LUNKHEADと音楽シーンの変化

小高芳太朗

小高芳太朗

――2000年にLUNKHEADを結成されて、2004年にメジャーデビューされました。その後に、自主レーベルを立ち上げられて、いわゆるインディーズですね。そして、昨年、徳間ジャパンさんから再びメジャーシーンに。その経緯を教えてください。

 最初のメジャーでの活動は約9年ぐらいですね。時間が経って音楽業界も変わってきて、自分達でやれるノウハウや人脈とか知識、技術とかもタフになって、『メメントモリ』(2013年9月18日発売)というアルバムは自分達で出したんです。

 その『メメントモリ』では、自分達で取材交渉をしたり、お世話になったラジオ局に直筆の手紙とサンプルを送ったりしたんです。おかげ様で色んな方に好いて頂いてるのもありまして、地方を行き来しているディレクターさんとかに「じゃあいろんなところに配っておくよ!」と言って頂けたんです。そういう沢山の味方のおかげで「自分達でもやれる」という達成感もあったんですけど、やっぱり大変でしたね。やりがいはあるんですけど、今まで誰かがやってくれていた事を自分達でやらなければいけないですから。

 ツアーが終わってメンバーで飲んでいて、「やっぱりメジャーレーベルが付いている方がいいかな」という話をしていたんです。ちょうど、その居酒屋に徳間の人(編注=徳間ジャパンの担当)がいて。

――運命的な出会いが(笑)

 そこで徳間の方から「すいません、お楽しみのところすみませんがLUNKHEADの皆さんですよね」と来て、名刺をくれまして。ちょうどそういう話をしていたものだから「キタよ!キタよ!」となって。「俺らもドフリーだよ!」と言って。

――結ばれた訳ですね(笑)

 ええ。それがきっかけで徳間ジャパンで出させてもらう事になりまして。面白いですね。

――去年は日比谷野外音楽堂でもやられていましたね。徳間ジャパン所属となって、1年の計画などはありましたか?

 ありました。一昨年がデビュー10周年だったんですね。10周年イヤーでいろんなイベントをやっていて、その集大成として野音でワンマンをやろうと思っていました。だけど、なかなかタイミングが合わなくて。ようやく取れたのが10周年の翌年、つまり去年だったんです。満を持して野音でやれたという。

――苦労を重ねて自力で取った分、野音への思い入れは人一倍大きかったでしょうね。

 そうですね。ずっと憧れていましたし、イベントでも出た事がなかったので。観に行った事しかなかったんです。武道館とか大阪城野音では出た事あるんですけど、日比谷野音だけはどんなイベントにも出た事がなかったので、「これはワンマンでやれって言われているんだな、ロックの神様に」と思って。そういった訳で万感の思いがありましたね。

――これまで17年やってこられて振り返っていかがですか。2000年代は青春パンクやメロコアのシーンが賑わって、インディーズシーンが盛り上がった時代だったと思うのですが、LUNKHEADさんはその頃メジャーですよね。少し遅れてインディーズになったというイメージもあるのですが。17年での変化はありますか?

 今インディーズもメジャーもそんなに変わらないというところがありまして。わりと人気のバンドでも独立して自主レーベルを立ち上げますしね。「自分達でやろうよ」というのは多いんですよね。時代がというかインディーズはスタンダードになってきているなという感じはします。そういう意味では、僕らは徳間ジャパンからリリースしているけど、ライブのブッキングから何からプロデュース自体はほとんど自分達でやっているので、「囲ってもらっている」という感じよりかは、「一緒に作品を作るパートナー」みたいな感じですね。

試行錯誤を重ねて確立した詞の世界観

小高芳太朗

小高芳太朗

――曲や歌詞を書く面で変わった点はありますか?

 自分ではそんなつもりはないんですけど、「中二」とか「メンヘラ」とか言われていたんですね、暗い歌詞が多いから。20代の頃に「いつまでこんな事が歌えるのかな」という思いがあって、無理に明るい歌詞を書こうとしていた時代があったんです。「30代になってこんな歌詞を書いていたら痛いぞ」と思っていたんですけど、一回りして「一生これでいいや」と思って戻ってきましたね。3枚目ぐらいは無理にやたら明るくしようと頑張っていて「やっぱダメだ」ってなって。もっと暗くなりました。

――シングル曲に絞ってですが、2007年の頃に歌詞の書き方が少し変わったかなという気がしました。それまでは主観が入っていたのですが、この頃から情景から感情に移っていくというか、そういった印象を受けました。

 売れたかったんですね(笑)。売れようと頑張っていたんです。

――先程、小説の話が出たので、小説などにも影響された部分もあるのかなと思いまして。「夏の匂い」(2006年7月19日)の変化は著しいですよね。

 「夏の匂い」は、「夏ポテト」(カルビー)のテレビCMのタイアップだったので、CMの世界観で歌詞を書いたという部分はそれまでと違うかもしれないですね。

――「きらりいろ」(2007年5月2日)などはいかがですか?

 その頃は本当に売れたくて、デニーズで毎日みんなで「キャッチーな言葉とは何だろう?」みたいなことを話していました。売れている色んな曲の歌詞を研究して、「カ行がやっぱりキャッチーだ!“かきくけこ”が入るとキャッチーに聴こえる!」とか、「いや“らりるれろ”が入るとキャッチーに聴こえる」とかメンバーとマネージャーに言われて、そういう歌詞を書け、みたいな。

――そこで自分の感情が抑えつけられ、その反動があったと思うのですが、それはどういう曲で出ましたか?

 反動はそれこそ「夏の匂い」や「きらりいろ」が入っている4枚目の『FORCE』(2007年6月27日)から、次の『孵化』(2008年4月16日)というアルバムにかけてなんですけど、そこで一気に“ドバー”となりましたね。

――それらの作品からも、歌詞の世界観が少し変わってきていると感じます。それは、自分の感情をぶつけるという事も大事だけれども、「聴いてもらう」という意識を強く持ち始めたのでしょうか?

 それはやっぱりありますね。初期の頃の曲はデビュー前に作ったものが多いんですけど、お客さんが全然いない頃に作っていたのがほとんどなので聴いてくれる人が歌詞を書く向こうにいないんですよね。今は歌詞を書く時に、向こうに聴いてくれるファンの人達が浮かぶんです。その人達の為に歌いたいという気持ちもあるし。昔は自分の為だけに歌っていたので、そういうところはすごく変わりましたね。

――曲の作り方としては、歌詞と曲と同時進行なのか、それともどちらかが先行するのでしょうか?

 基本的には曲が先ですね。95%くらいは。

――メロディはふと浮かんだ時などに曲にするのでしょうか?

 どっちもありますね。「作るモード」というのがあって、締め切りに追われると出てくるタイプなんですよ。1年間で週に1曲を作る事が出来たら、50曲は作れるじゃないですか? でも普段は何にも出てこないんです。この頃にリリースがあって、この頃にツアーを組むから、ここら辺にレコーディングするという感じで年間スケジュールを組むんですけど、そうしたら「曲が要る」となって、曲を作り始めて、だんだん出てくるようになってくるんですよ。「俺今、キレキレだな!」みたいな状態に。重要な曲はだいたい最後の方に出てきますね。だから「ホント、もう曲できないんだけど…!」と言っても、メンバーに「またまた(笑)出てくるんでしょ? どうせ!」とか言われちゃうんですよね。もう軽い感じで「いやいや、今度こそ間に合わないって…!」「いやいや出来るって!」という感じですね。

――そのタイミングで深層部分が表に現れてくるといいますか、読んだものや、見てきたもの、経験してきたものなど、これまで溜め込んできた情報が形となって作られていくのでしょうね。追われる事でひらめきというカタチで。

 そうですね。歌詞もそうで、追い込まれてから出てくる感じですね。

小高芳太朗

小高芳太朗

――それだけ溜め込まれている情報量や、考えている事がある気がします。

「こんなにいっぱい作っちゃったら、もうだいたいは言い尽くしたよ」みたいな(笑)。いつも「もう出ねえよ!」とか思っているんですけど、気付いたら出来ているんですよね。

――そういった点において「経験」はたくさん積んだ方が良いと思いますか?

 思いますね。

――曲作りの為に旅に出てみたりという事は?

 ツアーで日本中回るのが半分「旅」ですよね。

――ツアーの先々でどういった楽しみ方をしている、などありますか?

 メシくらいしかないですかね。移動して、ライブして、移動して、というのが多いので。下手したらご飯もサービスエリアになっちゃいますからね。観光とかはほぼないですね。

――サービスエリアなど、ふとした情景などから後々「あれはあの時の」など、インスパイアがあったりする事などあったりしますか?

 サービスエリアではないかな(笑)。でも去年、松山でライブをした時に、ライブハウスの近くがアーケードで、そこに小学生の俳句コンクールみたいなものの佳作を展示している所があったんです。「スゲエな」って思って。小学生の感性はすごいなって歩いていましたね。こういうアンテナをなるべく張っていたいなと思いますね。もう常に。

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