小林亜星「流行がなくなった」大御所が見る現代の音楽シーン
INTERVIEW

小林亜星

「流行がなくなった」大御所が見る現代の音楽シーン


記者:村上順一

撮影:

掲載:19年09月10日

読了時間:約10分

 音楽家の小林亜星(87)が8月7日、アルバム『小んなうた 亞んなうた 〜小林亜星 楽曲全集〜』を発売した。CMソングをはじめ、演歌・歌謡曲、アニメ、童謡、子どもの歌など幅広いジャンルの楽曲をCD4タイトルにわたり網羅。インタビューでは、都はるみの「北の宿から」など数々のヒット曲を産み落としてきた小林に作曲家としての心得や、ヒット曲の方程式を聞いた。「今の音楽理論では革新的な音楽は難しい、さらに流行というもの自体がなくなってしまった」と話す小林の音楽人生に迫る。【取材=村上順一/撮影=冨田味我】

美空ひばりは1世紀に1人いるかいないか

小林亜星

――8月7日に、これまでの楽曲をまとめたアルバム『小んなうた 亞んなうた ~小林亜星 楽曲全集~』シリーズがリリースされましたが、現在どのようなお気持ちですか。

 改めて曲を聴いてみたら感慨深いものはありましたけど、照れ臭いんですよね。改めて毎日よくこんなにたくさん作ってきたなと思いまして、忘れてた曲も1、2曲ありましたから(笑)。

――特に思い入れがある曲はありますか。

 そういうのはないんですよ。自分の子どもたちみたいな感覚なので、曲に対しての優劣もないですから。

――小林さんが最初に作った曲はどんなものだったのでしょうか。

 初めて作曲したのは高校3年生の時でしたね。同じ学年に冨田勲さんと林光さんもいたんですよ。学園祭の時に先生に「曲を作ってこい」と言われて作ったんです。それで味をしめて(笑)。でも、まだその時は作曲家になるなんて考えてもいなかったですけど。

――すごい学校ですね! では作曲家を目指したきっかけはなんだったのでしょうか。

 僕は親の意向もあって、大学で医学部に通っていたんだけど、医者にはなりたくなかった。それが嫌でしょうがなくて、作曲家になったんです。他にやりたい事があったというよりは、音楽は嫌な事から逃げ出すためのものだったんです。

――そうだったんですね、意外でした。さて、歌謡曲を収めた『歌謡曲編』に収録された曲で、歌手が歌うことで小林さんの想像を超えてきた楽曲はありましたか。

 「北の宿から」は(都)はるみちゃんが力を入れて歌ってくれたこともあり、自分が描いていたものを超えてきたので感動しましたね。

――美空ひばりさんはいかがでしたか。

 山田耕筰先生が亡くなる時に「ひばりさんに自分の曲を歌って欲しかった」と話していたんだけど、それでひばりさんが山田耕筰先生の曲を歌うことになった時に、私がアレンジを頼まれたの覚えています。曲もその時に作ったのかなあ…。そこはうろ覚えなんですけど、歌を聴いた時に、ひばりさんのようなすごい歌手はいないと思いました。キーが決められないんですよ。

――キーが決められない?

 歌える音域が広いから、低いキーでも高いキーでも、どこで歌っても全部良いんです。だから、どこのキーに設定しようかこちらが迷ってしまう(笑)。1番と2番が同じメロディでも、歌詞によって全然違う感じにも聴こえるんです。こんな人が世の中にいるんだなとビックリしましたから。世界中探してもあまりいないと思いますよ。1世紀に1人いるかいないかというレベルです。

 シアトルとサンフランシスコのアメリカ公演に一緒に行った時には、ネルソン・リドルのバンドをバックにひばりさんが歌ったんですけど、その人達が「今度ヨーロッパでツアーがあるんだけど、美空ひばりを連れていきたい」と話していたくらい。でも、ひばりさんのお母さんが「それはダメ」と、断っちゃったんですけどね(笑)。

――あと、松坂慶子さんが歌唱されている「赤い靴はいてた淫らな娘」が印象的でした。

 すごいタイトルの曲ですよね(笑)。良い役者さんは歌が上手いことが多いんですよ。

音楽を作るには生きていく喜びや力が必要

小林亜星

――今作は多種多様なジャンルの楽曲が収録されていますが、小林さんの一番得意なジャンルはなんでしょうか。

 う~ん…。得意なのはコマーシャルソングかな。好きなのは子どもの歌ですね。

――あと、ジャズもお好きなんですよね。

 ジャズマンがやるジャズは好きですね。それもあって僕の曲のリズムセクションはジャズマンがやっていることが多いんです。テレビの音楽を作る方はクラシック畑の方が多いんですけど、ジャズ畑で作っているのは当時僕くらいしかいなかったんです。友達に良いジャズマンの人が沢山いたので、その人達に来てもらってレコーディングしていたんです。

――生が主流の時代で今考えると贅沢な時代でした。小林さんは今の打ち込み主流の音楽はどう思っていますか。

 それを音楽だと思って錯覚を起こしている状態だと思うんです。あれは音楽としてまた違うベクトルで存在している感覚で、私は音楽だとは思っていないです。人間が音を出すということが音楽の一つの要素だと思っていますから。打ち込みはそれとは違うことをやっているわけです。あとシンガーソングライターもまた違う感じがあります。全員が全員ではないですが、歌の作り方を知らない、彼らは自分の歌を作っていて、人の歌をほとんど作っていないですし、全部自分たちの中で完結してしまっているんです。

――ザ・ビートルズのような作曲まで自分たちでやってしまうバンドが出てきたときはどのように感じましたか。

 ザ・ビートルズはそれぞれが作曲家だなと思いました。アーリーアメリカンの音楽を活かして作っているから「この手があったか」と思いました。ボサノバもすごい発明でしたけど、ビートルズは行き詰まっていたポピュラー音楽を、新しく発明しましたから。それ以降そういうバンドやアーティストは出てきていないですよね。もう人類の音楽のネタが尽きたのかなと思います。

 モダンジャズや難しいコード進行を使ったものは出てきましたけど、ビートルズは簡単なコードで進行しても全然違った物にできるという発明をしましたから。全く違う観点から音楽をやって、アメリカの移民が始まった頃に、フランス人がやっていたような音楽を取り入れてやっていて、ビートルズはものすごく研究していましたよね。

――ザ・ビートルズのような革新的なアーティストがまた出てきてほしいですね。

 今の音楽理論ではもう無理だと思います。もう音楽はいくところまで来てしまった感覚がああるんです。インド音楽を取り入れだしたらまた変わってくるんでしょうけどね。インド音楽は何時何分何十秒と時間によって音階が変わるんです。それがドレミファ…の12音階ではなくて、もっと細かい音階を使用しているんです。

――それが大衆に受けるかといったら難しいですね…。

 受けないですよ(笑)。インド音楽は宗教的なものもありますからね。

――そんな難しいなか、小林さんは新しい音楽を作ってみたいというお考えもありますか。

 いや、もうダメですね。作曲というのも今年の始め頃に作った作品をもって終わりにしようかなと思っています。もうほとんど曲は作っていませんから。曲自体は作ろうと思えば作れるんですけど、音楽を作るには生命力、生きていく喜びや力というものが必要なんです。自分にはもうそれがないんです(笑)。

――作り続けて頂けたら嬉しいのですが…。では、今の音楽教育にはどのような思いがありますか。

 昔バークリー音楽院の日本校が出来た時に、そこの校長をさせていただいていたんですけど、みんな音楽を勉強しようという感覚ではなくなってきましたね。もう自分でやればいいみたいな感じになってしまって、本気で音楽を勉強しようと思う人はほとんどいなくなってしまいました。勉強している人もせっかく和声学とか習っても、音楽家ではなくみんな先生になってしまうんです。

――確かに講師を目指して勉強している方が最近多いと聞いたことがあります。

 作曲家を目指して勉強している人は今は本当に少ないですね。昔は作曲するのに勉強しなければいけないと思っていましたけど、今の方はそうは考えていないですから。勉強しなくても出来ると錯覚を起こしているんです。理論がしっかり出来ていないと、最終的に出来てくる音楽は面白くないと思っています。

――小林さんは服部正さんに師事されて今日があると思うのですが、当時はどのようなことを教えて頂いていたのでしょうか。

 毎週6、7人の弟子が揃って先生の講義を聞くんですけど、先生が「この本を読んだほうが良いよ」と、外国の作曲の書籍を紹介してくれたりしましたけど、ほとんど先生とは世間話しかしていなかったので、これといって直接教えてもらったことはないんです(笑)。たぶん、そこで作曲のノウハウを覚えた人はいないと思います。重要なことは叩きつけられましたけど。

――重要なこととはどんなことでしょうか。

 芸術家ヅラしないということを一番戒めていました。今は自分でアーティスト=芸術家と言っている方もいるみたいですが、そんなことを言った日には怒られますね(笑)。例えば、下駄を作ってる人が、すごく履きやすい下駄を作って名人になれば、自分が言わなくても周りが芸術家だと人が呼んでくれるんだと、「芸術家というのは人が言ってくれるもので、自分で言うことではないんだぞと、間違えるんじゃないぞ」というのはよく言われていましたね。だから、そこを戒めて服部先生の弟子はみんなサラリーマンみたいな格好していましたから(笑)。

――心構えが大切なんですね。

 まずは最高の職人を目指すんです。そして、最高の作品を作れば周りが芸術家だと言ってくれるようになりますから。でも、そうじゃない世界もあるとは思うんですけどね。みんながみんなサラリーマンみたいな格好してやってもね、というのは今は思います。

それぞれが100点満点の時にヒット曲が生まれる

小林亜星

――近年の音楽はどう感じていますか。

 桑田佳祐くんやユーミンの作る音楽は好きですよ。でも、たまに飲み屋で若い人が歌っているのを聴くんだけど、最近のみんなが踊りながら歌っているような曲は、私には理解出来ないところが多いですね。今は流行歌というものがないですよね?

――みんながみんな知っている曲というのはほとんどないと思います。

 だから、流行というもの自体がなくなってしまったんだなと思っています。『紅白歌合戦』も昔はおじいちゃんから孫まで一緒に観て、この曲が流行ったとか、良いとか悪いとか色々話してたんですけど、そんな家庭も珍しいですし、昔はサックドレスが流行れば、世の中の7割ぐらいがサックドレスを着てましたからね。流行を作り出すというのが、音楽を作る人の指名だったと思うんです。でも大衆はそれを望んでいないんだなと、最近つくづく思います。今それを出来る作曲家がいたら次世代を担う作曲家だと思います。

――流行を作らなければヒットは生まれないですから。

 コマーシャルソングも作る人がすごく少なくなったなと感じています。ほとんど今ありものの曲で済ませてしまっていますよね。テレビも観る人が少なくなってきていますし。

――そうなんです。そのコマーシャルソングを作るのに一番重要なことはどこでしょうか。

 コマーシャルソングは目的がハッキリしています。その会社の商品というところで、代理店の方とやる事が多いんですけど、僕は社長さんと親しくなってしまうことが多かった。当時はやっぱり社長がその会社や商品のことをよく知っているから、言う通りにやっていれば間違いないんです(笑)。なので、社長と仲良くなるのがコマーシャルソングを作るのには良いんじゃないですかね。

――コミュニケーションが重要なんですね。

 そうですね。何を持ってしてこのコマーシャルがあるのかを知る必要がありますから、まずはコミュニケーションです。そこからは僕が感じ取ったものを曲にしていく、特にこうしてほしいというのも滅多になくて、100%自分がやりたいように作らせていただきました。そこがコマーシャルのやりやすいところでもあるんです。

 逆に難しいのは流行歌で歌い手さんの好み、ディレクターの考え、アレンジャーなどたくさんの人が関わっているんですけど、それぞれが100点満点の時にヒット曲が生まれるんです。その中でサボっている人がいると絶対にヒットしないんですよ。

――ハードルが高いですね…。

 でも、例外もあってチーター(水前寺清子)のために作った「昭和放浪記」という曲は、発売前から関係者周りで「これは大ヒットするぞ」とすごい盛り上がっていたんです。ちょうど学生運動が盛んだったんですけど、浅間山荘事件でその動きが止まってしまったんです。この曲は学生運動が盛んな時期に出していれば、もっとヒットしたんじゃないかなと思います。

――タイミングも重要だということですね。最後に“ヒット”させるのに最も重要なことは何でしょうか。

 これはハマクラ(浜口庫之助)さんがいつも言ってたことがあって、「いくら先の事がわかるからといっても先のこと過ぎるものでは売れない。ちょっと先のことを考えて作ればドーンとヒットするんだよ」って。その言葉を聞いたとき、さすがハマクラさんだなと思いました。その、ちょっと先というのが重要なんだと思います。難しいですけどね(笑)。

(おわり)

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