東日本大震災の発生から7年が経ちました。当時、私は渋谷にある大手CDレンタル店で働いていました。

 このとき異様だったのは、CDレンタル店にも関わらずBGMが鳴らずフロアが無音だった事です。CDを扱う店内が無音なんて。しかし、それによって露わになったのは、我々の「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」といった接客の声、作業音、お客さんの会話、足音といったノイズでした。現代音楽の巨星、ジョン・ケージの「4分33秒」を思い出しながら、音楽を切った瞬間にまた別の音が聴こえてくるのだなとしみじみ感じたのを思い出します。

 4分33秒の間、沈黙する演奏者。その静寂の中で聴こえてくる様々な音。この楽曲は、その瞬間にしかないノイズを音楽と捉える試みでした。私は震災後の数日、それまで耳をふさいでいた何気ない音やそこに発生するリズムを無意識的に聴いていた気がします。風の音や機械音、それから誰かの声が聴きたくなったりして。

 それにしても「音楽」とは一体何なのでしょう。そもそも「聴く」とは何なのでしょう。魚にも耳石が存在します。耳の代わりに彼らは肌で何かを聴いているというのです。人間も同様。「聴く」という行為は聴覚だけでなく触覚も関与した感覚なのかもしれません。

 では音楽を切り、そこで聴こえてきたノイズを取り除くと最終的に何が聴こえてくるのでしょうか。ジョン・ケージは無響室、つまり音のない空間に入った時「自分の血液が流れる音」と「神経系の音」を聴いたそうです。つまり彼によれば、全ての音楽をオフにして、最終的に出会うのは自分の鼓動。命の音なのです。【小池直也】

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