シンガーソングライターの小坂忠が8月22日、ライブアルバム『HORO 2018 Special Live』をリリースした。昨年8月に癌が発覚し切除手術をおこない同年11月に復帰。2018年3月には、細野晴臣をプロデューサーに迎え1975年にリリースされたアルバム『HORO』を曲順通りに再現した復活ライブを実施。サポートメンバーには、バンマスに盟友・鈴木茂(Gt)、小原礼(Ba)や屋敷豪太など豪華なメンバーを迎えた。入院中にも歌うことを考えていたと言う小坂が導き出した答えは、自身にとってもターニングポイントだった『HORO』をライブで再現することだったという。今作『HORO 2018 Special Live』はライブの模様や空気感をMCも含め余すことなく収録している。改めて『HORO』の制作背景を振り返ってもらうとともに、牧師としても活動する彼がその道に入ったきっかけや、彼の考える音楽の未来について話を聞いた。【取材=村上順一/撮影=冨田味我】

目を瞑って見える世界

小坂忠(撮影=冨田味我)

――今作『HORO 2018 Special Live』はライブ盤ですが、この収録をおこなったライブへのお気持ちはどのようなものだったのでしょうか。

 昨年、大病してもう歌えるかどうかもわからない状態でね。その時に病院で寝ながら色々考えていたんだけど、どうしても歌いたいという気持ちが強くて。もし、歌えたら何をやろうかなとずっと考えていました。

 僕の音楽人生の中で『HORO』というアルバムは特別なもので、それをみんなで再現出来たら良いなという気持ちになって。それで、(鈴木)茂に電話して、バンマスをやって欲しいとお願いして、アルバムの曲順通りにやってみようかとなったわけです。

――アルバムの曲順通りというのが印象的でした。今回の音源にはMCも収録されていて、そこで曲順を考えるのが楽しかったと仰られていて。

 最近はシャッフルして聴かれることも多いからね。僕も実際そうやって聴くこともあるし(笑)。当時はレコードでA面とB面があって、A面の1曲目はこれでとか、B面の1曲目はこれみたいに考えるのが楽しかったんだよね。なので「ほうろう」から始まってA面最後は「夕方ラブ」、B面は「しらけちまうぜ」で始まって「ふうらい坊」で終わるというこの4カ所はすごく重要だったよね。

――アルバムが一つの作品として強固なものになってますよね。

 ストーリーがしっかりあるからね。この曲の「居場所はここだな」みたいなね。

――そう考えるとレコードのA面B面という考え方は、アルバムの意義を強く打ち出せる要素かも知れませんね。ちなみにCDが登場された時は何か思ったことはありましたか。

 やっぱり音のレンジが狭く感じたのと、ジャケットが小さくなってしまったことに思うところがありました。コンパクトで良いんですけど、楽しみが薄れちゃう気がして。あと、聴き方が変わったんだなというのを感じましたね。今はヘッドホンやイヤホンで聴く人が多いでしょ? スピーカーを鳴らしてこそ伝わって来るものがあります。音源を作る時もスピーカーを鳴らしているわけですから。それもあって今は当時とはミックスも違うよね。

――確かに今はイヤホンで聴く人が多いと思います。空気を挟まないのでミックスは変わりますよね。

 あと僕は音楽を聴くときは良く目を瞑って聴いていました。今は音楽に映像が付いていることが多いから目を瞑って聴かないよね。それも変わったなと知人と話してました。目を瞑って見える世界というものもあるじゃない? それは目を開けていては見れない世界だから。想像の世界が広がるし、楽しいと思うよ。今の若い人たちは想像力がちょっと乏しいかな。昔はちょっとした情報から広げられたんです。例えば好きなアーティストの情報は今よりも全然なくて、1枚の写真から色々想像するんだよね。

――以前ほかのアーティストさんも言っていたのですが、この人がギタリストだろうと思っていたら実はドラマーだったということがあって、それも楽しかったと仰っていたのを思い出したました。

 そうそう(笑)。音を聴いて黒人が演奏していのるかと思ったら白人だったりね。

――少ない情報からイメージするのも楽しいですね。今作はライブ盤で映像がないぶん音からイメージを掻き立てられます。スタジオ盤とライブ盤では小坂さんの中でどのような考え方の違いがあるのかもお聞きしたいです。

 僕は全く別物という認識です。やっぱりライブはその場所やオーディエンスの雰囲気とか、スタジオとは空気感が違うじゃないですか。今作はそのライブ感がすごく出ていると思うのですごく楽しいですよね。

――オーディエンスというのはすごく大きそうですね。75年にリリースされたスタジオ盤は当時16トラックで制作されたようですが、もっと遡ると2トラックという今では考えられない時代も経験されていますよね。

 これだけ長くやってるとね、2トラック時代も経験しています。まずはバンドで一斉に2トラックに録って、それをもう一つのテープにダビングする時に歌を録るというスタイルでした。

――緊張感が凄そうですね…。

 そうだね。今なんて切り取って貼ったりできるし、音程も直せてしまうんだからすごく楽ですよ。

――確かに今はすごく楽になったと思います。でも、それによって失ったものもありますよね。

 あるとは思いますね。それこそ僕らの頃なんてミキシングエンジニアもあまりいなくて探すのが大変でしたから。僕らの感性と合う、出している音をしっかりと聴いてくれる人がなかなかいなくてね。その中でビクターの吉澤(典夫)さんはポップスの音を理解している方なのでお願いして。楽器に対するマイクの置き方とかすごいんだよね。ソロ1枚目のアルバム「ありがとう」からやってもらって。

――エンジニアがあまりいない時代というのもあったんですね。『HORO』は小坂さんの歌のスタイルが確立し始めた音源とのことですが。

 そうです。それはなぜかというと、ずっとジム・モリソンとか洋楽のコピーをやって来ていて。コピーだから自分というよりも、その人を真似して歌っているから、自分の歌い方というものがわからなかったんだよね。そこから、ソロ活動をするようになってどうやって歌ったら良いのかというのが、一番の課題で、それが確立し始めたのが『HORO』でした。

細野(晴臣)君じゃなければできなかった

小坂忠(撮影=冨田味我)

――ソロ活動前にはザ・フローラルやエイプリル・フールと、バンドでもやられてましたが短命でしたよね。それもご自身の歌との葛藤が関係されているのでしょうか。

 いや、単にわがままだったんじゃないかな(笑)。まあ、それは冗談として、その時にやりたいことが出てきてしまうと止まっていられないんです。

――好奇心が勝ってしまわれたわけですね。『HORO』をリリースされた後、全国40カ所を回るツアーもおこなっていて、この当時では相当珍しかったのではと思います。

 (鈴木)茂が『BAND WAGON』というアルバムをクラウンから出していて、僕はアルファレコードというコロムビアのレーベルからリリースしていたんだけど、レーベルの垣根を越えてプロモーションをやろうという話になっておこなったのが『ファースト&ラスト・コンサート・ツアー』で。その当時は地方にイベンターはいたんだけど、ネットワークになっていなくてね。それをネットワーク化してツアーにしたのが僕たちだったんです。今でもその時のイベンターは残っているところも多いですよ。

――パイオニアだったんですね。聞いたところによるとツアーは過酷だったみたいで…。

 時代の流れもあって、音楽的趣向が変わりつつありました。『HORO』で自分の歌を見つけ始めたと思っていて、自分ではそれをもっと地固めをしたいと思っていたんだよね。でもメンバーがそれぞれの道を進んでいく中で、自分が孤立しているような感覚があって。そこから大規模なツアーはやらなくなってしまいましたね。

――小坂さんの年代の方々に今の音楽やシーンの基盤を作っていただけた感覚もあります。

 それが僕たちの年代の使命みたいなところもあると思うんだよね。僕らはちょうど団塊の世代で、僕らより上の世代が作り上げてきたものを、僕らより下の世代に橋渡しするといったような、世代毎に役割があるような気がします。

――『HORO』のプロデュースを担当された細野晴臣さんもその中の1人だと思うのですが、当時のプロデュースワークはどのようなものだったのでしょうか。

 僕の記憶が確かならば、元々は細野君に頼む予定ではなかったと思います。新しいアルバムを作るということは決まっていたけれど、なかなか形が出来なくて、それがあって細野君に頼むことになった記憶があります。改めて、細野君じゃなければこのアルバムはできなかった、もしくは違う形になっていたと思います。

――『HORO』を制作するにあたって一番大変だったところはどこでしたか。

 やっぱり僕の歌だと思います。ソロのファーストアルバム『ありがとう』から自分の歌のスタイルを見つけようとしていて、『HORO』の前の『はずかしそうに』というアルバムから、歌の方向性がちょっと見えてきた感じがあってね。それを形に出来るのは細野君しかいないと思った。まだスタイルが出来ていない自分が『HORO』というアルバム制作の中で歌を作り上げていくというのは一番大変な作業だったなと。

――当時のご自身の歌を聴いて思うことはありますか。

 2010年にマルチトラックのテープが見つかったことがきっかけで『HORO2010』というアルバムを出したんです。その時に改めて聴き直したら、スタイルが固まり始めた頃の歌だからまだ完全ではないという感じもありました。それもあってもう一度歌いたくなってね。当時の参加してくれたミュージシャン達はもう最高でした。ティン・パン・アレーの一番油が乗っている時の演奏だと思います。その演奏に僕の歌がまだ追いついていなかった。

――『HORO2010』から8年が経ちましたが、現在も更なる変化や進化を求めていますか。

 いえ、もう変えようとは思っていないですね。というのも、自分のスタイルはもう作れたと思っています。それを新たに変化させていこうというのは今のところ考えてはいないです。また時間が経てば熟成してくるかなという感じはありますけどね。

――もし、もう一回録り直せる機会があったらどうしますか。

 いやあ、もう大丈夫です(笑)。そうそう、録り直しといえば『HORO2010』の時にバンドメンバーに音源を送ったんだけど、「ズルいよ」とみんなに言われてね。

――小坂さんだけ録り直したからですか?

 そうそう(笑)。

――皆さんのお気持ちはわかりますけど、また全部やり直すのはプロジェクトとして大変ですよね。

 大変だよ。そこまでやるんだったらゼロから新しいものを作り上げた方が良いと思うし。

――オリジナル盤も聴かせて頂いたのですが、33年前の作品ながら、名盤と呼ばれるものは新しいとか古いとかそういったものを感じさせない説得力があるなと聴いていて思いました。

 そう言ってもらえると嬉しいね。曲はそういう風なものであって欲しいからね。

――当時の制作はどのような作品にしたいと考えられていたのでしょうか。

 新しいものや、誰かの真似をしようとかそういった気持ちではなかった。自分たちが作れるものの中での理想というのを追求した作品です。その姿勢は今もみんな変わらないと思います。だから、いまだにみんな良いミュージシャンだからね。

僕の知らない音楽が教会にはあった

小坂忠(撮影=冨田味我)

――小坂さんは牧師もやられていて、ゴスペルも歌われますが、牧師になられたきっかけはどのようなものだったのでしょうか。

 ちょうどツアーが終わってホッとしていた時のことだったんだけど、義理の母が渋谷に住んでいて、そこに家族で遊びに行きました。その義理の母が台所で料理をしていたんだけど、テーブルの上に熱い鍋を置いていて。その机の上に娘が手を伸ばしたら、運悪くその鍋を掴んでしまってね。頭から熱湯を浴びてしまったんです。すごい叫び声がして、台所に行ったら娘が苦しんでいて…。すぐに水で冷やして病院に連れて行きました。でも顔の皮膚が熱で溶けてしまって…。元に戻るのかとか、将来のことを考えるとすごく不安でした。だから歌を歌うどころではなくなってしまったんです。

――それは大変な出来事でしたね…。

 その時に妻の祖母が来てくれて、その祖母がクリスチャンでした。お祈りをしてくれたんだけど、それでも僕は不安でね。そうしたらその祖母に「そんなに不安なら自分も教会にいって祈って来なさい」と言われて。その時、僕も後から「あれをやっておけば良かったな」とか後悔したくなかったから出来ることは全部やろうと思って、初めてだったんですけど教会に行ったらみんなで祈ってくれてね。それから1カ月くらい経って皮膚が固まらないように処置をしてもらって、自然治癒するのを待つしかなかったんですけど、綺麗に皮膚が元通りになったんです。

――本当に良かったですね!

 本当に良かった。勇気を持って教会に行って、みんなに祈ってもらってその祈りに応えてくれたのかもしれないと思いました。祈りが通じたということは「神様はいるんだ」と思い始めて。それで、もっと知りたいと教会に通うようになって、それがきっかけで僕もクリスチャンになったんです。

――そして、教会で新たな音楽に触れたわけですね。

 そう。僕の知らない音楽がそこにはあってね。そこで教会音楽、賛美歌に出会いました。僕は当時人を喜ばせる音楽しか知らなかったけど、人ではなく神に向かって歌う音楽に初めて出会って、すごく興味を持ってね。僕に出来ることは何かないかと考えました。教会がどんな活動をしているのかも当時は知らなかったんだけど、社会的な活動も結構やっていて。刑務所などでカウンセリングみたいなこともやったり、そういう人たちを励ます活動をしていたり。そのなかでコンサートをやって欲しいと頼まれてね。自分がやれることがあればやりたいと思って刑務所とかで歌うようになりました。

――今まで経験されて来てない場所でのコンサートですね。

 今までは僕の音楽のファンで観に来てくれている人ばかりだったけど、少年院や刑務所では僕のことを知っている人はほとんどいないんです。彼らは少年院や刑務所などで提供する娯楽を楽しもうなんて基本思っていないから、抵抗した顔をしているわけですよ(笑)。でも、何とかそういう方たちとコミュニケーションを取りたいし、励ますことをしたいなと思って。だから、それまでの自分の音楽活動とは全然変わってしまって。それまでは「俺の音楽がわからないやつは聴かなくてもいい」ぐらいに思ってたんだけど、何とか心を通わせたいから、すごくサービス精神が出てね。

――歌の届け方がすごく変わったのですね。

 すごく変わったね。歌の意味や可能性、歌ってこんな力があるのかと気付かされて。それはすごく大きなことでしたね。

――その考え方が現在でも続いているわけですね。さて、音楽の未来についてもお聞きしたいのですが、音楽の在り方がどんどん変わって来ていると思うのですが、小坂さんがその中で危惧していることなどありますか。

 最近、言葉が多いなと感じます。僕が作っている曲はそんなに言葉は多くないですし、日本の言葉は17文字で宇宙を表現できるものだと思っていて。それは受け取った人の想像力で広がっていくものなんです。それと発信する人の言葉がひとつになって初めて出来上がるものだと思います。だけど、説明しすぎてしまうとその世界がどんどん狭まっていってしまう。言葉というのは文化だから自分たちのアイデンティティをしっかりと持って、自分たちの言葉の可能性というものにもっと興味を持ってもらえたら良いなと思うんです。

 あと、一つのことを発信したら、みんなが同じように受け取らなければいけないような世界というのはあまり好きではないんです。違う考え方を持っている人たちが、違う考えを持ったままひとつになれるというのが豊かさだと思います。例えばここにコップがあるけど、本当の形はこの一方行から見た形だけでは、このコップの実像はわからないじゃない? 上下からも見てやっとわかるんです。その一方だけから見たものだけが「それだ」と捉えられてしまうのはあまり好きじゃなくてね。

 それもあって僕は自分の意見と違う人と話をするのが楽しいし、そういう人と話していると自分が違う目を持てるような気がするんだよね。自分が人とは違う感受性を持っているということに引け目を感じないで欲しいんだよね。それはすごく大事なことだと思います。

(おわり)

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