ICEの30周年を迎えて、初期のアルバム4作品がアナログレコードでリリースされることになった。2023年に聴く初期のICEは、まるでアシッドジャズ。故・宮内和之のブラック・ミュージックへの愛情が、同時代性とともに充満しており、それをミューズである国岡真由美が歌いあげる。音楽的には当時の渋谷系と共鳴するものの、そのコミュニティにはいなかった感もあるICEは、どうやって初期作品を生みだしていったのだろうか? 今回リイシューされる「ICE」「WAKE UP EVERYBODY」「ICE III」「We're in the Mood」について、国岡、そしてICEのA&Rであった土屋望氏に聞いた。(取材・文=宗像明将)

1st「ICE」(1993年)

――土屋さんが当時の東芝EMIに入社されたのは何年だったんですか?

土屋:89年です。最初の配属は邦楽宣伝で制作は91年からです。異動の半年後にはICEのメジャー・デビュー構想を練り始めていました。

――ICEのメジャー・デビューは93年だから、土屋さんは入社4年目ぐらいじゃないですか、早いですよね。

国岡:心の準備ができないまま、なんかレールに乗っちゃったから、「ええっ、デビュー決まったんだ!?」みたいな。

土屋:とにかく僕は一刻も早く新人アーティストをデビューさせないといけないと思っていて、ICEを多少急いで準備してました。

国岡:土屋さんとの関係が無かったら、デビューできてるかどうかもわからないなって思います。

土屋:2人の努力とタイミングが1年後(92年)くらいにうまくハマった感じです。メジャー契約の決め手になったのは「KISS YOUR LIPS」という楽曲のdemoでした。

――そして1993年にファースト・アルバム「ICE」がリリースされましたね。「K.M JAM#1」はアシッドジャズ、「PM 7:05」がジャズ、「AM 3:35」がブレイクビーツなど、インストルメンタルはかなり尖っていますね。アルバムのイメージはどういうものでしたか?

国岡:ごめんなさい、私はそのときはもう本当に歌うしかないから(笑)。でも、宮内君は、アルバム・アーティストとしてアルバム1枚で世界観を作りたいっていうのはずっと言っていて。

土屋:ICEはギタリストとヴォーカルの2人組というより、プロデューサーとヴォーカリストのユニットという解釈が正しいです。デビューアルバムは「宮内のピクチャー(世界観)をどう表現していくか」という中で「アルバム=ひとつの映画」という意識で臨んでました。いろいろなケースがあって、トラックはできたけどうまくトップライン(メロディー)
が乗らなくて、「インタールードにしちゃうか」とスタジオで宮内が言いだしてその場で作ったりしてましたね。最初の作品なので、まずはICEの世界観そのものを世間にオリエンテーションしたいという感覚があったと思います。

――「PRECIOUS LOVE」はファンキーなビートで、「MISTY」はミディアムナンバーとして洗練されていて、「TELL THE TRUTH」のブレイクビーツに歌を乗せているなど多彩ですね。かなり難しかったのではないでしょうか?

国岡:難しかった……と思います(笑)。もう一生懸命にやってOK待ちって感じですから、OKが出るまで歌うみたいな。レコーディングは疲れ果てた気がしますね(笑)。若かったから、夜中までやったり。

――国岡さんは当時こういうブラック・ミュージックは聴いていたのでしょうか?

国岡:洋楽は、宮内君が聴いてるものを教えてもらったりして、一緒に聴いてましたね。

――そうやって吸収しながら疲れ果てるまで歌ってたんですね。

土屋:宮内は、格闘家と研究者の両面があるタイプの男です(笑)彼と散々話した上で、ICEの真価は1曲では問えないと判断して意図的にアルバム・デビューを選びました。ですから通常とは逆順ですが1stシングルの[FUTURE]はアルバムの3か月後にリリースしました。当時は90年代で音楽業界全体がシングル主義みたいな感じだったので、新人のアルバムデビューに対して東芝EMI周辺はあまりウェルカムじゃなかったと思います。僕としてはいろいろなアドバイスや反対意見の海をフラフラ泳ぎながら、協力者をひとりずつ増やしていって、なんとかアルバムデビューに漕ぎ着けた感じでした。

 そしてデビュー盤がリリースされた頃には、既に2ndアルバムのdemo作りを始めていました。当時はほぼ毎日、三軒茶屋のスタジオであーだこーだとサウンドの研究をしてましたね。宮内が「プリンスは楽曲のストックがアルバム10枚分以上あるらしい」と言って「俺たちもストックを作るぞ」みたいな(笑)トラックとトップラインがある程度のレベルになったら仮詞を当てて、国岡に歌ってもらって、、、の日々でした。

――レコーディングだけではなく、取材も多かったですよね。

国岡:もう初めてなので、それも一生懸命ですよね。でも、取材を受けても、とにかく歌うことしかしてないから、聞かれても何も答えようがないっていうか。取材の受け方も「なんかそれらしい発言をした方がいいのかな?」みたいな感じでしたね(笑)。宮内君が音楽にこだわって作ってるから、取材に来る人が、みんな私も音楽に詳しい人だと思ってて、余計に「そんな質問されてもわからない」みたいな(笑)。
土屋:国岡はとてもフォトジェニックなので、メディアの方々も興味津々なんですよ。でも宮内はすごく喋りますが国岡はほとんど喋らない。それがさらにミステリアスな魅力を生み出して良いコントラストになってましたね。

2nd「WAKE UP EVERYBODY」(1994年)

――1994年のセカンド・アルバム「WAKE UP EVERYBODY」は、「KM JAM #2(Clap Your Hands,Stomp Your Feet)」になると、まるでスパイ映画のサウンドトラックのようですし、「JUNKFOOD JENNY」はオルガンの音色がブルージーで、「BLACK SUGAR DREAM」のようなジャズファンクもあります。ヴォーカルも早い変化を求められたのではないでしょうか?

国岡:デビューして1枚目を出した後にライヴをやったんですよね。やっぱりライヴをやると、ちょっと歌の感じも変わりますよね。そういう変化もあって、この時期は凝縮されてたから自然と成長していけた感じだと思いますね。

――当時のライヴのお客さんはどんな人たちでしたか?

国岡:だいたい同年代っぽかったですね、若くて。

――「MOON CHILD」が先行シングルとして発売されましたが、歌モノとしてヒットすることを狙って制作されたのでしょうか?

土屋:僕は最初にデモで聴いたときにトップライン(メロディー)が素晴らしいと感じました。これはスケールするんじゃないかと思って「この曲はすごい!」と何度も宮内を称えた覚えがあります(笑)サウンドは本当にいろいろな試行錯誤を経て出来上がりました。2ndシングル「MOON CHILD」の後、アルバムを挟んで3rdシングル「SLOW LOVE」がリリースされましたが、実はこの2曲は同時期に制作されてます。僕の中では「MOON CHILD」「SLOW LOVE」の順番でチャンスが来る感覚でしたが、宮内は「SLOW LOVE」が先だ!と言ってお互い譲りませんでした。彼は照れ屋でたまに天邪鬼気質もある人だったので、もしかしたら僕が「MOON CHILD」のdemoを褒め過ぎたせいかも知れませんが、最後までなかなか折り合いがつかなくて大変でした。

――これだけサウンドが尖っていたのにセールスが上がっていった要因はなんでしょうか?

土屋:その時代の新しいテクノロジーも、新しいサウンドも取捨選択しながら取り入れて、そこに20-30年前のソウルとロックのテイストが有形無形に絡んでくる。宮内特有のピクチャーが時代に溶けていった感触がすごくありました。ICEは終始一貫、その繰り返しです。いろんな実験を試みていますが、宮内自身はすごくシンプルな人間なので、サウンドや構成も基本的にシンプルに出来てます。国内で他のアーティストの方々を意識するようなことは特になく、ICEの在り方だけにフォーカスして取り組んでました。それが上手く時代とマッチングしたんだと思います。

 宮内はいい意味で音楽的雑食で、ロック系ギタリスト、ソウルグルーヴ重視系だと通常弾かれる甘いストリングス、キラキラのハープサウンドのような装飾系の上物が大好物で(笑)、そういうゴージャス系が入って自分のギターが聴こえづらくなっても全く気にしていない。彼は格闘家で研究者でロマンチストでもあるんです。結果的に国岡の声とICEサウンドのマッチングはすごくオリジナリティがあったんじゃないかなって思います。

――「MOON CHILD」のMVはYouTubeで公式に公開されて、たくさんコメントが付いていますね。自分の青春だ、という声もたくさんあります。国岡さんはそういう広がりをどう受けとめていましたか?

国岡:どう受け止めてたんだろう? 「なんで人気上がっていくのかな?」みたいな感じでした(笑)。単純に嬉しいですよね。でも、理由はわからないみたいな。どういうふうに感じてたんだろうな……あれ、覚えてないかもな? そういうのよりも、忙しさのほうが上回っていたような気がします。「チャート何位になったよ」とか聞いて、「あ、そうなんだ、良かったね」みたいな感じだった気がします。

3rd「ICE III」(1994年)

――1994年には、サード・アルバムの「ICE III」もリリースされています。10か月のインターバルで、1年に2枚の制作ペースは大変だったのではないでしょうか?

国岡:休みがないわけじゃないんですけど、でもずっと動いてた感じがありますよね。後から宮内君に話を聞くと、1枚じゃ自分の音楽を表現ができないから、3枚でとりあえず表現するっていうことを言ってたから、最初から3枚出すって決めてたんじゃないかなと思いますね。

――「Too Much Trouble Town」はいきなりのミネアポリス・ファンクで驚きました。サウンドの広がりをどう見ていましたか? 逆に「宮内君はこういうもんだろう」みたいな?

国岡:そうです(笑)。私、音楽詳しくないぶん、ジャンルで聴いてないし、ジャンルで歌ってないから、「あっ、次はこんな感じなんだ」とか「あ、気持ちいいよね、かっこいいよね」って思いながら歌う感じでした。それは今も変わらないですね。

――「kozmic blue」ではこれまでになく低いキーを使ったR&Bナンバーですし、「No-No-Boy」はギターリフが鳴り響くソウル・ナンバーです。アルバムごとに新しいチャレンジが待っていたのではないでしょうか?

土屋:国岡にはいい意味で女優性みたいなのがありますね。いろんな役を演じるのが上手い。

国岡:それによって成長できたっていう感じですね。演じきれてはいないという認識ですけど、あの時点でのベストを歌ってきているっていう感じですよね。本当はもっと、もっと上を要求してたかもしれないけれども、そのときはそれが精一杯だと思うんですよね。でも、今振り返ると、もうそういう作品っていうことなんだなって思います。

――ボサノヴァのインストルメンタルの「GURUNIPARSHA(Relax)」から、ラヴァーズロックの「Isn’t It A Shame」へつながる流れにもしびれます。サウンドの多様化をどう見ていましたか?

国岡:全然話してないです。でも、私がこの曲好きだとか、このアーティストにハマってるとか、そういう発言はしてて、宮内君もそれを聞いて「今こういうのが好きなんだ、じゃあ、こういう感じの曲を作ってみようか」とか、もしかしたら彼の中であったんじゃないかなって今振り返ると思います。当時は気がついていなかったけれども。

――国岡さんのリスナーとしてのアンテナも意識していたんですね。

国岡:私が心地良く、気持ちよく歌える作品も、プロデューサーだから考えてやってくれてたんだろうな、っていうのは今になって思いますね(笑)。

土屋:国岡に大きなポテンシャルを感じて、宮内は「国岡を通して自分の才能、作品を発表して行くんだ」ということを本当に決意した瞬間があったと思います。彼女の努力(歌)がそうさせたのです。デビュー当初の宮内はまだ前に出たがっていましたが、2枚目以降は全くそれがなくなりました。「ICEと世の中とのインターフェイスは国岡がベスト」という確信を持てたからでしょう。

 彼女はさっきからいろいろな質問に対して「私は考えてませんでした」的な答えが多いじゃないですか。実はこれがICEの一番特徴だと思っていて、ブランディングが上手くいったのもこれが理由じゃないかと。どういうことかと言うと、例えばクリエイティブ方面に2人とも入り込むと、大体途中で方向性の違いとかが出現しますが、ICEは最初から自然に役割分担が明確でお互いに領域を侵さない(笑)それをずっとひたすら貫き通してきました。でも経験値は増えるからその都度ブラッシュアップしていくみたいな感じで。珍しいケースですが長続きの大事な要因かなと思います。

4th「We're In The Mood」(1996年)

――1996年の「We're In The Mood」が前作から1年以上空いたのは、制作に時間がかかったのでしょうか?

国岡:いや、たぶん休んだりはしてたんじゃないですか。宮内君は、もう日常の中で制作のことを考えてたと思いますけど、ちょっと余裕はできてたんじゃないですかね。

――このアルバムで初のベスト10入りを果たしました。環境や感覚に変化はありましたか?

土屋:常々、ICEはもっとたくさんの人に聴かれるべきだと思っていたので、僕は4枚目はそのことに集中してました。楽曲的にはICEのポップミュージック性をより強く打ち出して行けるように宮内と何度も話し合いました。展開的にはもう一段上にスケールさせるために東芝EMIのスタッフに更なるサポートを要請しました。具体的には東京、大阪はTVでのパフォーマンス出演の強化、全国的にはスタッフキャンペーンを組んでFM局のオンエア強化、特番の編成のお願いに奔走しました。今までの3枚をベースにして、ここから一気に広げていきたいと思ってましたね。

――ストレートにソウルフルな楽曲が増えています。この時期にどういう変化があったのでしょうか?

土屋:それは間違いなく国岡のヴォーカリストとしての成長が要因です。その頃は彼女自身が目指す歌のレベルがかなり上がったなと感じてました。歌入れのスタジオの緊張感も半端なかった(笑)実はある時、急に宮内から国岡のヴォーカル録りのディレクションを頼まれました。「今やあいつの方が上に行っちゃってて、俺がやっているとなかなかうまくいかないんだよ」と。ちょうど彼女が自分の意思で歌いたいという欲求が強く出てきて、それをどういうふうにうまく生かせるかを考えていたのが4枚目でしたね。宮内のセリフで覚えてるのは、「俺がOK出してもあいつやめないんだよ、だから事態は俺の手を離れた」と(笑)それで僕が急に登板したりしましたね。

国岡:「これぐらいまで歌いたい」という設定があったんだと思います。私がこだわりすぎてたっていうこともあると思います。今振り返ると、宮内君のOKのラインで良かったんだと思うんですけどね。でも、その頃は私もけっこうワガママだったり、甘えもあったから、「それのどこがOKなのよ? なんでOKなの?」と思ったりして(笑)。

土屋:デビュー前から、宮内にプロデューサーとしての器量があることは分かってましたが、予想を超えた国岡の成長がやぱり大きかったです。どんどん、良い意味で力関係が逆転して。宮内がヴォーカル録りの現場から姿を消すと、国岡がますます女優として自分の目指す理想の演技を始めたという感じですよね。4枚目は彼女の歌の表現力、声の存在感がアップデートして1曲1曲の解像度が上がりました。それに伴って宮内が作る楽曲、サウンドの振り幅もさらに広がっていきました。結果的にこの後のICE中期のアルバムに繋がるターニングポイントのアルバムになりました。

――今回、改めて初期作品4枚を聴いていかがでしょうか?

国岡:どんな人にも聴いてほしいですね。アルバムの変化の流れを感じて聴いてほしいなって思います。

――初期作品集って、アーティストの方は気恥ずかしいっていう気持ちがあったりすることも多いですよね。

国岡;でも、愛おしくて、「あ、頑張ってたな」みたいな。当時の自分に対してそういう感覚が芽生えたので、恥ずかしい部分はありますけど、聴いてほしいですよね。

土屋:これもずっと通底してることですが、聴き方を強要してない音楽だと思います。リスナーのその時の感情や、その瞬間に、それぞれ溶けていくようなボーカルとサウンドです。特に都市、夜、車というシチュエーションで聴くと、曲が変わってもずっと同じような雰囲気でいられると思うので、「ICE」という普遍性のあるプレイリストを、30年の時を経てもう1回提案できるかなっていう感じはしますね。

(おわり)

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