INTERVIEW

ヤマザキマリ

「テルマエ・ロマエ ノヴァエ」を語る


記者:村上順一

写真:提供写真

掲載:22年03月28日

読了時間:約11分

 ヤマザキマリ氏原作のコミック『テルマエ・ロマエ』を約10年ぶりにアニメ化した「テルマエ・ロマエ ノヴァエ」が Netflixで3月28日より全世界で配信される。ローマ帝国で浴場技師として伸び悩む青年ルシウス役は津田健次郎が演じる。そして、今回ヤマザキマリ氏本人がシリーズ構成として参加。さらに各話エンディング前に流れる、日本各地の名泉を巡るミニ実写エピソード「テルマエ・ロマエ巡湯記」にもヤマザキマリ氏が登場する。MusicVoiceではヤマザキマリ氏に「もっとレイヤーを沢山付けていきたい」と話す「テルマエ・ロマエ ノヴァエ」で感じたことや、入浴がもたらす効果、人生観など多岐に亘り話を聞いた。【取材=村上順一】

これまでとは全然違ったルシウスになった

ヤマザキマリ

――『テルマエ・ロマエ』は2008年の連載から14年が経過し、今回、Netflixで全世界配信されますが、どう感じていますか。

 私にとっては様々な経験がベースとなって生まれた、大変思い入れのある作品なので、メンテナンスは怠りたくないですし、連載時には間に合わなかったアイデアを新しいもっとレイヤーとして増やしたい、という思いもありました。それを今回のアニメによって実現していただいたので、とても嬉しいです。

――約10年前にもアニメ化されていましたが、新たにアニメ化するにあたって、望まれたことや期待したことはありましたか。

 前回はFLASHアニメーションと言って、実写版のプロモート的な意味をなしていた宣伝的要素の強いアニメでした。それはそれで大変面白かったのですけど、実は心の中で本格的なアニメーションで見てみたかったな、というのがありました。それから、漫画でのスピンオフとしてルシウスの家族背景や江戸時代へのタイムスリップといったエピソードも考えていたので、それをアニメで実践していただきました。あと、実写版では使われませんでしたが、漫画として私にとって思い入れのあるエピソードをいくつか入れて頂きました。

――今回、シリーズ構成にも携わっていますが、過去にも構成はやられたことはあったのでしょうか。

 ありません。今回はストーリーの構成や作画の監修だけではなく、脚本に関しても細かい言い回しなど補足させていただきました。原作者が制作に対して直接携わるのは大事なことだと思います。

 受け入れられやすさや、定型の構成を意識するのは必要だとは思うのですが、何でもかんでも経済的な利便性に転換してしまうと、失われてしまうものもあるでしょう。私は元々油絵というファインアートの世界の人間なので、そういうことをやはり意識してしまいます。多少わかりにくくても、ニッチであっても、マニアックな人間じゃなければ出せないおかしな世界を視聴者の方にもみていただきたい。『テルマエ・ロマエ』という漫画の主人公自身がそもそもそういう人なわけですからね。単に面白おかしいコメディものとして読んでいただきつつも、ルシウスの妥協のない探究心や好奇心は思い切り演出してもらいたいというのがあったので、今回のアニメはそこがいい塩梅に演出さていると思います。

――今回ルシウス役を務めた津田健次郎さんの声にどのような印象を持たれましたか。

 今までFLASHアニメーションのルシウスと阿部寛さんが演じていただいたルシウスと数パターンあるわけですよね。今回、津田健次郎さんが声を吹き込んだルシウスは、これまでとは全然違いました。今までよりも気骨で実直なんだけど、おちゃめ感が増してると言いますか。現代の若者たちに一層感情移入しやすいようなルシウスに仕上がっているのかなと思います。

 例えば、一つのことに狭窄的になって行き過ぎちゃうような若者っていると思うけど、今回のルシウスはそれに近い感じがしますね。声によってこんなに変わるんだという感動がありました。同じ作品であっても声によって、性格が出てくることをこれほど感じたことはないですね。津田さんが演じてるルシウスを見たときに「へえ、ルシウスってこんな声出すんだ」と思うときがあって、それは非常に新しいですね。原作者から声優さんに至るまで、ひとつの作品を共同制作するというのは音楽で言うところのまさにグルーヴですよ。ジャズセッションと同じような感覚がありました。

 ルシウスは掘っていけば掘っていくほど改めて面白いキャラクターだなと思います。あの人は一筋縄じゃない、人の顔色を見てきている人じゃないから、描いていてそこがとても面白い。私が描く作品の主人公は概ねそういう人たちばっかりなんですけど、それは精神科医の先生に言わせてみれば、ある種の学習障害的性質ということになるらしいです。

 一つのことにものすごくこだわりすぎて、他者の追従を許さない天才性が露呈し始める。でもそういう人は描いてて本当に面白いし、勉強になる。社会性を持てないので群の足並みを乱すものとして阻害される対象になったりするんだろうけど、そういう人がいなかったら文化は発達していかないし、歴史は新しいページをめくれない、テクノロジーだって進化していかないと思います。

――ヤマザキさんにとって2008年に生み出してから、10年以上経ちましたが、ここまで長く愛される作品、シリーズになると思っていましたか。

 考えたこともありませんでした。最初メジャーな漫画誌の編集者に見せたら「こんなニッチなマンガは誰も読まない」と言われて、ああやっぱりそうだよな、と納得してしまったんです。でも、友人に勧められて少しマイナーな漫画誌に持って行ったら、そこではとても褒めてくれて掲載が決まった。その後私の担当となる編集長がいつも私に言っていたのは「俺とお前が面白ければそれでいいんだ、余計なことは考えるな」って。その言葉がすごく説得力があって、私もそれでいい、と思って描いていました。

 単行本が出たのはいいけれど、読んでくれるのは全国できっと五百人くらいだろ、などと編集長にも言われたんですが(笑)たちまち重版になりました。へえ、日本の人ってそんなに古代ローマが好きだったのか、と驚きましたが、そういうことじゃないんですよね。きっと皆さんの中にルシウスに投影してみたいこと、感情移入できる何かがあったんだと思います。

 さらに、日本の温泉や銭湯といった浴場文化というのは実はすごいことだった、という再確認にも繋がったんじゃないでしょうか。私は長い海外暮らしでお風呂や温泉に枯渇していたから、ああいう漫画を描いたわけですが、日本の人にはそんなに珍しいことではないだろうと思っていましたから、意外でした。でも、この漫画がきっかけとなって自分たちが持っている大事な文化に改めて心を置き直してくれる人が増えたことは良かったなと思います。

――アニメの最後でヤマザキさんご自身が草津温泉などに訪れるコーナー「テルマエ・ロマエ巡湯記」がありますが、これはヤマザキさんからのご提案ですか。

 Netflix側からの提案です。今から20年ほど前、数年間だけ日本のテレビで温泉リポーターを5年間ほどやっていた時期があって、こんなところで昔取った杵柄を発揮できるとは思わなかったです。東北圏内と北海道の温泉はほとんど行ってるんじゃないですかね。今回はさすがに温泉に入っているシーンは撮らなかったけど、昔はお湯に浸かって、どんな泉質なのかまでリポートしていていた、その経験が『テルマエ・ロマエ』という漫画につながりました。どんな体験もそのうち思いがけないことで役に立つ時がくるのです(笑)

お湯のありがたみということを再認識してもらいたい

ヤマザキマリ

――昔お母様に「『フランダースの犬』を読みなさい」と言われて、読んだ時のヤマザキさんの感想がとても印象的でした。その感想は作者の意図するものとはおそらく違う観点からのものだと思うのですが、『テルマエ・ロマエ』でヤマザキさんはどんなことを視聴者に伝えたいですか。

 私から伝わったらいいなと思うことはないですね。そのむかし、不条理な社会の中で生きる『フランダースの犬』のような子供の文学が流行っていました。そういう文学によって子供の倫理を育むという傾向があったのでしょう。『フランダースの犬』に関しては、私が画家を目指すことに対しての母からの警鐘で、それまでも「絵描きでは食べていけない。飢え死にする」と何度も言われていたけど、私がその言葉を全く聞かないから、その前例を見せる意味で勧められた作品だったんです。

 ところが当時の私は『アラビアンナイト』と『ニルスのふしぎな旅』という冒険小説を同時に読んでいて、その2作品に登場する少年たちは、みんな要領がいいし、くよくよしていないんですよ。だからなおさら、ネロのふがいなさに、ちょっと疑問を抱いてしまったんです。

 作品というのはそれが表に出た時点で原作者の意図は重要ではなくなります。受け止めた人がどう解釈するかは、原作者が口を挟むことではありません。『テルマエ・ロマエ』も見る人によって感じることはそれぞれでしょう。でもこの作品も表に出たときから読み手の人たちのものになりますし、アニメ化すればアニメを観た人たちのものになると思っていますから。

――私は『テルマエ・ロマエ』を拝見して日本の文化がもしかしたらローマが繁栄する礎になっているというのは、すごくロマンがあるなと思って観ていたのですが、ヤマザキさんの中で裏テーマもあったのではないかと、ちょっと勘ぐってしまったところもあったんです。

 それは考えすぎですね(笑)。本当に、シンプルにお風呂に入りたくてたまらなくて描いた作品です。それ以外の思惑などありません。アルタミラの洞窟に先史民族が捕らえたい動物を描いていたのは、もしかしたらそうすることでお腹の空腹感を紛らわせていたかもしれない、それと同じ動機です。思想的なものがあるとすれば、我々人類は世界のどこにいようと、どんな時代に生きていようと、地球から温泉という恩恵を授かって生きている、という点くらいでしょう。比較文化論的な意味で。

 人間というのはもともと羊水、お腹の中の温かい水に浸かっているところから生まれます。だからなのかわかりませんが、お湯に浸かっている人間が凶暴性を帯びたり暴れたりすることは滅多にないでしょう。地球に守られている安心感みたいなものを感じられるのが温泉だと思うし、お湯のありがたみということを再認識してもらいたい、という想いは確かに『テルマエ・ロマエ』にはあるかもしれません。

――安心感といえば、ルシウスと一緒にアヒルの玩具が浮かんでいるキービジュアルも印象的でした。

 アヒルの玩具はいわば気持ちのゆとりを象徴するものでしょうね。ルシウスという人間は常にいっぱいいっぱいな人なのに、アヒルが浮かんでいると、ほっとする。安心感を醸し出してくれる。今のご時世はバブルの時代みたいに生きる大変さをお金で誤魔化すこともできなくなってしまった。疫病、戦争、天災、対峙させられる不安が止め処もない状態ですが、そんな中でお湯はとにかく安心感と生きる力をやしなってくれる。大袈裟だけど、あのアヒルにはいっぱいいっぱいの意識をふとゆとりの宝庫に向けてくれる効果がありますね。

――お風呂は平和に繋がる要素を持っていると。

 私の暮らすイタリアでは浴槽をシャワーブースに取り替えるのが大好きなんです。浴槽なんて必要ない、入浴は体を洗う行為、と思っているんだけど、そうじゃないじゃないですか。入浴というのは体を洗うことよりも、メンタル内部に溜まったエントロピーを排出する意味もあるわけです。そのためにお風呂のお湯は汚してはいけないんだと、私は何度もイタリアの家族にも言っていたけど、なかなか言わんとすることが通じない(笑)。そういう葛藤もある中で世界配信に向けて伝えたいことがあるとすれば、こういった入浴の仕方も皆さんちょっとやってみてね、と。戦争なんかしないでお風呂に入ってくれ、と。話し合いをするなら古代ローマ人の重鎮たちもあえて重要な話し合いを浴場でしていたように、お湯に浸かりながらやってほしい。

つげ義春さんに与えられた影響

ヤマザキマリ

――ヤマザキさんに影響を与えたマンガや作品はありますか。

 つげ義春先生や水木しげる先生かな。私が留学してたイタリアの美術学校の留学生たちが置いていくマンガの中に、つげ義春さんの一連の作品や水木先生作品があって、読んで衝撃を受けました。こういう漫画の世界というのもあったのかと。漫画なのに文学を読んでいるような感覚になるし、エンタメ性に媚を売っていないところもすごく惹かれました。水木先生の飄々とした世界観といい、つげ義春さんの描く絵の黒さといい。つげさんのベタの塗り方を見たときに、キアロ・スクーロという明暗技法が漫画でも表現されているのに感動しました。それまでの漫画の固定概念を覆されたという意味で、つげ義春さんに与えられた影響はとても大きいです。

――ヤマザキさんの人生において『テルマエ・ロマエ』はどんな作品になりましたか。

 私は油絵を専攻していたので、漫画家になるつもりはまったくなかったんですよ。でもシングルマザーになった時点で、子供を育てるために、絵を描きながらも食べていけそうな職業はなんだろうと模索し、行き着いたのが漫画だったわけです。でもまさかそれが自分の人生を支えるメインの職業となる日がくるとは思いませんでした。

――その中で『テルマエ・ロマエ』は生まれて。

 ポルトガルにいた時、子供の服にアイロン掛けしていたら急に頭の中に昭和の銭湯に古代ローマ人が現れる画像が思い浮かんだんです。ポルトガルという国の佇まいはどこか昭和的で、当時の銭湯を思い出すにはもってこいの環境でした。そこに、それ以前に滞在していた中東などで訪れまくった古代ローマ遺跡で得たイメージが合致し、化学反応が起きて生まれたイメージが、昭和の銭湯と古代ローマ人だったのです。

――生き方も考えさせられるような作品にもなっていて。

 私の人生は全部思いがけないことばかりの連続でできています。だから「ああなりたい」「こうあればいい」という理想や予定は一切抱きません。今回は「こういう展開になったか」という具合に対峙しているだけですね。自分という現象とともに生きる。だから今も私は生き方への理想もなければ、将来こんなことをやってみたいなんていう思いもありません。だって、これからだってこちらが望んでいなくても絶対何かが起きるだろうから(笑)。何事もなかったら、死ぬ前に「意外に安寧だったな」と思うくらいじゃないですかね。

――ヤマザキさんにとって、元気になる言葉などはありますか。

 そうですねえ、あまり考えたことはないけど。強いていえば、かつて私が何か大きな悩みを抱えていると、母は「そんなの大したことじゃない」、「どうにかなるんだから気にするな」、「そんな小さなことに囚われてるなんてばかばかしい」というような対応をする人でした。戦争という過酷な経験をくぐり抜け、命さえあれば何を失っても怖くないという思いが根底にある人の発言というのは説得力がありますね。だから私は今も何か起きると「大したことじゃない、気にすんな」と自分に言い聞かせる癖がついてます。とはいっても実は小心者なので些細なことでも結構気にしてはしまうんだけど、でも自分を救ってくれるのは自分しかいないと思っているんで、落ち込もうが傷つこうが、まずはお風呂に入ってお湯でじっくり癒しつつ、明日を強く生きるための糧としていけばいいかなと。やっぱり行き着くところはお風呂ですよ(笑)

(おわり)

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