先日、引退を表明した音楽プロデューサー・小室哲哉は記者会見で「最後に一言だけ、すいません。いいですか」と終了の締めを止め、こう続けた。

 「なんとなくですが、高齢化社会、介護の大変さ、社会のストレスに、少しづつですけどこの10年で触れてきたかなと思っています。こういったことを発信することで、みなさん何か良い方向に、少しでもみなさんが幸せになる方向に動いてくれたらいいなと、心から思っております。微力ですが、少し何か響けばいいなと思っております」

 会見の終わりに彼が述べた言葉は、介護者という立場から発した、介護問題に対しての現代社会に向けたメッセージだった。介護は、家族、個人間で解決すべきことか、社会全体で取り組むべきことか。ここでは、妻であるKEIKOを介護する小室哲哉が、要介護者に対し、主に介護をおこなう「キーパーソン」であるという立場からメディアを通じて発信した思いについて考察したい。

 その前に、小室はKEIKOの現在の状態について、「身体的な後遺症はなく、高次脳機能障害というものであったり、脳の少し障害ということで、少し欲がなくなってしまったり、僕から見る限り女性から女の子みたい凄く優し気な性格なのかなと初期はそんな感覚になった」と語っている。ひとえに「介護」と言ってもその人の状態によって様々ある。

 さて、介護を必要とする者のキーパーソンの役割は、人間一人分の許容をはるかに超える役割があるというのが現実だ。まず、医療機関、施設、社会福祉機関、役所、家族、医師、カウンセラー、ソーシャルワーカーなど、様々な機関・人物と連携する必要がある。あるいは、たった一人で介護をするという状況もなかにはある。

 その対応は、膨大な時間と体力的・精神的負担がキーパーソンにのしかかる。いくら小室哲哉が天才音楽家だとしても、恐らく、心情的、体力的に、もしかしたら音楽制作どころではないといった状態が長期に渡り続いていたのではないだろうか。

 自宅介護の場合は、当人の世話がある。その内容は、病状や介護レベル(要支援1〜2、要介護1〜5)などにより変化するが、それだけでも、介護に対して一日のうちの何時間かは、確実に費やすことになる。場合によっては、ほぼ一日中である。要介護者が病院や施設にいる場合でも、定期的に身のまわりの世話をするために、足を運ぶことが必要だ。当然、仕事やプライベートの時間は、激減する。

 介護の対象者は、一般的に、家族や血縁者である場合がほとんどである。深い繋がりのある関係の者が、介護が必要な状態であるということ、それは、常にその者への心配が、深く濃く、頭の中にある状態である。そして、それは、あまりにもゴールが不明瞭である場合がほとんどである。

 また、あらゆる家庭環境下において、血縁や配偶者でありながらも、介護をする必要があるという立場に立つことが心情的に難しい(例えば、確執のある親子が介護を要する状況下)場合など、世論や道徳ではなかなか介入が困難な背景を孕むことも少なくない。

 介護には、「当人の状態が良くなる」という希望をみる、というよりも、ある種の絶望を間近で感じ続ける環境が日常となる。それは、介護が続く限り、常に介護者の思考と精神と身体を支配することに繋がる。

 そして、その状況を人に伝えたくても伝えられず、伝わらず、抱え込むしかないという点と、体験者にしかわからない、誰とも共有できない苦しさがある、という点がある。そして、「誰にでも大変なことはある。あなただけではない」という、恐ろしく冷たく突き放されがちな、ドメスティックな問題特有の性質を持つ。

 現代の介護問題の数値的な事実として、600万人以上の要介護者、要支援者がいるというデータがある。(※参照=「厚生労働省介護保険事業状況報告」平成28年要介護(要支援)認定者数男女計)介護は、家族、個人間で主に解決すべきことか、それとも、社会全体で取り組むべきことか。

 音楽界の財産でもある小室哲哉がおこなった会見での、超えてはいけない域の心労を感じる彼の疲弊しきった表情、最後に述べた介護問題に関するメッセージは、音楽ファンや世間へ、どのように伝わったのだろうか。不倫報道、引退表明という、見出しにするには十分な表向き的なテーマの会見だが、小室哲哉が抱えている「介護問題」という部分は、世間が共有して考える要点の一つであるように思える。【平吉賢治】

記事タグ