牛来美佳「巡り合わせやご縁に感謝」震災から12年、いま何を思う
INTERVIEW

牛来美佳

「巡り合わせやご縁に感謝」震災から12年、いま何を思う


記者:村上順一

撮影:村上順一

掲載:23年03月11日

読了時間:約11分

 シンガーソングライターの牛来美佳が2月22日、1stシングル「いつかまた浪江の空を」をリリースした。昨年3月11日にメジャーデビューシングルとして配信リリースされた同曲がCDとして発売。福島県浪江町で暮らしていた牛来美佳は、2011年3月11日、東日本大震災の被害に遭い、群馬県太田市に娘と2人で移住し生活している。シングル表題曲「いつかまた浪江の空を」は、震災前に開催された浪江町のイベントで知り合った、東方神起、西野カナ、JUJU、AKB48などの楽曲を手掛けた音楽家の山本加津彦氏との共作で、2015年にYouTube上で発表。コーラスには、当時二本松市の仮校舎に通う浪江町出身の小学生全21人が参加している。震災から12年、被災者でもある牛来はいま何を思うのか。2月23日に開催された『牛来美佳CDリリース記念 復興支援ライブ2023』のことや、歌い続ける原動力など、話を聞いた。

出会いの中で私は歌わせてもらえている

村上順一

牛来美佳

――2月23日に、「牛来美佳CDリリース記念 復興支援ライブ2023」がありましたが、いかがでしたか。

 G-namie プロジェクトは、2018年の開催に向けて立ち上がったプロジェクトなんですけど、今回は第6回目に当たる開催でした。過去一の短期間での準備になってしまい、チケット販売もお正月明けになってしまったくらいバタバタで。「100人くらい来てくれたらいいね」と話していたんですけど、なんと200人を超えたんです。

――想定していたものを超えたんですね。6回目、どんなライブになったと感じていますか。

 言葉を届けるようなステージになりました。そして、プロジェクトチームの絆というのも、年々強くなっていることを感じたライブでした。短期間でしっかりできたのは、一人ひとりのお力添えがあってのことだと思い、感謝が溢れるコンサートでした。

――2021年に一度このコンサートは終わりを迎えましたよね?
 
 はい。震災10年という節目までできればいいなと思って始めたプロジェクトでした。それが2021年だったので、その節目まで続けられたことと、コロナ禍で先々が見えないところで、最終回とさせていただきました。でも、少しずつ広がっていったプロジェクト、イベントだったので、終わってしまうことを惜しまれる方がたくさんいました。それもあって開催できる状況が整えば、開催していきたいなと思ったんです。

 2022年は私がシンガーソングライターとして活動が始まってから10周年でした。10周年に向けて、特別企画としてやろうよとなって。そして、その節目の年にキングレコードさんから配信リリースが決まったのも何かの巡り合わせなのかなと思い、開催に繋がりました。その時に来年も続けていきたい、という仲間の声もありまして、漠然とですが「来年もやりますか」となって。そうしたら今度はCDリリースが決まったので、この大きな一歩を記念して今回も特別企画として行うことになりました。

――でも、なぜ今回、準備がバタバタになってしまったんですか。

 本当は今年の9月に会場を予約していたのですが、CDリリースから半年以上も経ってしまうので、リリース記念ライブというのもちょっと時間が空きすぎてしまうと思いました。それで、会場の太田市民会館を改めて予約するところから始まって、今年の近々で空いている日程が2月23日しかなかったんです。なので、そこを押さえたのは良かったのですが、急いで準備するしかないとなって。あと、問題がありました。いつもライブを開催するときは前日を準備に当てていて、会場を2日間押さえているのですが、2月22日がすでに埋まっていたので、どうしようと思って。

――準備ができない。

 でも奇跡が起きました。昨年末に2月22日がキャンセルになって、その日を準備に当てることができたんです。もし、23日しか空いてなかったら、朝から音響さんが組み立てて、1日完結でやることになったので、相当大変なことになったんじゃないかなと思います。

――奇跡がおきたんですね。さて、今年で震災から12年、いまだに深く傷跡が残っていますが、牛来さんは今どう感じていますか。

 震災直後に遡れば遡るほど、悲惨でしかなかったです。浪江町は置き去りにされた町で、今でも倒れそうな状態の建物が残っていたり、海沿いは津波で壊滅的な被害がありました。そういったことが手つかずに残された、誰一人いなくなった町というのは忘れられない景色でもあります。そこで自分が経験したことを、勝手な使命感なんですけど、音楽の力を信じて伝えていく決心をして、この活動を始めました。

――この12年間、どのような変化を感じていますか。

 どこに届くかもわからないけど、伝えなければいけない、という自分の思いが強くありました。「いつかまた浪江の空を」という楽曲を発表してから、震災によって出会った人たちに支えられて今歌えているということは、大きな変化だと感じています。最初は震災さえなければこんな思いもすることはなかった、と思っていました。それは当たり前の感情だったと思います。音楽の力と言いますか、音楽と共に歩んできた中で、震災後に出会った人たちから改めて気づかされた巡り合わせやご縁に感謝があります。震災直後の気持ちなど、伝えたいことの軸は変わらないのですが、出会いの中で私はこうやって歌わせてもらえているんだ、という気持ちは12年間のなかで一番大きい変化でした。

――この曲を歌えるようになるまで、すごく時間が掛かったみたいですね。

 山本さんが、震災前に浪江町で開催された音楽フェス『ストリートミュージックフェスタinなみえ』に出演してくださったのですが、私はその実行委員をやっていて、そのライブに私も出演していました。その時の浪江町の空が綺麗だったと山本さんは仰っていて、また浪江の空の下でみんなで集まって、笑顔が溢れて生活が潤いますように、という願いを込めた曲なんです。この曲を作った時、震災から2年〜3年後でまだゴーストタウンのような状態でした。私は「この状況を伝えずに何を伝えるんだ」という気持ちが強かったんです。「いつかまた浪江の空を」で描いているような、ちょっと先の未来を山本さんと一緒に作ったのですが、私の気持ちが全く入っていかなくて。私が伝えたいことがこの歌詞にはない、と思ってしまいました。

――気持ちとシンクロしなかったんですね。

 私、車で音楽をランダムに掛けているんですけど、この曲のイントロが聴こえてきただけで、止めてしまうくらい拒否するようになっていて。山本さんは、「焦らなくていいよ。この曲は誰でも歌える曲ではないから」と仰ってくださいました。おそらくその言葉が私の中に残っていたんですよね。私しか歌えない、私しかいないんだという、それが少なからずプレッシャーにもなっていたと思います。人生でこんなに拒否するようになった曲はなかったですし、当時考えられない言葉が乗せられているのが、嫌だったんだと思います。

――それほど曲と向き合っていたんですね。

 ライブ活動は続いていくわけで、その中でふと気付いたんです。震災がなければ、この人たちには出会えなかったんだって。これまでもこれからも、「震災があって良かった」なんて思わないし、肯定することは絶対にないけれど、震災がなければ、この人たちとの出会いがなかったというところで、力が抜けたんです。新しいカタチだけど浪江町が復興して、震災前よりたくさんの人が住んでいる。私が生きている間にそうなる可能性があるなら、その浪江町を見てみたいと思いました。そういう瞬間を私は願っているし、諦めたくないという気持ちになり、スッとこの曲に入ることができました。2014年の年末に差し掛かる頃に、山本さんに「やっぱり私、歌います」と伝えました。山本さんもようやく曲と向き合えたんだな、と思っていただいたんじゃないかなと思います。

――そして、レコーディングすることになって。

 はい。レコーディングしていく中で、子どもの声が聞こえてきた気がしました。それで、山本さんに「子どもの声のイメージが湧いてきました」とお話ししたら、山本さんも「僕もそう思ったんだよ」と、イメージがシンクロしました。それで、浪江町を通じてご協力いただいて、福島県二本松市の仮校舎に通う、全校生徒21名の浪江町の子どもたちに参加していただきました。2015年の3月11日に、YouTubeで発表するところまで辿りつくことができました。

伝えたかった言葉がしっかり伝わっていることを実感した瞬間

――牛来さんが最初に書いていた歌詞は、今とは違いますよね? どんな感じだったのでしょうか。

 今の歌詞はすごくシンプルだと思います。最初は文字数とか気にせずに、作文のように書いていて、伝えたいことが多すぎてごちゃごちゃしていました。今でもたまに当時の作詞ノートを見返すことがあるんですけど、その中に他とは趣が違うのがあって、それが「いつかまた浪江の空を」なんです。「また会いたい」「あの空の下」とか、思いついた言葉を色々書いていたのですが、中には「いつかそんな日がくるのだろうか」みたいな書き方をしていたり。

――希望をあまり見出せていないですよね。

 そうなんです。ストレートすぎたところがあったので、山本さんに相談して、表現を変えたり整えていただいて、今のカタチになりました。

――そういえば、一度浪江町に娘さんと帰宅されたとお聞きしたのですが、お住まいは今も群馬ですよね?

 はい。2017年に「一時帰宅」というカタチで娘の凜音と当時住んでいたアパートに行きました。町全体が警戒区域になっていた頃は、妊婦さんと未成年者は申請対象外で入域することは認められておらず、震災当時、娘は5歳だったので申請することすらできず、町を見せることもできなかったんです。私が音楽活動や講演会をお願いされることがあったので、一時帰宅した際に、ビデオを撮ったものを見せてあげたりしていたのですが、写真やビデオではなく、いつかちゃんと見せたいと思っていました。解除されるまでの空白の6年がある中で、いきなり見せたらどんな風に娘は感じるんだろうと思い、解除される前日に娘に町を見たいかどうか聞きました。そうしたら、「見たい」と即答だったんです。

――娘さんは自分が住んでいたアパートを見て、どんな反応をされていました?

 娘は「靴のままお部屋に入っていいの?」って。私は何度かアパートに訪れて部屋を片付けていたので、次第にこういうものなんだと慣れてしまっていたんですけど、娘はそれに驚いていて。そのあとは押入れを見たりして、「これ、私が昔遊んでた掃除機だ!」と思いだして。おもちゃの掃除機なんですけど、掃除をする私の真似をしていたんです。

――地震のことも思い出してしまいそうで、ちょっと不安を感じる部分もありますね。

 そうですね。でも、泣き崩れてしまうとかはなくて、淡々としているところはありました。震災の日も泣いたりせず、余震が続いていて、怖がっている子どももいましたけど、そういう子を見て「かわいそう」と言うんです。自分も同じ境遇なはずなのに、どこか冷静なところは当時からありました。

――お子さんへの教育として、言い聞かせていたことはあったのでしょうか。

 私が20歳頃に産んだ子で、母子家庭で育てていました。「ひとり親だから」と世間に思われたくなかったので、ちょっと厳しく育てていたところがあったと思います。自分のことはなるべく自分でやらせたりしていました。娘は今年18歳になるんですけど、同じ女性同士ということもあるのか、今ではすっかり私に対して上から目線の時もあって(笑)。

――音楽活動は応援してくれているんでよね。

 応援してくれています。とはいえ、お年頃なのか「別に」みたいな感じで返されてしまうこともあって(笑)。でも、2013年に自主制作した2ndアルバム『I Sing a ■ song for...peace』(■は黒塗りハートマーク)に、娘のことを書いた「RIN_ON」という曲があるんですけど、今でもその曲は聴いてくれていて、自分のことを歌っている曲だと娘も認識もしているんです。「改めて自分のことを思って書かれた曲がこの世にあるというのはすごいなと思った」と去年話してくれたんですけど、嬉しかったです。今回もCDをリリースすることについて、「どう?」って聞いたら、娘は、「いやーまだ実感がないんですよね」って(笑)。

――ははは(笑)。牛来さんは実感されてますよね?

村上順一

牛来美佳

 そういう私もリリース日の翌日に開催するプロジェクトライブの準備に追われていたので、「そういえば今日リリース日だった」みたいな感覚でした。過去に自主制作でCDは作ってきていたので、それも特別な思いがありますが、人との出会いやここまでの歩みを含めた集大成といった感覚が、今回のCDにはあり感慨深い1枚になりました。

――ところで、ももいろクローバーZの佐々木彩夏さん率いる、浪江女子発組合が、「いつかまた浪江の空を」をカバーされていましたが、ご自身以外の方がこの曲を歌うことについて、どう感じていたのでしょうか。

 一人で想いを背負って孤独に歩いてる、そんな気持ちをどこかに抱えながら歌っていたのですが、振り向けばこの曲に同じ想いを寄せてくださる人たちが沢山いるんですよね。浪江女子発組合の皆さんにカバーしていただいて、私にはできない広がり方というのを感じ、すごく感動しました。

――曲が巣立っていくような感覚もあるんですね。そんな牛来さんは、どんな気持ちで歌っているのでしょうか。

 伝えるためだけの歌を歌っている、それだけなんです。苦しんでいて、「もう私なんか」と思っている人が、私の1曲で頑張ろうと、前を向いていく気持ちになってくれたらいいなと思っています。もしかしたら私の曲が人生を変えるかもしれないですし、たった1行の言葉が変えるかもしれない。いい意味でその人の人生を変えられる歌い手でありたいと思っています。

――牛来さんの音楽、歌を聴いた方が掛けてくれた言葉で、印象的だったものは?

 シンプルに「頑張れる」と言ってもらえるだけでも嬉しいのですが、「言葉が伝わる歌い手」と言ってもらえたことです。それは私が目指していることでもあるので、すごく嬉しかったです。私のライブを観て絵を描いてくれた子どもがいたのですが、それは涙がこぼれている絵でした。ライブが終わったあとその絵をいただいて、「心では泣いているのに、優しい声で歌ってる」と言ってもらえたことが、すごく印象に残っています。歌から言葉以上のことを感じ取ってくれて、伝えたかった言葉がしっかり伝わっていることが実感できると、「歌っていて良かった」と思いますし、そういった言葉が私の原動力にも繋がっています。

(おわり)

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