俳優で歌手の中村雅俊が9月13日に、通算54枚目となる両A面シングル「どこへ時が流れても/まだ僕にできることがあるだろう」をリリースする。前作「ならば風と行け」に引き続き、作詞に松井五郎氏と作曲に都志見隆氏が参加。歌というものについて中村は「いろいろな解釈があってこその歌」だと語った。さらに俳優業と歌手業を続け、今年は43年間続けて来たツアーが1500本を越える。中村は「無駄のない人生よりも回り道などがあった方が彩りがある」と、この43年間の経験から話す。「役者として歌手としてやっていこうとファンのおかげで思えた。自分が求められている、他人が存在を認めてくれるということは、生きていくエネルギーになる」と話す。今作の制作背景から、自身に課せられた使命感、ライブのスタンスについてなど多岐にわたり話を聞いた。
特に建設中の建物が好き
――夏はお好きですか?
昔は大好きでしたけど、今はちょっと暑すぎますよね。自分は宮城県出身なのですが、昔は30度超えというのはなかったです。前は夏でも「ちょうどいい夏」という感じで過ごせたのに、今の夏は苦しいですよね。
――確かに年々暑さが増して来ているように感じます。中村さんは、お家ではどんなことをして過ごされますか?
のんびりとしています。ラジオで音楽を聴いたり。自分が持っているCDやiTunesなんかだと知っている曲ばかりなのですが、ラジオだと聴いたことがない曲も聴けていいです。職業柄オンオフがあるので、家では一番オフの状態ですね。
――現在、音楽やお芝居以外でご興味があることは何でしょうか?
軽い有酸素運動ということでウォーキングをしています。街並みや景観を気にしながら歩いていて、素敵な家を見ると「おお、ここの家いいなあ」という感じで(笑)。
――建物がお好きなのでしょうか?
好きです。特に建設中の家が好きです。工事中の建設現場などを、よく立ち止まって見てしまいますね。
――それは幼い頃からそうなのでしょうか?
そうですね。ちなみにTVの番組で、一番観ているのが『渡辺篤史の建もの探訪』ですから。かなり長い間、欠かさず観ています。
人気者になるのっていいね(笑)
――中村さんはライブでファンの方からお花を受け取ったり観客とも密接ですよね。
そうですね。特に昨年のツアーでは客席から出てくるという演出を行ったのですが、43年間コンサートツアーをやっていて2回目でしたね。最初はそういうつもりはなかったのですが、舞台監督が「客席から登場するのはどうですか?」とアイデアを出してくれて。
――みなさんびっくりされていましたね。
でも東京であれは2度目だったので、なかにはすでに登場の仕方を知っていらっしゃる方もいました。DVDは、中野サンプラザだったのですが、初日の葛飾のモーツァルトホールでやったときは歩けない程で。
コンサートはDVDだと1時間くらいに収まっているのですが、実際は2時間40分くらいやっています(笑)。
――残念ながら、このDVDではMCはカットされています。実際はトークも見所ですよね。
歌でお客さんを乗せてコンサートをつくっていくことが基本ですが、MCでお客さんを楽しく引っ張っていくことも必要ですので、MCは大事にしています。
――MCはアドリブでしょうか?
ある程度は基本を決めますけど、お客さんの反応に合わせて喋っています。1回目から完全に決めてしまうとつまらなくなってしまいます。昨年のコンサートは20カ所やっているので、途中でいろいろなハプニングもありました。その中で面白いものを取り入れたりするので、ツアーの前半と後半では全く違う話をしたり。全然受けないときもあります(笑)。
――テクニックですね。今年でライブが1500本を越えます。
11月からツアーが始まるのですが、あと5本ですね。
――それだけ長くやられていると、大きなハプニングもありましたか?
コンサートで声が出なくて、というのは昔ありましたね。NHK大河ドラマ「春の波濤」で川上音二郎の役をやっていて、リハーサルが月曜日で、火、水、木が撮影で金、土、日がコンサートでした。それでお芝居のほうで声を潰してしまったことがありました。お客さんには「すみません、今日は声が出なくて…」とステージで謝りました。
――2時間は歌わなければいけないのに、声が出ないというのは辛いですね。
結果、延期ということで何カ月か後に振り替えさせていただいて。近年のドラマは1クール3カ月のオンエアじゃないですか。自分がデビューをした頃は1年、短くても半年、その期間で60カ所くらい、撮影の合間を縫ってコンサートをしていました。だから「今ツアー中」という意識がなかったですね。
――それだけたて込んでいると、オンもオフもなさそうですね。
なかったですね。だから凄く働いてきたよね…。1974年にデビューですからね。たまたま主役でデビューして、デビュー曲がいきなり10週間オリコンで1位、そこからずっと歌い続けてきているので…まさかと思うくらい年月が経ちましたね。
――デビュー曲「ふれあい」はいきなりミリオンセールスですからね。
典型的な一発屋パターンだよね(笑)。主役デビューで曲が10週間1位なんて、その後が続く訳ないですから。けれど、その後も自分がドラマの主役をやって、その主題歌も歌って売れたという時期があったので一発屋にはならずに済みましたね。
――ミリオンセールスになった時はどんな心境でしたか?
ほんの1年前までは、貧乏大学生でバイトばかりして暮らして、大学4年生のときに文学座という劇団の研究生になって、その1年後にデビューして。若者相手のドラマだったので、若者には絶大な人気があったのですが、歌が売れたということで全国的になりました。街ではみんなが急激に自分のことを「あっ!」という感じで気づくようになって、大変でした。「みんなが俺のことを知っている」という急激な変化で。
――その頃の移動は電車でしょうか?
いえ、乗れなかったです。神奈川県の大船に撮影所があるのですが、渋谷からそこに毎日タクシーで行っていました。まあ、そんなことやっていたから貯金をするなんていう気は毛頭なくて。それまでは2000円持っていたら「これでビールを1本飲んで焼き鳥も…1800円くらいかな?」みたいな計算をしていたのに、デビューしたとたんに飲めや食えやで金額なんて気にしなかったですから。
――一般の感覚では決して味わえませんね。
当時思ったのは、人気者になるのはいいねということです(笑)。大学の頃までそんな経験ないですから。
今作は“チーム中村”で制作
――学生の頃から楽器はやられていた?
俺の世代は、みんな四畳半のアパートでギターを持って曲を作るという感じでしたね。自分もその中の一人です。けっこう大学時代は時間があったので、曲を作って、それをウチのクラブの人達に聴かせて喜んでいたので、どんどん曲を作って発表会みたいにやっていました。「昨日曲できたぞ!」「聴かせて下さい!」という感じで。
――曲作りは特に勉強をしなくてもできたのでしょうか?
意外と出来ましたね。ただ、いい曲が作れないだけで(笑)。あの時代に日記替わりに80曲くらい作りました。バインダーに歌詞とコードを書いておいて、裏側に作った日付を書いて、そのときの日記みたいにして。例えば「今日、電車に乗っていたらつり革の広告に『5月の風が…』」と書いてあったら<5月の風が♪>みたいな、そういう風に作ったりしていました。あと、大学に入って自分の地元の宮城県女川町へのホームシックになると「私の町」という歌を作りました。
――「私の町」は今でもライブで歌われますか?
ライブでは歌わないのですが、2014年に『ワスレナイ』というアルバムを出しまして、それにあえて入れました。40年以上前の録音ですが。遠くで聴こえる感じになっています。
――今でも作曲は続けられていますか?
今作のプレゼン用に作曲しました。落ちましたけど(笑)。
――聴きたかったですね。今回「どこへ時が流れても」は都志見隆さんと松井五郎さんで、ここ何年かはこのお2人の作品ですね。
そうですね。都志見さんとは『アクロス・ザ・ユニバース』というロサンゼルスで作ったアルバムがあるのですが、それが30年前なのでそのときからです。長い付き合いです。松井五郎さんもずっと。凄く仲良くなったのは、東日本大震災で被災して統合する小学校の校歌を作らせてもらって、そのときに俺が曲を作って、松井さんに歌詞を書いてもらいました。宮城の小学校へ行って、どういう曲にするかということを話したりして、その頃から急激に仲良くなったんです。
――プライベートでもお付き合いがあるのでしょうか?
都志見さんとは、一緒にゴルフに行ったり。あとは歌が出来ると歌唱指導もしてもらいます。普通はデモテープをもらって、それを覚えるのですが、会って話をすることも兼ねてという。あと、今作2曲の録音は都志見さんがレコーディングの時に、卓(ミキサー)に座って「ここはこう」という風にディレクションしてくれました。松井さんも最後まで立ち会ってくれて。だから今回は“チーム中村”みたいな感じで。
特に嬉しかったのは、都志見さんや松井さんがまた、前作、前々作とは違ったプレゼンをしてくれたことですね。「中村雅俊がこういう楽曲を歌うのもいいんじゃないか」という。
――今までとはアプローチが違う形で?
そうです。そういう風に2人が案を出してくれて、みんなで話をしたり考えたりして、それはそれでありがたいなと思いました。
時間が経ってから観ると一視聴者
――今作「どこへ時が流れても」の歌詞は話のスケール感が大きいですね。サビを一聴して考えさせられるような。
ターゲットは若い人向けではないかもしれないけれど、だからこそ俺自身も理解できるところがあって。
今回は、歌詞の世界観の理解も含めて、歌いやすかったと思います。メロディも今まで歌ってきた楽曲に比べるとシンプルになっているし。現に今回のレコーディングは調子が良くてものすごく短い時間で録音できましたよ。
――調子が悪いときは時間がかかってしまうものでしょうか?
かかりますね。希望するクオリティに届かないときもあったりして。
――そのようなときは一旦やめてしまうこともあるのでしょうか
そういうことは多々あります。やはり、ごまかしきれないというところがありますので。言い訳したくもないですから。でも、今回は早かったです。たぶん、喉の調子が良かったということ以上に、歌の解釈をきちんとできたことも大きいです。
――<人になるために生まれた>というところが深いです。生まれたときはまだ人ではなかったのだと。
その人の運命や使命に気付いたときに、その人の進むべき道や方向がわかる。そういったことを伝えたかった。そして、サビの「今を生きる」という部分でメロディが変わってグッとひきつけます。変わると同時に「今を生きる」というのは、良く使われる言葉なのだけど、こう長く生きていると実に重い言葉といいますか。若い頃はがむしゃらにやればいいというところがあったのだけど、自分の年齢くらいになると残りが限られてくるから、今日一日、今この瞬間を大事に生きようという意識になって来ます。
この年齢になると思いがけない事実がいっぱい出てくるのです。例えば自分の身体のことで言えば、内臓の調子がどう、あの数値が高くなってきた、昔はできたことが今はできなくなったなど、いろいろな事実の積み重ねで自分の現状の輪郭がはっきりしてくるようになります。
自分はどう生きるかというと、10、20年後どうこうというよりは「今だよ」、という気持ちになる人は多いと思います。
――使命感が出てくる、という話ですが中村さんが使命を感じ始めたのはいつ頃でしょうか?
デビューして、しばらく経って、自分がこの世界でやっていこうと思ったときです。最初は一等賞ばかりだったので、自分がどこへ行くのかわからないというか、「一発屋かな」と不安になったり、3年後にはもうこの仕事をしていないのかもなとか、漠然と考えていました。
75年にドラマ「俺たちの旅」をやった時に、番組の人気や主題歌(俺たちの旅)のヒットといった結果を受けて、俺はこの世界でやっていくんだという覚悟ができました。
現実にファンも付き始めて、自分が求められているのだなということがその場で実感できたりすると、だんだんと中村雅俊がやるべきことみたいなものがはっきりしてきました。使命と仕事はリンクすることがあるので、自分が生きていくということは、芝居をすることや歌を歌っていくことでした。自分がやらなければいけないことは、そういうことだと思いました。
――その考え方は今も変わらないですか?
一番は「求められている」ということですよね。学生の頃には「どうせ自分なんて居ても居なくてもいい」なんて思っている人が居るじゃないですか。自分の存在感が無いと思うと辛いですよね。自分が求められている、他人が存在を認めてくれるということは、生きていくエネルギーになりますよね。
ドラマではよく反省する
――2曲目の「まだ僕にできることがあるだろう」の歌詞で<後悔と失敗何度も乗り越えて>という部分がありますが、長年やられていて後悔した事柄もあるのでしょうか。
あります。ドラマはしょっちゅうです。撮影しているときは、良かれと思ってした芝居が、出来上がって客観的に観たときに「ああ! ここはこうだったな」とよく反省します。芝居には答えがいくつもある。自分がやることなすこと全部「いいねいいね!」という風には僕らは思えないので、よく反省します。それは先に繋ぐ為です。
――ライブでもそうなのでしょうか?
ライブは後悔が少ないです。何故かというと、歌詞を間違えたりとか失敗はありますが、自分一人で作るものではなくお客さんと作ることでの充実感がありますから。
――お芝居とライブとでは違うのですね。
ライブは大好きです。ある時期は勝敗をつけていたこともありました。ライブはお客さんと一緒につくるものなので、お客さんの反応が薄かったりすることもあって、「今日はいまいちだったな、おとといの方がよかったな」とういうように、自身の励みにするために勝敗表をつけてましたね。勝ちの方が多かったかな。
タイプとしては一生懸命やる方です。だから、歌に関しては失敗があっても後悔はあまり多くはないです。芝居に関して客観視したときに後悔するのは、いろいろな役者さんがそうだと思います。
――過去の作品を現在観たりしますか?
あまりないけど、観るときは観ますね。若いときの演技は若いなりに良いです。今はそういう芝居はしないかもしれないけど、やはり若さ故みたいな良さがあります。いずれにしても否定はしていません。
時間が経ってから観ると、一視聴者の目線になります。芝居をしてすぐに観るものは、反省が前提で採点をしながら観ています。でも20年くらい前のものを観ると普通に観客として観ることができるので、けっこう面白く感じるものが多いのです。
回り道があった方が彩りがある
――インターネットやSNSが普及してきて、中村さんから見て現在の状況をどう思いますか?
自分はあまりやらないので何とも言えないのですが、便利さ故の弊害というのもありますよね。昭和の人間なので、今は時短的なことが多いですが、昭和の時代はイメージ的には“手作り感”や“回り道”、“無駄”や“寄り道”、そういうものが多い生き方だったと思います。
無駄のない人生よりも、回り道があった方が彩りがあるというかね。便利さだけを追求していくと、味気なくなるというか、そういう感覚があります。便利なのはいいのだけど、それで相当失うものもあるんだなと思います。
――それこそレコーディングも今と昔は全然違いますよね。
本当にそうですよ。苦労して習得したり、結論を出したりというプロセスが良かった時代もありましたから。情報を得ることも、PCですぐに「はい、これね」というよりは、自分の足を使って調べ上げてきたりね。そういう中で思い出というか、「あのときはさ…」みたいなことが残りますし。まあ、自分もインターネットでだいぶ助かっていますけどね。でも、それだけではなとも思います。
――使うところを考えていかないと、それだけでは自分が駄目になってしまうという部分もあるかもしれないですね。
例えば俺はコンサートで歌詞モニターをつけないで、歌詞を全部覚えます。モニターで歌詞を見て歌う人も多いのだけど、あれをやると自分が駄目になると勝手に思っていて。だから、見ないで43年間ずっとやっています。歌詞や台詞を覚えるにしても、時間をかけて何度も何度もリピートしてやっています。100年前の役者さんと同じやり方でやっている。でも歳との戦いもあります。歌詞が出てこないときもあるので。
――そういうときはアドリブで乗り切ったり?
それは状況によります。コンサートは感情を積み木のように積み上げていきながら、お客さんと流れをつくっていくものです。コンサートをしていてピークに持って行くときに「間違えちゃった! もう一回!」とはできませんから。そういうプレッシャーもあります。アップテンポの曲はそうでもなかったりするのですが、自分の場合はバラードが多いので、そういう意味では絶対に間違えられない場面も多くありますから。
あとはお客さんとのバトルもありますからね。いくらファンで来てくれても「ライブがつまらない」という風になったら、来なくなってしまいますから。お客さんはその辺はハッキリしています。一見楽しいライブでも実は真剣勝負ですから。
いろいろな解釈があってこその歌
――7月にお亡くなりになってしまった、平尾昌晃さんの楽曲も過去に歌われていました。平尾さんとのエピソードはありますか?
藤田まことさんがずっと「必殺シリーズ」をやられていて。藤田さんは、1年間のうち1クールは舞台をやっていたので、その期間を誰かが担当することになります。そのとき自分に白羽の矢が立って、『必殺渡し人』を演じることになりました。
例えば、自分のドラマデビュー作は『われら青春!』なのですが、当時、青春ドラマの音楽は、いずみたくさんが曲を作るということが決まっていました。なので、デビュー曲の「ふれあい」もいずみたくさんが作っていて、そこに山川啓介さんが歌詞を書くという流れがあります。その中で「必殺シリーズ」は、ずっと平尾昌晃さんが曲を書くという決まりがありました。
(*編注:「必殺シリーズ」=1972年から放送された、朝日放送と松竹(京都映画撮影所、現・松竹撮影所)が共同製作・TBSテレビ系列(現在とネットワーク編成が異なる)の時代劇『必殺仕掛人』をはじめとする、関連した映画や舞台の総称。藤田まことはシリーズ2作目『必殺仕置人』で主演を務めた)
――そういう流れがあったのですね。
平尾さんに書いていただいた「瞬間の愛(ひとときのあい)」は、相像を超えて良い曲でした。ドラマチックだしメロディも良くて。
『必殺渡し人』をやっていたときはお会い出来なかったけど、プライベートで空港で会ったりして。その度に言われることは「ゴルフコンペに出て」って(笑)。平尾さんが主催していたゴルフコンペがあったのですが、5、6回言われましたね。結局1回も出られなかったのですが。
だから凄く中途半端な付き合い方をしてしまったなと。平尾さんのときもそうでしたが、特に山川さんが亡くなられたときは、最近会っていなかったので、会っておけばよかったな、と思いました。
山川さんが書いてくれた「時代遅れの恋人たち」の頃はしょっちゅう会っていて、いつも文学青年みたいな感じの良い人で。軽井沢に引っ越しをして、そこから会わなくなってしまいました。山川さんにお願いすることもあったのに…と思って。それこそ僕にまだできることがあるだろう、ではないけれどね。残念、後悔というのはあります。
――最後に「どこへ時が流れても」は、若い方にどう聴いてもらいたい、という思いはありますか?
歌っていていつも思うのですが、俺が言ってしまうと「そういう意味なんだ」という先入観を作るので、100人いたら100通りの感じ方をして欲しいなと思います。それが歌の持つ特徴でもあるかなと。これを聴いて「これは自分の歌じゃない」「これは僕の生き方とちょっと反する」と感じてもらってもいいですし。
そう感じてくれるということは、きちんと歌詞が伝わっているのだなと思います。だからこれを聴いた人が極論でラブソングだと感じてくれてもいい。いろいろな解釈があってこその歌なんだと思います。
【取材=村上順一】