ジャズボーカリストのギラ・ジルカが12月11日、メジャー1stアルバム『50(フィフティ) 』をリリース。イスラエル人の父と日本人の母を持ち神戸で生まれ育ち、その後バークリー音楽大学を91年に卒業。2010年に自身初となるソロアルバム『all Me』をリリースし、昭和の名曲をジャズにRe-STYLE したギラ山ジル子 PROJECTやSOLO-DUO ギラ・ジルカ&矢幅歩などでも活動。2018年にはMISIAに曲を提供した事が縁でMISIAのツアーに参加するなど活躍の場を広げている。インタビューでは8月に「ケンちゃん」でメジャーデビューしたギラ・ジルカの脊柱側湾症という苦難から、歌手人生を変えたばんばひろふみとの運命の出会いなど生い立ちを振り返り、音楽のルーツに迫った。【取材=村上順一/撮影=冨田味我】
常に劣等感を感じながらやっていた
――ギラさんの音楽の原体験はどのようなものでしたか。
父はイスラエル人で生まれがバグダッドなので、家ではアラビア音楽やクラシック、サミー・デイヴィスJr.、兄の部屋からはザ・ビートルズやレッド・ツェッペリン、カシオペアが流れていたり。あと母は舞台女優を目指していた事もあって、シャンソンが好きだったので口ずさんでいたりしていた環境でした。
――良い環境だったんですね。
私は2歳の頃からピアノを習い始めるんですけど、楽譜がなくても先生の演奏を見たり、音を聴いただけで弾けてしまうような感じでした。オーケストレーションがわかるんです。それが最初の先生の時は生かされていました。でも、途中で先生が変わって楽譜を読めない人は落ちこぼれという感じになって、姿勢から何まで矯正されました。そのストレスがすごくて小学校6年生頃にピアノをやめてしまいました。
――ギラさんには窮屈だったんですね。
はい。でも音楽はやめませんでした。音楽を聴いては弾いたり、楽譜も読めるようになっていたので、シャカタクの楽譜を買ってきて弾いたりもしていました。
今は耳で聴いただけでは弾けなくて、あの時の私はどこに行ってしまったんだろうって(笑)。そうだ! ピアノを習っていた時にオシッコを我慢しすぎて漏らしてしまったのを覚えています(笑)。それでレッスンに行くのがトラウマになってしまって...。
――すごいお話です。
3歳からはピアノの先生に家に来てもらうようになって、クラシックバレエも始めました。3歳頃から私の身体が大きくなってきてしまったので、何かやらせないとダメだときっと両親が思ったんでしょうね。バレエはすごく楽しかったんですけど、先生からは痩せなさいと怒られてばかりで。そういうのがずっと続いていたので、「私はダメだ」と常に劣等感を感じながらやっていました。
――その劣等感から開放された瞬間はあったのでしょうか。
『太陽にほえろ!』が当時大好きで、挿入歌は全てコピーしました。特に「ジーパン刑事のテーマ」がお気に入りでした。その『太陽にほえろ』に似た曲を作曲して学校のタレントショーで披露したら、大人の方々がスタンディングオーベンションをしてくれて、色々トラウマがありましたけど、「私は大丈夫だ」と思わせてくれました。
――歌を本格的に始めるのはいつ頃からでしょうか。
まだまだ先です。音楽のターニングポイントとして10歳の時に、脊柱側湾症という背骨が曲がる病気が見つかりました。当時の私はちょっといじめられっこだったというか、何を言われても何をされても我慢するほうでした。ハイキングの時にクラスのボスの女の子に「あなた、私をおぶりなさいよ」と言われて、おぶったら腰に痛みを感じ病院に行ったら背骨が曲がってると言われて側湾症が見つかり…バレエやスポーツができなくなりました。手術後1年ぐらいリハビリが必要だった。
――リハビリは長かったですね。
そうなんです。それで私の打ち込む先はもう音楽しかなかったんです。半年学校に行けなくて、家に閉じこもっていました。母に歌謡曲のシングル盤を買ってきてもらって聴いて、TVではピンクレディーや松田聖子さんも流れていて、私も憧れていました。4、5年生の頃は歌謡曲をたくさん聴いていました。
――脊柱側湾症にもしなっていなかったらスポーツの方に?
好きだったのできっとスポーツもやっていました。でも、体育系は全部やっちゃいけないことになって、基礎体力が全然ないまま音楽に没頭するんです。それで、サックスの音色が好きになって、「サックスをやりたい」と、先生に話したら「まずはクラリネットから始めなさい」と言われて、クラリネットを始めました。4年生の時にやっと「サックスを吹いていいよ」と先生の許可が出ました。その時に借りた楽器がもの凄く臭かったのを覚えています(笑)。そこからはブラスバンドを中学、高校とやるんですけど、腰のギプスも外れて、やっと自分のサックスも買ってもらえました。
――どんなサックスを買ったんですか。
アルトサックスです。当時の私の憧れはデイヴィッド・サンボーンだったんですけど、なぜアルトサックスかというと、音が人間の声に近いと私は感じたからなんです。あと、サックスなら脊柱側湾症というハンディを持っていてもできると思いました。ジョージ・マイケルの楽曲や、ビリー・ジョエルの「Just The Way You Are」のサックスソロをコピーしたりして楽しんでいたんです。そのあとバンド組んだんですけど、歌モノをやることになって、流れで私が歌うことになったんです。