当たり前の中にも人生、ドラマはあるんじゃないか?

――このストーリーの中には、いろんなポイントが感じられましたが、何か映画自体には大きな柱として伝えたい大きなポイントというものがあるのでしょうか?

 いや~何だろう、こういうのは苦手なんですけど、“何か言いたいことが一言で言えるのであれば、それ書いて終わりじゃん”って(笑)。

――あ、確かに失礼しました。ライターとして痛いところを突かれましたね(笑)。

 (笑)黒澤明監督が言われていた言葉なので、本当は僕ごときが言うと“何を言ってるんだ?”ってなるけど(笑)。でもまあ、難しいところですけど…取材をしていくと、障害と言われるものを抱えている方々に対して“障害”という言葉が本当にとても残酷に思えてきまして。「(僕らと比べて)歩けないというだけ、こっちは歩けるだけだな」というくらいなことしか思えなくなってきたんです。映画の瑞穂と淳之介の二人でいうと、瑞穂は脊髄損傷という障害を抱えたけど、淳之介もある意味障害者といえば障害者、それが瑞穂よりちょっと前に起きただけの話、だと思うんです。

(C)2018『私の人生なのに』フィルムパートナーズ

(C)2018『私の人生なのに』フィルムパートナーズ

――そうですね。淳之介のほうは、心に傷を負った心理的な障害者というか…。

 おっしゃるとおりです。で、何かそういう出来事が起きちゃうとか、そういう運命みたいなものは、誰にでも起きることですから、しょうがない、変えようがないと思う。だったらそれを踏まえて生きていかなければいけないというのは、脊髄に障害を持った方だろうが、健常者と呼ばれる人間であろうが、心の障害だろうがみんな変わらないと思うんです。

 それは根岸(季衣=瑞穂がセラピーで出会う佐伯役を担当)さんのセリフが象徴していたと思うんですけど、脊髄に障害をもった方々と出会って感じたことで極端なことをいうと自分のほうは“歩けてすみません”みたいな感じ。何でこの人たちはトレーニングをしている姿が輝いて見えるのに、自分は映画を作りながら”あーもうイヤだー”なんて思っている(笑)、なんて。この違いは、個人の違いでしかなくて…。“障害は個性”といわれている時代ですし…そんな思いはありました。

 ただ失ったものは、絶対取り返せないもので、その失ったものに対して執着があるのも人間だからしょうがないと思う。何かそういう当たり前のことの一つとして、病気になって下半身が不自由になるということを取り上げられないかな? という思いがありました。当たり前の中にも人生、ドラマはあるんじゃないかということを。

――実は昨日、偶然に重度の障害者を対象としているという介護士という方とお話をする機会があったんですけど、「介護で肝要なことは?」と尋ねられたら“変に気を使い過ぎないことだ”といわれたんです。障害者ということで気を使い過ぎるといのはやるべきではないと。その意味では、映画とすごく共通する部分があるなと感じました。

 取材の際にJ-Workoutという、脊髄に障害を持つ方のトレーニングをされているジムに通わせて頂いたんですが、トレーナーの方が脊髄損傷の方と仲良くなると、平気で突っ込みとして低い位置にいる車椅子の方を叩くときもあると。仲が良いからなんだけど、そんな場面を見られて“障害者をいじめている人がいます”と通報されたという話があって(笑)。でもそれが本当の関係性なんだろう、何かズケズケと言える関係になるというか。

――すごいエピソードですね。でも信頼関係を結ぶ難しさを改めて感じます。

 脊髄損傷の方に対して、いきなり“歩けないんだ”って言っちゃうとそれは失礼ですけど、そのさじ加減と変わらないと思うんです。劇中で淳之介が瑞穂と再会してからのプロセスは一番自然になるよう意識しました。別に励まそうとして来たわけじゃない、って感じから始まりますが、それは本当に取材で感じた部分です。それも“初めまして”の健常者同士と何ら変わらないんじゃないかな、という。健常者同士も、もしかしたら精神障害を負っているかもしれない、ということが分からないところから始まるじゃないですか。それが目に見えているだけの話なんだな、と。

 今お聞きした介護士の方の話も実体験ですよね。本当にリアルって面白い。想像したリアリティより、リアルって思いもつかないことがある。僕は下半身不随って、もう完全に立てない、あるいは歩けないものなんだと思い込んでいたんですけど、例えば感覚がなくて動かせないだけで歩けることとか、全く知らなかったし。

――確かに。いろんな症状によってその状態は確かに変わるでしょうし。

 そうですね、損傷の箇所によって症状が変わるとか、そういう知識が本当にないゼロの状態から始めたので、とても興味深かったです。

知英さんは、スタートをかけたときには、既に瑞穂になっていた

――今回は主演に知英さんを起用されましたが、以前も映画『全員、片思い』というオムニバス・ムービーで知英さんを起用された経緯がありました。そのころから“また出てもらいたい”という思いはあったのですか?

 ありました、やっぱり。“ご一緒したい”と思う役者さんです。

(C)2018『私の人生なのに』フィルムパートナーズ

――前作ではトランスジェンダーの韓国人女性という役柄でしたが、今回この起用にはどのようにいきついたのでしょうか? 知英さんが敢えて日本人を演じるというのも、面白いと思いました。

 もともと原作では瑞穂の父親が韓国籍で、瑞穂はハーフだという設定になっていて、一回台本を書いたときには、在日設定を残していたと思います。

 台本を書き換えていく中で、その設定を無しにしようとなりました。考えを進めていくうちに「日本人が日本人を演じるにしても演じる人が別にその役自身ではなくあくまでも演じるので、まあいいんだ」という気がしました。少し心配だったのは日本語で、アフレコが多くなる気がしましたが現場では全く気になりませんでした。

――そうでしたか。先に知英さんにもお話をうかがったのですが、日本語は本当に堪能な印象でした。

 そうなんです、僕のほうが日本語はつたないと思うくらい正しい発音だったり(笑)。あと周りの役者さん達が「用意、スタート」とお芝居のスタートをかけたときには、既に知英さんではなく金城瑞穂としてのお芝居を見せてくださいました。

 撮影するスタッフの側も“韓国出身の知英さんが日本人の役だから”みたいなことを意識するようなことはなかったし、すごく自然でした。日本語は何も問題ないし、お芝居がとても良かったので、本当に素晴らしかったと思います。韓国の方が日本人を演じるということはなかなかないと思うし、それも面白いところです。

――確かに劇中は、全く違和感がありませんでしたね。例えば国籍などを除いた一人の役者、アーティストとして、知英さんの魅力とはどんなところなのでしょうか?

 いや~説明は難しいんですが…やっぱりお芝居がとても良い、としか言えないですね。瑞穂のお芝居に関しては、動きなど知英さんに一回相談して…例えば夜の橋で、爆風スランプの「Runner」を口ずさむシーンがあるんですが、それは後ろから撮っていくんだけど、動きのコースを説明すると知英さんはしばらく考えていて、橋の途中で「ここで左を見て良いですか?」と提案されました。

 自分には知英さんの意図はよく分からなかったんですけど「まあ、やってみてください」と応える。テストでお芝居を見てみると、止まった瑞穂が何を見ているか分からないけれど、“気になったもの、景色を見る余裕が出てきた”と思わせるしぐさに見えました。そんな感じで、一緒に作っていけたり、作ってくださいます。

(C)2018『私の人生なのに』フィルムパートナーズ

――こっちの言うとおりにするだけでなく、自分でも考えてくれると? なるほど。また今作では、役者さん達がアドリブでおこなわれていると思われるシーンが、とても多いなとすごく感じたところですが、これは稲葉さんも含めて”任せたほうがいい”という感じもあったのでしょうか?

 任せたほうがいい場合もありますし、アドリブがダメだったら使わなければいいくらいの思いでいろいろとやっていただきました。確かにはっきり台本どおりというところと、アドリブの部分は、稲葉さんのところは特に明確に分かれていたと思います。知英さんは、お母さん役の赤間(麻里子)さんとすごくアドリブも相性が良かったように思います。

――何か日記を渡すシーンとか、見ていても完全にアドリブだなと思われるところがありましたね。

 あのシーンは義雄さん(瑞穂の父)が何かをしているか、台本には特に何ということは書いていなかったんです。美術の田口さんから“パンを作っている?””そばを打っている?”なんてお話し頂いて、“まあカレーがいいかな”と(笑)。匂いで分かるし、という。で、お父さんが「ヨシオカレー」を作っていることが匂いで分かって嫌がるというお芝居の入り口だけは、知英さんに自分から話をさせて頂きました。

――そうでしたか。ではあそこはまるまる、アドリブだったのでしょうか?

 「ノートある?」とかお芝居の真ん中の重要なセリフは台本にありました。シーンに要点があったとして、その要点のところが“ここに来ました”“喋りました”みたいにわざとらしくならないように、嘘でも前後をくっつけるというか。まあ「10歩ほど歩いてからにしてください」という感じでやってもらったんです。その中で使うのは3歩だけの時もあります。面白ければ10歩まるまる使ってもいいと思うけど、何か一言二言を交わしたあとの会話と、台本に書いてあるだけの会話だけを撮るのは全然違います。日常会話から入ることが日常を取り戻した表現にもなって、今回は良くなったと思います。

 例えば前半部分のご飯を食べるシーン、実は前後が膨大にあったりします。それは台本に書いてあるんですけど、全然関係ない話をしている。で、関係ない話をしているときでも、次にお父さんとお母さんが瑞穂の様子を探る流れが書いてあると、やっぱりその何でもない会話の中に、その探っている感じが出ていました。編集でカットしてしまいましたが。

――相当長回しをしている感じでもあるのでしょうか?

 台本で要点だけになっているシーンは、ちょっと足している感じですね。「ヨシオカレー」はうまくいったと思っています。アドリブもアドリブで、嫌なときは嫌だと思うんですけどね。今回はうまくいったと思うところをかなり残してあります。台本でもともと書いてあった想定のところを編集でカットして、アドリブのところを残したりとか、編集の相良さんの、それこそセンスにかなり助けられました。