石川さゆりが、日本音楽の良さを伝えるプロジェクトの第二弾『民~Tami~』が3月20日にリリースされる。「世界中の皆さんに、日本の音楽を持帰って頂きたい」――。そんな石川の想いで始まったプロジェクト。1988年発表の『童~Warashi~』に始まり、約30年の時を経てその第二弾が発表された。今回は日本の古来から土地に根付く曲を、亀田誠治ら気鋭の音楽家がアレンジ。その旋律を石川が命を吹き込んだ。東京五輪開催に向けてますます日本文化が注目されている。石川が寄せる日本音楽の良さとは何か、その思いに迫った。【取材=村上順一】

“戦友”吉岡治は歌を届ける同志

「酒供養~縁歌バージョン~」ジャケ写

――2月20日に124枚目のシングル「酒供養~縁歌バージョン~」がリリースされました。作詞をされた吉岡治先生の曲を3曲収録されています。その吉岡先生とは戦友のような間柄だとお聞きしました。

 そうですね。私とは父と子ぐらい年齢は離れていますが、40年以上一緒に曲を作ってきましたので、そう言って頂けたのかも知れません。

――吉岡先生がお書きなった歌詞は、時代を切り取ったかのような印象も受けます。石川さんはどのように捉えていますか?

 時代を切り取ったという点では、阿久悠先生の方が沢山お書きになられました。吉岡先生はどちらかというと、日本人の本質や普遍的なものを多くお書きになったのかなと思います。

――吉岡先生との思い出で印象深いことは何でしょうか?

 沢山ありすぎて…どうしましょう(笑)。私に初めて書いて下さったのが17歳の頃。一緒に作品を作らせて頂けるようになったのは、「波止場しぐれ」など20代半ばからです。その中で吉岡先生がよく冗談で「阿久悠さんや、なかにし礼さんが大作を書いて、石川さゆりがまだやっていない隙間を埋める(家具と家具の隙間を埋めるような丁度いい家具を作るように)“隙間家具師”ですから」と話していて、私のことをよく見て下さっていました。

 CDになっていない曲、ステージでしかやっていない曲も沢山あります。私が「ステージでこんな曲をやりたいので、こんな言葉を書いて下さい」とお願いをすると、吉岡先生は「無茶振りだな」と言われるんですけど、4、5日が経つと「出来たよ」と連絡を下さって。吉岡先生は谷中(台東区)がお好きで、そこに夕焼けだんだんと呼ばれている場所があります。「詞のテーマが浮かばない」と言われた時も「そこに行きましょう」とお誘いをしてね。歩くのも大変な時でしたけど、奥様と3人でその場所に行って、一番上まで登って振り返ったら「変わりましたね。ビルしか見えないや」と話されて。そのあと何日かして届いた歌詞が「夕焼けだんだん」でした。そうやって一緒に作品を作ってきて、私は歌うことに専念させてもらえたという感じです。

――3曲目に収録されている「もういいかい」は吉岡先生とのやり取りから生まれた曲ですよね?

 亡くなる数年前から病気を患っておられて。命が終了していく時に「さゆりに僕はもう(歌詞は)書けないよ。他の方に書いて頂きなさい」と言われて。でも、私はその度に「まだまだ吉岡治の作品を歌い続けます、スネをかじり続けますよ」と話しました。そのあとも「作詞家、誰かいないの?」と言われるんですけど、私は「まだまだ」と…。そういったやり取りがしょっちゅうありました。その中で「これ書いたから」と言われ下さったのがこの「もういいかい」の歌詞でした。

――吉川先生と石川さんのやり取りから生まれた詞だったんですね。

 吉岡先生からは「さゆりにあげるから自由に使って」と言われました。家に帰って詞を読んだら、「もういいかい」、「まあだだよ」という、私と吉岡先生のやり取りから始まっていて。最後は「もういいよ」とご自分で終止符を打たれて…天国に逝ってしまわれました。これをありきたりの歌謡曲にしてしまうのは違うと思って、テイチクの社長さんに「メロディを付けたい」と相談して、それで平井(夏実)さんに美しいメロディを書いて下さいました。

 吉岡先生は「ちいさい秋みつけた」など書かれたサトウハチロー先生の門下生としてスタートして、「おもちゃのチャチャチャ」も吉岡先生の作品です(野坂昭如と共作)。それもあって生前から話しておられた「僕はリリカルな世界が好きなんだ」という言葉を思い出します。そういうこともありすごく大事な曲です。

――石川さんと吉岡先生の絆と言いますか、良い関係性が見えます。戦友という表現も何となくわかりました。

 絆といいますか、私たちは歌を作るものとしてやってきました。歌をお届けする「同志」ということじゃないでしょうかね。戦友といっても、私は戦争には行ってないのでよくわかりませんから(笑)。一緒に色んな事を乗り越えてきたと私は嬉しく思っています。

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