デビュー35周年を迎え浜田麻里が1月23日に、記念アルバム『Light For The Ages - 35th Anniversary Best ~Fan's Selection -』をリリースした。ファンからのリクエストの上位40曲で構成された3枚組。1983年の1stアルバム『Lunatic Doll~暗殺警告』から昨年リリースした最新の26thアルバム『Gracia』収録曲まで、35年の幅広い楽曲を収録。4月19日には『The 35th Anniversary Tour “Gracia”』日本武道館公演も控える。「“ヘヴィメタル・クイーン”と呼ばれていた自分に対する誇りは常にある」と話す彼女に、35年を振り返りながら楽曲の変遷や活動の歴史など語ってもらった。【取材・文=榑林史章】

私に黒歴史はない

『Light For The Ages - 35th Anniversary Best ~Fan's Selection -』通常盤

――今回のベストアルバムは、ファンのリクエストを募って、上位40曲で構成されています。ファンからはどんな反応がありましたか?

 ファンの方からは、「初めて浜田麻里を聴く人にとって、一番良いアルバムになった」とコメントをいただきました。私自身もそういうものになったなと思っています。ただ、あまりにも良くでき過ぎていて、「スタッフが考えたんじゃないのか?」という声もあって(笑)。

――もしご自身が選ぶとしたら、もっと違うものになったと思いますか?

 もう少し別の視点から選ぶ可能性はあったと思いますが、結果は順当な選曲で、私が予想していたものと、あまり変わらなかったです。もう少しマニアックさが出ていたり、裏ベスト的なものになっても面白いと思っていたのですが、とても妥当なものになりました。ただ、こういう機会は初めてで、私とファンのみなさんの気持ちをともにできる機会をいただけたことは、とても貴重な経験になりました。

――1985年の1stシングル「Blue Revolution」が、リクエスト1位でした。2位が1990年の12thシングル「Nostalgia」、3位が1991年の13thシングル「Paradox」と続きます。

 「Blue Revolution」と「Nostalgia」は鉄板だろうと思っていたので、ほぼ予想通りです。ただ、「Momentalia」(2012年のアルバム『Legenda』に収録)が、8位の「Stay Gold」(2010年のアルバム『Aestetica』に収録)よりも上位の4位だったのは予想外でしたね。直近のライブのセットリストがかなり影響していたようで、「Momentalia」は、昨年からおこなっているツアー『The 35th Anniversary Tour“Gracia”』のラストに歌っている曲なので、その印象が残っていたのではないかと思います。

――35年やっていれば、ファンの方の世代もファン歴もさまざまで、いろいろな思いを持ったファンの方がいますよね。

 そうですね。コアなファンの方のなかには、いまだに「Return to Myself ~しない、しない、ナツ。」(1989年のシングルで初のチャート1位を記録した楽曲)を良く思っていない方も多くいらっしゃるようです。なので同曲は、高くても10位や12位くらいと予想していました。それが6位に入ったことを考えると、コアなファンの方の中にも、この曲をエポックな作品として認めてくださっている方がいらっしゃること、この曲を推してくださった、ライトなファンの方も多く投票してくださったということが分かりました。

――80年代に始まり、年代を追って現在に近づいていく構成の曲順で、音作りや楽曲の雰囲気など、その時代ごとの流行りも感じます。浜田さんご自身で聴かれていかがでしたか?

 おっしゃる通り、その時代ごとに音の傾向があって、私の意識や参加ミュージシャンの移り変わりを、年代順にすることによって流れで感じていただけます。リクエストの人気順で並べるなど、考え方はいろいろあったと思いますけど、発表順で結果的に良かったと思います。

――浜田さん自身としては、その時代ごとにどんなことを考えて制作をしていましたか?

 その時代に自分がどうあるべきかということを考えて、その時の音楽性が変わっていきました。自分にとってみればナチュラルな変化で、こうして年代順の流れで聴くと、移り変わっていった自分の意識も客観視することができます。

 例えば、曲がポップになってシングルヒットした80年代終盤の時代を迎えた時は、その前にアメリカでレコーディングするスタイルに変わったのがきっかけでした。「売れ線狙いだった」と、今も批判されることがありますが、単に親しく制作をともにするミュージシャンがアメリカ人になったことによる、自分の中での自然な変化でした。それが、ヒットに繋がりタイアップもいただけるきっかけになったということです。

――1987年の7thアルバム『IN THE PRECIOUS AGE』が、初のロサンゼルスでのレコーディング作品になり、この作品からマイケル・ランドゥなどの海外一流のミュージシャンが制作に参加しています。8thアルバム『LOVE NEVER TURNS AGAINST』には、デヴィッド・フォスターがプロデュースを手がけた「Sailing On」を収録。さらに1991年の11thアルバム『TOMORROW』にはTOTOのスティーヴ・ルカサーが参加するなど、この頃はAORやフュージョン系の豪華なミュージシャン揃いでした。

 最初はハード系の作品を手がけている、のちのガンズアンドローゼズのプロデューサー、マイク・クリンクとの共同作業をしていました。渡米後、マイケル・ランドゥとお仕事を密にして触発され、デヴィッド・フォスター、フォスターが参加していたころのシカゴなど、AOR楽曲の世界的なヒットの制作現場に近い立ち位置で過ごすようになって影響を受けました。自然に、それらの作品に携わった方たちが、私のブレーンになっていきました。90年代前半くらいまではその流れでやっていました。

 ポップ系の曲のシングルヒットは、ハードロックがお好きな一部のファンの方からは“黒歴史”のような言われ方をすることがありますが、私はまったくそんなことは思っていません。アメリカで制作するようになったのも、自分とは違った目線が欲しかったからです。音楽プロデューサーというお仕事が、日本ではまだ確立されていない時代だったので、本当の意味でのプロデューサーとはどういう仕事をするのかを見てみたかったんです。

――歌声はいかがですか? 90年代は、ソフトな印象です。

 根本は変わりませんね。決して時代に迎合するということではないものの、自分が気持ち良いと感じる歌唱法が、少しずつ変化していたことは感じます。デビューのときはわりとストレートでしたが、その直後、フルに歌うといったハードな歌唱法の中では、強いアタックや特徴的な深いビブラートで個性を作ろうとしていました。

 そこからアメリカに行って、ストレートな歌い方が心地良いと感じるようになって、ビブラートを減らすなどしていった時期もあります。そのあとは、息を含めたウィスパー唱法でアルバムを作って。それからまた段々ハードなものへと変わっていきましたが、決して原点回帰ということではなく、それは自然な流れでした。今は音域の低いところから最高音のところまで使う、音飛びの激しいメロディを付けるようになって、それに則した歌い方になっているという形です。いつも意識にあったのは、他の人とは違う”何か”です。

――声自体も太くなられているような気が。

 そうですね。細かく言えば、若いときのキラッとした感じと言うか、尖ったところがなくなり、丸くなってそのぶん太くなった感じはあると思います。普通は年齢を重ねると声のレンジが低くなると言われるのですが、私の場合は特殊でレンジ自体は変わらず、声質的にエッジが丸くなって、倍音が増えて太くなったという変化だと思います。ただ、自分では、あまり年齢による変化が極端に少ないほうだとは思います。

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