無音も音楽の一部と語った人がいた。曲中だけでなく、曲が終わった後の無音も含めて楽曲。だから曲が終わりかけの時に歓声や拍手はくれるなと。

 その意図についてその人は、無の対比に有がある。すなわち無があって初めて音が感じられる。だから無も立派な音楽の一部である、という趣旨だ。

 確かに静けさは次の音への期待にも繋がる。思ってみれば、静けさはどこか神秘性も感じられる。それは「間」という表現方法もある。

 武道やスポーツだけでなく、会話や音楽の世界にも間は重要視される。いわば、次への準備段階ともいえよう。次の一手をより有利なものとするために間を整える。

 ただ最近は、この間を嫌う傾向にあるのではないかと思うことがある。携帯がその最たるものではないか。特に必要性があるわけでもなく空いた間を埋めるために携帯を開く。

 とはいえ、携帯も用途は様々で電子書籍や写真、メールもしているかもしれない。ゲームだってありえる。ただ昔ほど、何かに考え更けている人の数が減ったようにもみえる。

 間はいわゆる考える時間だと筆者は考える。音楽の間も次への期待感という形で考えている。次の一手を打つ間合いもしかり。わずかに空いた時間もそういう使い方をされていたようにも思える。

 開いたら埋める間ではなく、みつめるための間として捉えたら、気付かなかったことに気づけるのではないか。無を感じられたら有が一層映える、音楽も人生もより感性が磨かれ、世界観が広がる、楽しさが増えるのではないかと思う今日この頃だ。【木村陽仁】

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