは大好きですけど、同年代では誰も聴いていないし、それが恥ずかしくなってきて、レコードを屋根裏に隠したり...。
――見られてはいけないものみたいになって。
はい。人と違うと言うことがすごく恐怖でした。男性が好きな時もあったり、性同一性障害ではないですけど、女性っぽい格好をするのも好きだったり、その時はもう社会では生きていけないと感じていて、まともに生きようとは思わなくなりました。友達はいたんですけど、実態は隠しながら付き合っていました。
――いつ乗り越えられたのでしょうか。
当時はいじめにもあっていたんですけど、ものまねが得意だったので、人知れず学校の先生の真似をしていて。それは仲の良い人にしか見せてなかったんですけど、「すごい似てる」と言ってくれて。そこから一芸が出来た事でクラスに自分のポジションが出来るようになったんです。
ジャケ写の衣装は古道具屋で発見!?
――さて、「東京パラダイス」がリリースされましたが、この曲は美川憲一さんの「さそり座の女」など代表曲にもつ作曲家・中川博之さんの未発表曲なんですよね。
そうなんです。僕は中川先生とはお会いした事はないんです。一方的なファンなので、中川先生の作品は見つければ絶対買ってます。作詞をしてくださった高畠じゅん子先生が中川先生の奥様なんですけど、2017年にリリースした前作「夜のペルシャ猫」も中川先生とじゅん子先生のコンビで作っていただきました。ディレクターさんがじゅん子先生と知り合いで紹介していただいたんです。食事に行かせて頂いて、僕のことを面白がってくれて。ファンだったので幸せなことです。
――歌詞は書き直されているのでしょうか。
いえ、歌詞も当時のままで書き直してはいないんです。
――音も昭和の歌謡曲テイストが良く出ていますね。
ありがとうございます。実はこれ生演奏ではなく、打ち込みなんです。生楽器を足そうとも思ったんですけど、このままの方が寂れた感があって良いかなと思って。おそらく最新の機材ではないと思うんですけど、それが逆に良かったのかなと思いました。戦後の歌謡曲のように朗々としているんですけど、あまり濃く歌ってしまうと軍歌みたいになってしまうと思ったので、少し軽めに表現してみました。
――この曲はジャンルで言ったらムード歌謡になるのでしょうか。
中川先生は“ムード歌謡の父”と言った感じなのですが、「東京パラダイス」はそれとは違った中川作品の中では異質な曲で、人生賛歌、行進曲のような曲調だなと感じています。
――人生賛歌というところで、ラストに入ってくるパラダイス・スリーによるコーラスも彩りを与えてくれていますね。
演芸活動をしている近所の友達なんです。ユニット名はその場で付けたんです(笑)。
――良い味が出ています。カップリングに入っている「鎌倉哀愁クラブ」は作曲と編曲をタブレットさんが行っています。この曲は生バンドでの演奏なんですよね。
じゅん子先生から「作曲してみない?」とお話をいただいたので、この曲は共同作業的な感覚もありました。演奏は東京ベルサイユ宮殿というバンドです。コンサートでムードコーラスをやりたいと思って、このバンドでたまにやっているんです。近年は純烈さんのようなコーラスグループが目立っているのですが、ムードコーラスというのはマヒナスターズのようにバンドで演奏して、なおかつコーラスもするというのが本来の姿なんです。バンドマンであるという認識が近年薄れてきているところもあって、自分は純然たるムードコーラスをやりたいなと思って。
――タブレットさんもギターで参加されて?
バンドにはもう1人ギターがいるので、僕はコード弾きぐらいですけど、参加しています。
――お笑いの時にもギターを弾いていますが、タブレットさんはフラメンコ的なラテンを感じさせる演奏スタイルですよね。
そうですね。マヒナスターズはハワイアンなんですけど、ムードコーラスは基本ラテンの要素も含んでいるので、自然とそうなりました。鶴岡雅義と東京ロマンチカというバンドがいるんですけど、そこはラテンの要素が強くて、ギターもレキントギターという通常よりひと回り小さいギターを使っていたり。それを見様見真似でやっているうちに、自分もそういうスタイルになっていきました。ギターは完全に独学なんです。
――そうだったんですね。さて、なぜ歌詞のテーマが鎌倉になったのでしょうか。
僕が好きな街なんです。相模原出身で観光大使もやらせていただいているんですけど、相模原だと歌にするのが難しいかなと思って。鎌倉に90歳になるマスターがやっていたお店があって、そのマスターが亡くなってしまったこともあり、追悼の意味も込めて鎌倉の歌を歌いたいと思い、じゅん子先生にお願いして詞を書いていただきました。相談させていただきながら作ったので、僕のフレーズも採用していただいたところもあります。
――もう1曲の「サヨナラ大阪」は中川さんの作詞・作曲でジョージ山下とドライ・ボーンズのカバーですね。
この曲はじゅん子先生が選んでくれた曲なんです。以前、コロムビアの方から僕が選んだムードコーラスのCDを企画がありまして。その中で僕が持っていたレコードにあった曲なんですけどじゅん子先生も知らなかった曲なんです。中川先生はクラウンの専属作家さんだったので、コロムビアに音源があるのも不思議なんですけど、そのレコードが発掘されて。それで素敵な作品だったので焼き直ししたいとなりました。
――貴重な1曲だったんですね。さて、ジャケットの衣装が印象的ですが、どのようなイメージで作られたのでしょうか。
この衣装は70年代のアイドルが実際に着ていたもので、古道具屋さんに大量に出ていたのを購入したんです。
――オリジナルではないんですね。
そうなんです。でも買った時は誰が着ていたのかわからなかったんですけど、レコードを集めていたら、たまたまレオナルドという4人組のアイドルが当時着ていたことが判明して。そこから調べたらそのメンバーのお1人が、現在ボイストレーナーをやっていることがわかって、習いに行きました。その時にこの衣装を着て行ったんですけど「それ俺たちが着ていた衣装だ!」とご本人も驚いてくれまして(笑)。
――それは本当に驚かれたと思います(笑)。さて、タブレット純さんのこれからの展望は?
今はラジオ番組に呼んでいただけることが多くて、やりたいことのひとつに深夜のラジオ放送を経験してみたいなと思っています。あとはこの「東京パラダイス」が売れて、チャートを上がっていくことを体感してみたいです。その中で歌番組だったらテレビも出たいと思っていて、出演できたら嬉しいです。
(おわり)